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「生き方」について
よく、年配の方が生き方について話しておられるのを耳にします。 うちの父も、「あの人の生き方は好き」だとか「嫌い」だとか言っていますが、私にはイマイチ「生き方」の意味が漠然としていてよくわかりません。 質問としては ・「良い生き方」「悪い生き方」っていうのはどういうものですか? できれば、具体例を出していただけるとわかりやすいかと思われます。 よろしくお願いします。
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- magga
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一般的に皆が言うことは好みですので当てになりませんよね。 仏教的に言えば、 自分の為になること 他人のためになること 自他共に役に立つこと (条件)迷惑を自他共にかけない をやってる人が良い生き方をしてる。 具体例は… 怒らない 欲張らない 分け合う 物事を理解できるようになる 謙虚になる 現状に満足感を感じるようにする 忍耐力をつける 悪い人たちから離れる 良い人たちと付き合う 尊敬すべき人を敬う 両親家族親族の面倒を見る 仕事の技術を学ぶ 自分にとって簡単な仕事をする 人の役に立つ仕事を選ぶ 正しい言葉を選んで柔和に話す 助けるべき人を助ける 決して悪いことをせず道徳的人間になる なすべきことに呈して怠らない 支えてくれたものに感謝の気持ちを育てる 酒麻薬をやめる 威張らない 実践しやすい修行をする 性欲から離れる こんな感じですかね。
- 参考URL:
- http://www.j-theravada.net/
- 1-3-5ran-chan
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☆良い生き方=「自然な生き方」 これに尽きると思います。 もちろん、とてつもなく漠然としてはいますが、「心に自然を持った生き方」は、梅には梅の自然があるように、桜には桜の自然があるように、千差万別、生き物全て違っています。 反対に ×悪い生き方=「不自然な生き方」 これに尽きると思います。 もちろん、これもとてつもなく漠然とはしていますが…つまり、「梅が『桜になりたい!』と思って行動する生き方」「ハイエナが、『狼ってかっこいいな~…俺も狼になりたい!』と思って為す生き方」と言いますか。 「自分のポテンシャルに無いものを表現しようとする生き方」と言えば分かり易いでしょうか? で、 人の中には『善』も『悪』もあります。どちらの要素が多いか少ないか、の違いはあれ。 その、『どちらのポテンシャルも表現し切るのが、良い生き方』だと思います。 そういう意味で、『良い生き方』をした人の例… (1)キリスト (2)ヒットラー 『悪い生き方』をした人の例… (1)マリア (2)徳川家康 …(1)はともかく、(2)を持ってきたのは、『悪』でも表現すれば良いのだ!ということを敢えて云わんが為、です。もちろん、他にも数え切れない位、『良い生き方』をした人たちはいますが、(1)が『善』の頂点、(2)が『悪』の頂点、で「良い生き方」の手本、と言えると思います。 (1)マリアはですね…「性の表現を抑える倫理を作った」点が『悪い生き方』ですね。『食欲』『性欲』『睡眠欲』これ生き物の三大欲求ですが、そのうち『性欲』だけは他二点と較べて格段に賤しめられて、恥ずかしいこととされてきましたからね~… 性欲も、生物に必ずある…ポテンシャルとして、絶対に持っているものなのに、その表現をすることを「いけないこと」として人類全体の潜在意識に植え込んで来ちゃいましたからね~…この罪は重いです… (2)徳川家康は、まあ、格段に落ちて、普通に…侍を、サラリーマン侍にするシステムを作り上げた⇒侍の、戦う気概を奪った⇒野生を発現する場を奪った、というチャートで、これもまた「人がポテンシャルを表現することを抑える」働きをしたから、ですね。 反対に、(2)ヒットラーは、人類史上でも稀に見る『悪』を表現した!立派に表現した!皆、ポテンシャルとしては持っていても表現できなかった『悪』を露堂々と表現し、滅んだ後も、人類でも稀に見る『悪人』と評価され続けている…! 素晴らしい…!!! もちろんこれは、ヒットラー程の偉大な才能の持ち主だから、これほどの『悪』を為し得たと思いますが、こんなに大きな『悪』じゃなくても、人の心には必ず大なり小なり『悪』は潜んでいるはずです。 その『悪』を表現する…ただ、現代という時代はヒットラーそのものは求められてはいない(少なくとも行為そのものにおいては)から、 『現代』という時代に則した『表現方法』で、表現をする…! これですね。 全然難しいことじゃありません。 「言いたいことを、言う。」 それだけです。 「やりたいことを、やる。」 それだけです。 そして、 「言ったこと、やったことには責任を持つ」 これが加われば完璧ですね! まあ、つまり「人の目を気にしない」で、かつ「刑法に触れない」で、かつ「長い目で見れば、人類の役に立っていた」その上、それを「楽しんでやっていた」となれば最高ですね! どうです? 難しいでしょう?ヽ(*^^*)ノ 「良い生き方」「悪い生き方」を気にする時点で、もう「人の目を気にしてる」から…
こんにちは、それでは早速。 そもそも「生き方」というのは100人の人間に質問すれば100の答えが帰ってくるというようにさまざまな答えがあります。でもまぁ、「人間」として最低限やるべきこと、やってはいけないことを守る事はおそらくたいていの人が「良い生き方だ」と言うでしょう。ちなみに具体的な例は↓です。(でも100%そうとは言えませんよ。あくまで私の意見です。) 良い生き方の例 とにかくすべてのことに対して考える 奉仕し、奉仕される など 悪い生き方の例 犯罪を犯す 自分にされて嫌な事を人にする など
- kneissl
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#11、kneisslです。 >私は「善悪の評価が時とともに変わる」というのはわかりますが、「善悪がない」というのは、ちょっとわかりかねます。 「本質的に善悪がない」の「本質的に」というところをもう少し解釈していただけるとわかると思うのですが、自然な状態で手放しで「善」「悪」が存在しているのではないということです。「善」「悪」がもとからそこにあるのではなくて、人間が対象に評価を与えているに過ぎないということです。我々がヒトラーを「悪」と捉えたり、ガンジーを「善」と捉えたりするのは、それぞれを権化として見なしているからに過ぎません。ヒトラー自身やガンジー自身が「悪」「善」なのではなくて、我々が彼らの行為を評価して「悪」「善」というレッテルをペッタリと貼り付けたので、われわれはある意味それを共通認識として共有することができるのです。それはいろんな事物事象に対しても同じです。我々はいろんなものに「善」「悪」のレッテルを貼って色眼鏡で見ていますから、「善」「悪」というのが当たり前のように存在している、「本質的に善悪がある」のだと勘違いしてしまうのです。例えば、ブルーカラーの仕事を高卒の人がする仕事だからと考えて、子どもにもっと「いい仕事」に就きなさいよという人がいます。でも、肉体労働が「良い」か「悪い」かなんていうのは、その仕事の中にはなくて、その本人の主観性、嗜好に大きく拠るところがあると言えます。だからと言って、「善」「悪」の評価なしに物事を判断するのは不可能です。個人の思想の中に「善」「悪」という評価がないと、行動規範が存在しません。「善悪」の個人的評価は個人の思想の根幹をなすので必要だとは思いますが、我々は与えられた概念をそのまま鵜呑みにして、一部では安易に「善悪」の評価をしていないかというところを考えるべきだと思います。そういった意味で、“本質的に善し悪しがあるのではないという位置に立ち戻って、それでもなお自分の考えとして「良い」のか「悪い」のか”判断するという点を強調しました。ご理解いただけたでしょうか。ですから、「良い生き方」「悪い生き方」なんていう捉え方自体が、やや短絡的で危険な感じさえします。もし、それで「良い」の評価を与えてしまったら、そこからはずれた人間の人生を「悪い生き方」なんだというような言い方に繋がってきますから、私はもっと大きく捉えて、人の生き方で評価すべきところはして、評価すべきでないところはしない、でもどんな「生き方」だって「良い」も「悪い」もないんだ、ぐらいに思っていたほうが自分の人生を形成する上で、枠組みを規定してしまわないという点で有益だと思います。
すみません、お騒がせしております。 長いと読みづらいということに気がつきました。短くすると禅問答になります。 良い生き方 とは 良心と欲望の両立 ただ、納得できても、生き方を実践する方法を知らなければ無価値です。 生き方が「良い」と評価できるとはどういうことでしょう。 良いというのは、合目的的である・・つまり、うまく目的を達成しているということが 必要です。 志が正しいとか、倫理的に価値があるとかいうことは必要条件でしょう。 人類への貢献、地球環境への貢献、国内経済への貢献、社会福祉の向上への貢献 親孝行・・・これらが、相互に矛盾することは大いにあるにしろ、何かに貢献する 志があって、自分の欲するものと合致して、なおそれがうまく行った場合 それは、良い生き方と言えるでしょう。 でも、次の人が同じ志で同じことを目指してうまくいかないこともあります。 良い生き方は 往々にして 単に 運の良い生き方 だったりします。それでは、良い生き方を実践するには 文明の進化のベクトルが、農耕社会、工業化社会から情報化社会へ移りかわったことと 無縁ではないです。 目的を達成するためには、より多くの情報を集め、仮説を立てて仮説を検証しながら 成功シナリオを組み立てていく。 十和田湖にヒメマスを放流して養殖にトライした和井内貞幸も、地場の葡萄を改良して ワインを造った池田町町長も、ともにふるさとに産業を興そうという志で、情報を集め試行 錯誤の末に、さまざまな仮説(あーでもないこーでもないと)を立てては潰し、検証しては また練り直し、やっとの思いで、目的を達成した。 努力・・・というのは、闇雲に汗水たらすことではもちろんないし、人の指示に従って 与えられたことをコツコツこなすことだけでもない。ましてや、運命に翻弄されながら 苦しみ耐えるということだけではない。 主体性を持つためには、根底に自分が「やりたい」という欲求があって 自分がやらねば誰がやるという使命感と「やるべき」という良き心が 必要。 そのうえで確実に成功させて満足を得るには、情報収集と分析とシナリオプランニング など戦略が必要ということを申し上げたかったのです。 成功確率が高くないと決して「良い生き方」とはいえないです。 下手な生き方は、他人の学習材料にはなるけど、良い生き方という中には、技術論が 含まれると私は思います。 精神論やお経やスローガンで良い生き方が手に入るなら、これほど楽なことはないです。
- kneissl
- ベストアンサー率30% (97/320)
「良い」か「悪い」かは、本当のところはわからないので、追究不可能だと思います。我々が「良い」「悪い」といっているのは、「良いとされている」「悪いとされている」ということであって、善し悪しが事象や物質の中に本質的に包含されているわけではないのは確かです。ですから、イラク戦争が「悪い」とか、慈善活動が「良い」とかですね、それは人が与える評価ですから、その好意や事象の中には何もないですね。つまり、本質的に「良い」も「悪い」もない。善も悪もこの世の中にはないということです。我々は役割を与えて、「善」「悪」としたり、「良い」「悪い」としてるだけです。だから、個人としてなにかを評価する時には、すごく冷徹な眼差しがある種必要だと思います。本質的に善し悪しがあるのではないという位置に立ち戻って、それでもなお自分の考えとして「良い」のか「悪い」のか、そういう捉え方をしないとまやかされてしまうということもありますね。つまり、それは損をするっていうこともあると思います。精神論のレベルだけではなくて、実際に詐欺にあったり、なにかを失ったりすることもあるでしょうということです。 最後に「生き方」についてですが、「生き方」っていうのは、つまり、個人が有する思想の表出ではないでしょうか。好ましい「生き方」とは、個人の理想と合致する思想の表出様式の体系だと思います。すごく観念的ですいません。
目標には、 (1)達成可能な目標 (2)達成したいと願う目標 (3)達成すべき目標 の3種類があると書きました。 有名な建築家に、安藤忠雄という人がいます。 今から30年前の1975年頃には、建築雑誌にたまに作品が載る 住宅作家の1人でした。当時芦屋の金持ちの住宅をてがけたり、 神戸の商業建築を手がけたりしていました。 それより10年前、彼は全くの無名、しかも大学の建築学科など 正規の建築教育を受けず、ヨーロッパの建築を無銭旅行で見てまわる というようなことをしていたらしいです。 彼のミッションもビジョンも極めて明快です。 ミッションは「ものまねでない、オリジナルの建築を作る」 これは、まさに一介の高卒のボクサーあがりの無名の男を 凡人と区別した一線だったわけです。 東大教授にもなって、日本を代表する建築家になった安藤を結果論的に 語るのは極めて容易です。 ただ、安藤忠雄の話を聞きながら感じるのは、彼の強い使命感に支えられた 「諦めない心」ですね。 30年前、彼はまだ当時何百人といた「若手建築家」の1人として、住宅 特集に名を連ねる程度の活躍でした。 その後、実兄のプロデューサー 北山孝雄氏と組んで、商業施設などを手がけ 10年後、38歳の彼は住吉の長屋で建築学会賞を受賞します。 おそらく、安藤のビジョンには 「建築学会賞を得る」ということは、「数多くの建築を手がける」という目標の 一貫としてビジョンに組み込めれた目標であったことでしょう。 学会賞を受賞した作品もまさに、彼のミッション「ものまねでない、オリジナルの建築を作る」 ことを体現したものでした。 http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2003/andou.html 20年後彼は、数々の国際コンペに入選を重ね 日本を代表する建築家として、海外の大学の客員教授、名誉教授に指名されるとともに 槙文彦、丹下健三などが席を置いた東京大学建築学科教授に就任するのです。 そして、その後も、安藤はたゆまず自らのミッション 「ものまねでない、オリジナルの建築を作る」 ことにまい進しています。 わたしは、よい生き方の手本がここにあるような気がします。 ただ、それは、「みずからのミッション・ビジョン」を高く掲げ躓いても蹴飛ばされても あきらめずにまい進したという意味においてです。 たまたま、質問者さまのお父様が建築設計一筋というお話だったので、ふと思い出した のです。 安藤忠雄の生き方をふりかえって、学べることは、常に、不可能ではないけど困難な 目標をたてて一歩一歩進んできていることです。達成できる目標を掲げないと 不可能なことはいつまでたっても不可能なのです。 「あした、伊藤美咲さんとデートする」 そんな目標は、おそらく不可能でしょう。でも、ある種の仮説を立てたら、不可能かどうか わかります。仮設というのは、仮にこういう条件が整えばどうだろうと、空想することです。 その空想の可能性を検証する。これが「よい生き方」にとってとても大切なことです。 どうも伊藤美咲さんは、DA PUMPのISSAさんとおつきあいしているかもしれないという 噂を耳にしたとします。もし沖縄出身の部下が辺土名一茶の同級生だったとしたら どうだろうかとか、いろいろ考えるわけです。まぁそれでどうこうできるわけではないです が、とにかく、伊藤美咲さんの情報を集めリサーチして目標の実現可能性を検証して 実現すべき目標、実現したい目標を仮説を検証しながら定めていきます。 とにかく、一里塚の目標を定めたら、それを着実にクリアすべく実行し、振り返って 確認する。評価するプロセスがなくてはいけません。 先の安藤忠雄だって、コンペに何度も落選し、そのたびごとに考えを練り直し新たな作戦を 考えて臨んできているのだと思います。 目標を立てるのに必要な条件は5つ (1)シンプルな目標であること 今年中に彼女をつくる でも 売り上げを20%向上させるでも でも 〇〇会社の社長になる でもいいです。 (2)具体的であること なるべく、数値や固有名詞をあげて 今年中に 山田◆子ちゃんを彼女にする 〇〇の販売で自分のノルマを120%達成する 59歳になるまでに〇〇会社の社長になって会社を建て直し 中興の祖と呼ばれる とか表現します。 (3)成果が評価できる目標であること 具体的にどこまでやるのかレベルが示されていないといけません 今年中に、山田◆子ちゃんを彼女にして、彼女を自分に夢中にさせ 100万円貢がせる とか 〇〇の販売でノルマ120%達成して、ボーナス60万円上乗せを勝ち取る とか 59歳になるまでに〇〇会社の社長になって会社を建て直し 中興の祖と呼ばれ、会社に自分の銅像が建ち、私のつくった社訓が歴史に 残るとか (4)とにかく、その目標をいつまでに達成するかきめておくこと 今年のクリスマスまでに、山田◆子ちゃんを彼女にして、彼女を自分に夢中にさせ 100万円貢がせる 来年3月末までに〇〇の販売でノルマ120%達成して、ボーナス60万円上乗せを勝ち取る とか 2012年の4月までに〇〇会社の社長になって会社を建て直し 中興の祖と呼ばれ、会社に自分の銅像が建ち、私のつくった社訓が歴史に 残る (5)目標をさらに20%上回る目標をめざそう 実際、目標を達成して自信を得るためには、目標をさらに20%上回る必要がある。 目標はオーバーして努力過剰と反省するものではない。 むしろ、周囲の賞賛と驚嘆を集め、本人に自信がわく。 よい生き方のためには、100%目標達成に甘んじることなく、120%にチャレンジし続ける ことが大切なのです。 このように、ミッション・ビジョンから目標が定められたら あとは、情報を集めて、集めた情報を分析して 仮説の立案をして、仮設を実際にトライして検証する ことの手順の中で ストーリー(手順のシナリオ)を考え、それを具体化し行動計画を立て、実施し結果を評価し 新たな目標を立てるというサイクルを繰り返して、レベルをあげていくのです。 良い生き方とは、実は「良い考え方」が前提にあるのです。 さて、その次には、SWOTとシナリオプランニングですけど、これって基本的に商品の販売戦略の イロハなんですね。 これを人生に応用したらどうなるかって、基本的にビジネスは人生の一部ですが、ビジネスの方が わけのわからない精神論がないだけに応用が利くのですね。 さて、シナリオプランニングは次回です。 うざいからもうやめろという場合遠慮なくおっしゃってくださいませ(^^; というか、 >・「良い生き方」「悪い生き方」っていうのはどういうものですか? >できれば、具体例を出していただけるとわかりやすいかと思われます。 っていうのを原稿用紙25枚以下で表現しろってのに無理があります。 いい足りなくて、誤解されるのと、方法論として役に立つレベルに至らないからです。 言っていることは正しくても情報として活用できないというか・・・。 すべての文学は「よい生き方とはこういうものだ」というサンプルなんですが、具体的に語りはじめると大抵原稿用紙400枚になったりします。
補足
何度も回答していただきありがたいのですが、なにしろ長いので、時間があるときにじっくり読ませていただいてお礼したいと思います。
さて、3回目ですね。 前回、目的と目標を明確に意識していきることが、「良い生き方」のためには 大切だと申し上げました。 ここで目標というものをさらにつっこんで考えてみましょう。 「建築家として生きる」という目的のためには 「建築学会賞を受賞する」とか、「自分が主催する建築設計事務所を300名 の組織にする」とか「作品集を出版できるほど、多くの作品を残す」とか 「たとえ名前は売れずとも施主から喜んでもらえる仕事をする」とか 「名前を売って、仕事を評価してもらって、少しでも多くの仕事を得る」 「世界的に優れた作品を残して、日本の建築界の名声を高める」 「とりあえず、自分の腕を磨く」 とか、いろいろあります。 これらは、実は3つに分類できます。 1つはミッション、(人生の大きな使命感)からくるもので、これは 「達成すべき目標」です。 ミッションが「建築を通じて、世の中に役に立ちたい」というレベルならば 「達成すべき目標」は「現場監督として、品質の高い建物を数多く世の中に 残す」ということでもアリだし、 「建築雑誌の編集者になって、日本の建築に対してもっと世間の注目を あつめる」 ということもアリです。 一方、ビジョンからくるのは「達成したい目標です」 ミッションが「日本を代表する建築家として人々が感動する作品を残す」 であれば、目標は「アトリエ事務所で修行をつんでいち早く独立する」 「大きな仕事の機会を得るために、さまざまな分野で、自分を売り込む」 「建築ジャーナリズムで注目を集める作品を残しながら施主の信頼を勝ち得る」 などの細かいステップが求められるでしょう。 多くの人が人生で、失敗するのはビジョンの大きさに対してミッションが低いから です。 人は、「やりたいこと」と「やるべきこと」が重なると、その葛藤に苦しむことが多いです。 でも、「良い生き方」とは、決して無理に「やるべきこと」を優先する生き方ではありま せん。「やりたいこと」を目指しながら、やるべきことも同時に達成できる生き方なのです。 それは、ひとえに目標設定のありかたにかかっているのです。 「ケンチャン、宿題をやってからでないと遊びにいってはいけませんよ。」 お母さんは、いつでも友達と仲良くしなさいと言っている。でも、宿題をなまけずに こなせとも言っている。 それなら、まず遊んで、帰宅してから宿題をやるというのではなぜいけないのか・・ あるいは、友達と一緒に宿題を片付け・・・ってそしたらすぐに夕方になってしまうし とにかく、良い生き方というのは、葛藤をどう円満に調停していくかということと 無関係ではなさそうです。 人は、知らず知らずのうちに、整合性のない複数の目標を掲げてしまうものです。 人間50代になると、豊かなグランドエイジライフを堪能するために 美味しい料理を食べたり、高いワインを飲んだり、不摂生の毎日を過ごし いつしか肥満が進んでいきます。 でも、一方で、カッコよく生きたい、いつまでも異性から魅力を感じる存在でいたい などという希望もあったりするから、あわててジムに通って腹筋を引き締めにかかる ここは、やはりミッション(生きるうえでの大いなる使命感)の不明確さが否めない という気がします。 50代のオヤジのミッションとしては「若い世代に幸福の手本を示す。」とか 「家族に日々の幸福感を実感させる」とか「不安な世の中を少しでも安定させる」 とか「景気回復のために社業を通じて経済を活性化する」とか・・・ 「地域社会の円満なコミュニティつくりのために役立つ」とか とにかく、「大義」となる大いなる貢献が必要ということなのです。 人は、ひとに役立つために生きているのであって、自分の欲望を実現するためだけに 生きているわけではありません。 お金を儲けたり、大きな名誉を勝ち得たとしても、その機会やステージを作ってくれて いるのは、他の人々なのです。 しかし、逆に、ミッション「貢献や使命感」ばかりに重きを置いて、そのなかに埋没した 人生というのも、これまた「良い生き方とはいえません」 お国のために死んでいった、戦争中の日本兵。 子供のために、夫のギャンブル・浮気・浪費癖・暴力・無理解・意思疎通のなさに 耐えて、ただひたすら耐えてきた妻。 これも「良い生き方」とはいいがたいです。 会社一筋滅私奉公・・・子供一筋忍の一字、そういう夫婦が熟年離婚の危機を迎える などという話は、世の中にいくらでもある。 でも、一方で、自分勝手にやりたいことを散々やりつくして、家族にも友人からも見放され て一文無しになって淋しく安酒をあおる五十男もいます。 運良く議員バッジを手にしても、自分の欲望しか語れずに、少しもミッションをわきまえない 国会議員もいます。 人は、欲望のビジョンを語ることには長けてきています。それは世の中が豊かになって 幸福が具体的に目に見える姿でプレゼンテーションされてきているからです。 都心のマンションに住み、BMWに乗って、六本木でうまいレストランに通う。 でも、ミッションを心に描くことは逆に怖ろしく困難な世の中になってきています。 そういう意味で、起業ブームというのがあって、とりあえず金を稼ぐというビジョンと 事業による社会貢献というミッションが両立できる手立てに、意識ある人々の関心が むかったともいえます。 会社のなかでも、若い人はマーケティングをやりたいというのも、実は自分が成績を あげて、昇給昇進するというビジョンのみならず、会社の業績に貢献してさらには社業 がいかに社会に貢献するかというミッションを実感したいからではないでしょうか。 ミッションを明確に意識すること、さらには自分のビジョンと見合ったミッションを描くことで はじめて、個々の目標が矛盾するものでなくなります。 やりたいことと、やるべきことの整合をはかる・・・そのためには、大義や使命と 欲望願望のバランスを計る これが、良い生き方の第一条件という気がします。 そうはいっても、その実現は難しいので次回は、どうすれば目標の整合が可能か というところをみていきます。
- hiro686868
- ベストアンサー率50% (2/4)
・良い・悪いの定義 ・生きる事 ・自己が良い生き方をすれば良いのか ・他者が良い生き方と思われるよう(作為的でも)な生き方をすれば良いのか ・悪い生き方はしたくてできるか ・悪い生き方をしたいという心理 論点が多いですね。 良い生き方とは、自他問わず、人生の最後の最後で、善や神による力があった人物だったのだ と自然と思える生き方。作為的な演出も可能です。残念なことに、古来から誇張はあったようで、特に本当に現代は、広告、出版、等で作り上げたでっち上げを伝えて、良い生き方だったと思わせる、良い生き方をしていると思わせて従がわせる、などの戦略があります。就職の面接が良い例です。 悪い生き方とは、人生の最後の最後で、悪や魔物による力があった人物だったのだと思われてしまう生き方。出生→15歳で殺人→無期懲役→獄中死 は、良い生き方か悪い生き方か。。 自身の望んでいる生き方は仮設のため、又その生き方像の構築は周囲、文書、情報による構築によるため、社長どうしなら他の社長、力仕事の労働者なら他の力仕事の労働者というように、同じ水平線の情報を得様とまずしてしまいます。これを超えようとして超えられたら良い生き方ということになるのかもしれません。その背後に神の力があると思われるならなおさらと思います。水平線は何重もあり、それをヒエラルキー(階層)として定義してしまったのはヒンズーのカースト制度のごとくです、日本では見えていませんが、階層があるのは分かると思います。日本は資本の自由が認められているため、経済を中心としてヒエラルキーが作られておりやはり良い生き方は、経済力 という中心線があります。それが先進国とよばれる国々はそうなのです。 力仕事から社長になりました。しかし、事業に失敗して億の借金を持ち、自殺しました。は良い生き方か・・ 力仕事から社長になりました。そして、事業に成功して、億の利益を持ち、政治の世界にも生きました。は良い生き方か・・ 特に日本は、上昇志向を求めますので、疲れた、だるい、具合が悪いので休むは、自分の 理想 を怠る行為として嫌われますね。 結果として、良い生き方は、自分が自分のできる範囲で十分努力することだと思います。歴史に名を残すのだという望みは、善の極地、又は極悪非道の極地のどちらかでも残すことができます。 良い生き方は、神の助けが合った人と他者から思われる生き方 悪い生き方は、悪魔の力があり、その罰で破滅したと他者から思われる生き方 と回答させていただきます。
お礼
>良い生き方は、神の助けが合った人と他者から思われる生き方 >悪い生き方は、悪魔の力があり、その罰で破滅したと他者から思われる生き方 私は無神論者なので、「神」とか「悪魔」とかがイマイチわからないです。 例えば、 >出生→15歳で殺人→無期懲役→獄中死 は、「悪魔の力」というより、本人のDNAと育った環境による人格形成に問題があった。「天は自ら助く者を助く」という言葉のように、自己改善の努力も怠っていた、と考えます。 >結果として、良い生き方は、自分が自分のできる範囲で十分努力することだと思います。 納得です。人のDNAは全世界の人が違いますし、環境にも左右されるので、他人と同じ生き方をしようと思っても無理な場合が多いので、やはり、「自分のできる範囲で努力すること」になりますね。 回答ありがとうございました☆⌒(*^∇゜)v
さて、続きです。 良い生き方をするためには、大きな志と、ビジョンを持って、いなくてはいけない。 その大きな志を定めるにあたって、思い込みを排するために、仮説をたてて、情報を あつめるのだと申し上げました。 そして、ビジョンを具体化するための行動を計画するのだと申しました。 ただ、ここで良い生き方のためには、「目的意識」というのが重要になるのです。 人は、往々ににして、何を どうやるか・・・そればかりに心を奪われがちです。 デートのプランの話にもどりますと、どこにいくか、レストランはどこがいいか 映画は何を見るか、ホテルはどこがいいか・・・そういうことばかり気にしますが とにかく、今日のデートの目的が何かをしっかり考えてみるべきです。 はじめてのデートなら、目的は (1)お互いの緊張をほぐして、くつろいで語り合えること (2)少しだけ、大人のムードでロマンチックな雰囲気に浸れること (3)日常の喧騒を離れて、夢見心地の気分に酔えること だとしたら、少なくとも2箇所の場所が必要ということになります。 まずは、カジュアルな雰囲気のなかに、きめ細かいサービスが行き届いた レストランで、かつ彼が幾度も通って事情がわかっているお店 そして二つ目は夜景がきれいなラウンジバー ということになります。 これが幾度目かのデートで、かなりお互い打ち解けてきて、いよいよ 口説きにかかるというのなら 本日のデートの目的は (1)二人が結ばれること (2)充分に、思いがつたわり相手にもその気になってもらうこと (3)一夜を過ごすこと この場合、ホテルにするのか、自分の部屋かという選択がまずあり ますが、それはどちらがことがスムーズに運ぶかで考えます まず、ホテルならホテルを基点に時間を逆にたどる順序で、 その前には、彼女に想いを告げて 気持ちを受け入れてもらう準備段階としてふさわしい 場所(夜の浜辺、とか 静かなカウンターバーとか)をセットしていきます。 こういうふうに考えていけば、無駄のない動きができます。 彼女にしてみれば、あれよあれよという間に、ことが運んでしまった という感じになりますが、「良い生き方」とは、このように迷うことなく すいすいとやるべきことを正しい手順ですすめる生き方なのです。 ともかく、迷ったら「何のために今これをやっているのか」それを考える。 彼女に、自分の趣味や人生観を伝え、一緒に感動したくて映画を 見たのに、感動しないうちから彼女の手を握ったりしてはいけません。 良い生き方のためには 「目的」と「目標」の設定が必要です。 とにかく、彼女と恋人同士になるという目標を定めたら今夜必ず彼女を抱く という目標も定めないといけません。 目標が明確でないと、ゴールが見えなくて疲れてしまうのです。 とにかく、漫然とデートするのでなく、これができたら目的達成という 目標を定めて行動するのが「良い生き方」です。 頑張ったから・・・そういう言い訳をするのは「良い生き方」といえるでしょうか。 努力目標は、目標ではないです。目標は達成しなけば「良い生き方」はできません。 今夜彼女をくどいて抱くという目標を持ったら、智恵と誠意と情熱を駆使して 彼女をホテルの部屋まで連れていかなくてははじまらないのです。 その背景には、彼女をオレの愛で幸せにしてみせるという大きな使命感と オレは彼女にとって最愛の恋人になる。いつか二人でハワイのワイキキビーチで ねそべって、トロピカルカクテルを飲んで、将来の夢を語るそういうビジョンの 実現につなげるんだという意思を持たねばなりません。 それでないと、単なる身体めあてのスケコマシになってしまいます。 さて、おなかがすいたので2回目はこのへんで。
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お礼
>本質的に「良い」も「悪い」もない。善も悪もこの世の中にはないということです。 >本質的に善し悪しがあるのではないという位置に立ち戻って、それでもなお自分の考えとして「良い」のか「悪い」のか、そういう捉え方をしないとまやかされてしまうということもありますね。 本質的に善・悪がない、というのは、わかるようでいて、わからないです。 例えば、歴史上の人物でいうと、ヒットラーはどう考えても悪にしか思えませんし、その反対に、江戸時代改革をして、多くの人々を飢餓から救った上杉鷹山、徳川吉宗、二宮尊徳らは善い政治をしたと思います。 あとは、勝海舟のように、明治維新当初は幕臣でありながら幕府を裏切ったと非難されたが、後に、海舟は日本が植民地にならぬようにそうやったのだ、ということがわかると功労者として評価されました。 こういうことは、歴史的にもいくつか事例があり、最初は悪だと思っていたものが、実は善だったというのはあると思います。 ですから、私は「善悪の評価が時とともに変わる」というのはわかりますが、「善悪がない」というのは、ちょっとわかりかねます。 >好ましい「生き方」とは、個人の理想と合致する思想の表出様式 はい。これは、いろんなの回答者の意見を聞くうちに、そうかもしれないと思うようになりました。 なにか、反論あれば、また意見ください。 回答ありがとうございましたo(^-^)o