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八代将軍徳川吉宗の長女椿姫の事を・・:・
どなたか知っている方が居ましたら徳川吉宗の実子の椿姫の事を教えてください?誰の側室に入ったか、死因は何か?などです どなたか本当に教えてください。
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#2、5です。 > 先日僕の彼女に霊が憑依しました。 これを信じるかどうかは別として、歴史に関することから詰めていきたいと思います。 まず、父親だという「徳松公」というのは、征夷大将軍のことを指すわけではありません。 「徳松」は、五代将軍・綱吉の幼名であり、その子も「徳松」という名前ですが、これはあくまでも子供時代の名前です。 また、この2人以外に徳川家関連では「徳松」という名前はみつけられませんでした。 父親の名前なのにそれが幼名なのはおかしな話ですよね? ちなみに、椿姫が父親だと言っている吉宗の幼名は「源六」です。 成長してからは「新之助」(TVの「暴れん坊将軍」で名乗っている「徳田新之助」はおそらくここからですね)も使われていましたが、徳松を使った形跡はありません。 御三家の紀伊家(紀州徳川家)の歴代当主の幼名を見ても、初代・頼宣:長福丸、二代・光貞:長福丸、三代・綱教:長光丸or長福丸、四代・頼職:長七で、五代目が吉宗(1696年に元服した時の名乗りは頼方。1705年に紀州藩主となって吉宗と名前を変えます)。 ですから、吉宗に至るまでの「御三家の紀伊家の姫」の父親に、徳松という名前の人間はいない-ということになります。 確かに、和歌山城で働いていた女性に、お城の若様の「お手がついて」子供ができるということはあったと思います。 実際、吉宗の母である「お由利の方」は、巨勢氏の出身とされていますが定かではありません。 在郷の百姓の娘が、巨勢氏の養女分としてお城で下仕えをしていた-という説もありますし、将軍の生母が百姓の娘では体裁が悪いから巨勢氏の養女ということにした-という説もあります。 そして、お由利の方は湯殿の係で、光貞の入浴の手伝いをしていた時に、光貞の「お手がついて」吉宗を妊娠した-と言われています。 仮に、椿姫の母親が和歌山城で働いていた時に、吉宗の「お手がついて」妊娠し、子供を産んだとすれば、いくら身分が低くてもこのお由利の方のように側室になっていたと思われます。 #3さんがおっしゃっている天一坊(天一坊はあくまでもオハナシで、歴史上では「源氏坊」と名乗る者の存在が見られます)のような存在は、お城に仕えていた女性ではなく、出かけた先などでの「ツマミ食い」をして、偶然にも出来てしまった子-の場合でした。 天一坊の場合は、「もし子供が出来ていたら、これを持ってお城に出向くように。」と言って葵の紋が入った脇差を渡し、十数年後にその脇差を持った者(天一坊)が現れた。吉宗が真偽を確認するように大岡越前守忠相に命じたところ、大岡が逆に吉宗に対して「実際、和歌山時代にそのようなことがあったのか。」と尋ねたところ、吉宗は「複数心当たりがある。」と答えた-という話でしたね。 それにしても、椿姫本人が「姫」と言っている割には、姫扱いされた形跡もない(文献等に残っていない)ので、その点は不思議です。 側室になった-ではなく、側室に「入る」という言葉は、どちらかというと身分がある人が公的に側室となる場合に使いますから、吉宗の庶出の子ならばそれを明らかにしているはずですし、そうであれば、史料・文献等にも記録があるはずです。 「米将軍」、「目安箱」、「鷹狩に良く出かけていた」などの話は、現代にも知られている話なので、その内容の何を以ってpochichanさんが「本当の話だと確信」されたのか分からないのですが…。 最後に、 > 当時の吉宗の質素、倹約な生活とは全く違い豪華な生活を送っていた人物らしいです。 > 同じ御三家の領主であり吉宗とは対立していた徳川 なんとか。 これは、徳川御三家の1つ、尾張徳川家の七代当主・徳川宗春のことでしょうね。 私は、その尾張家の地元・名古屋(しかも尾張徳川家の菩提寺の近く)に住んでおり、かつ、短大の地方史の授業でかなり勉強をさせていただきましたので、間違いないと思います。 宗春のことはちょっと調べていただけば、ネット上でもゴロゴロ出てきますが、ご参考程度に。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5 http://homepage3.nifty.com/higemaru/page097.html > 子供も1人産んだみたいです。 宗春には正室がいません。 側室は、梅津、民部、伊予という3人が記録にあります。 側室との間に2男7女があったという説もありますが、この数も定かではありません。 江戸(市ヶ谷)藩邸において、嫡子万五郎の端午の節句でのたくさんの幟を立てた-とされていますし、後に近衛内前の室となった勝子という娘がいたという記録もあります。 記録されている3人の側室については、生没年も氏素性も分かりません。 もしかしたら、このうちのいずれかがpochichanさんの彼女さんに降りた「椿姫」なのかもしれませんが、残念ながらそれを確認する術はありません。
#2です。 #4さんが仰っているのは、(先代(七代将軍・家継)ではなく)五代将軍綱吉の養女になった「竹姫」(1705年生1772年没)のことで間違いないでしょう。 竹姫の実父は大納言 清閑寺熙定。 清閑寺熙定は、綱吉の側室の1人・大典侍の局の兄弟ですから、大典侍の局には姪に当たり、その縁で綱吉の養女になったと思われます。 そして、#4さんがおっしゃるとおり、吉宗はこの竹姫を継室(2番目の正室)に迎えたかったようです(吉宗は正室の真宮理子女王を1710年に亡くしており、将軍職に就いた時には正室がいなかったため)。 しかし、竹姫は綱吉の養女となっていることから、系図上では吉宗の大叔母にあたることになり、認められませんでした。 その後、竹姫は薩摩藩主・島津継豊の継室となっています。 この際(1729年説と1731年説があり)、島津継豊にはすでに側室に男児が2人(後の薩摩藩六代藩主・島津宗信と七代藩主・島津重年)が生まれていた(1728年生まれと1729年生まれ)こともあり、島津側は、この後、万が一、竹姫に男子が生まれても後継にはしない-という条件を出し、ほかにももっと幕府側には不利な条件を呈示したにもかかわらず、すべて許諾して、何とか竹姫の輿入れを実現させようとしたことなどもも、竹姫と吉宗の関係が云々言われる所以ですね。 竹姫が島津家に輿入れする際、再度吉宗の養女になった-という説もありますが、綱吉の養女のまま徳川家の姫として輿入れした-という説もあり、こちらは定かではありません。 http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m352.html 公式、もしくはそれに近い文献に記録が見当たらない以上、#3さんが仰っているような「オハナシ」の中だけの存在かもしれませんよ。 そんな人物の経歴や死因を調べることは、無理だと思うのですが…。
- tatsumi01
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椿姫については知りません。 テレビで見ましたが、吉宗が大奥で見初めた女性があって、尋ねたら先代の姫だったとのこと。血はつながっていなくても、戸籍 (?) 上は兄妹です。大奥を取り仕切る女性の反対でその恋は実らなかったそうです。 関係なかったら申し訳ありません。
お礼
回答ありがとうございます。吉宗の自分の子みたいなので、違うみたいですね。
一応自己補足。 徳川家にからんでの椿姫で歴史に残るのは、 http://homepage3.nifty.com/hama-vg/sub3.htm この位でしょうか。 しかし、吉宗はお手つきが多くて、後に天一坊事件など起きますの で、紀州時代の云々といった「講談」が、あったようですね。
椿姫? 歴史を専門に勉強したものですけれど、聞いたことありませんね。 pochichanさんが知った情報の出所(歴史書、文献などの名称)を教えていただけると助かるのですが…。 徳川吉宗の子供としては、9代将軍になった家重(1711-1761)、田安徳川家の祖となった宗武(1715-1771)、一橋徳川家の祖となった宗尹(1721-1764)のほかは、1719年生まれで当歳で亡くなった源三、1722年生まれで当歳で亡くなった芳姫だけだと思います。 ですから、徳川吉宗の長女は(#1さんが仰るように)芳姫だと思うのですが…。 女児で確認されている実子はこの子だけですし。 ほかに、正室の真宮理子女王が1710年に流産、側室のお須磨の方(家重の生母)が1713年に死産をしていますが、このいずれかが女児だったとしても、死因(といえるのかな?)は流産か死産ですし、誰かの側室に入ったりもできませんよね。 あとは、将軍家に入った吉宗の後を受けて紀州藩主となった徳川宗直の娘(利根姫)を養女として、陸奥仙台藩主・伊達宗村の正室にしていますが…。
補足
みなさますみません。回答および補足が遅れまして。 補足ですが・・・このようなお話をみなさまにしても信じてもらえるかどうか・・・。先日僕の彼女に霊が憑依しました。その霊に何処の誰かを聞いたところ御三家の紀伊家の姫だといいました。さらに詳しく聞い父親の名前などを聞いたら、始めは徳松公といいました。徳松公とは将軍の事を言うらしいのですが、吉宗の娘の椿姫だといいました。母親は正室でも側室でもない和歌山城で働いていた女らしいのです。始めはにわかに信じがたい話だと思っていました。ですが米将軍、目安箱、鷹狩に良く出かけていたなどの話をよく話しているうちに、本当の話だと確信しました。
芳姫では?
お礼
回答ありがとうございます。違うみたいですね、年齢は享年19歳で、徳川吉宗の親戚にあたる人物の所に側室として入ったらしいです。当時の吉宗の質素、倹約な生活とは全く違い豪華な生活を送っていた人物らしいです。以前調べた時にそのような人物は、同じ御三家の領主であり吉宗とは対立していた徳川 なんとか。の所の側室に入ったみたいです。子供も1人産んだみたいです。
お礼
こんなに真剣にさまざまな事と照らし合わせて、回答されて誠にありがとうございます。やっぱり側室に入ったの徳川宗春みたいですね。あまり生きていた当時の事を覚えていないのが残念ですが・・・。 本当にありがとうございました!!