日本では太古より海の彼方にある島や、山はカミの宿る聖地であり、祖霊の集う他界と考えられてきました。そのため、それらに足を踏み込むというのは生きながら「死」を体験することであり、そこで修行することにより意識するとしないととかかわらずに、今まで犯してきた罪を償うこととなり(滅罪)、それによって願いが成就する、そして非日常の空間から再び日常の空間へと帰ることによって、新しく生まれ変わると信じられています。日本人がなぜ山(出羽三山・富士山・大峰・高野山・日光など)や島(竹生島・金華山・厳島など)に寺社を建立するのも、そのような考えが母体となっています。四国もこのような信仰が母体となり、そこが仏教化してことで体型付けられた普遍的信仰へと発展しました。
通常、四国八十八カ所の遍路は“弘法大師が創建された霊場”・“弘法大師が修行された霊跡をたどる”とされますが、信仰としてみる場合それでよいですが、もちろん歴史的には空海(弘法大師)自身が定めたものではありません。現在の八十八カ所の形が定まるまで、それこそ弘法大師信仰は当然としても、前述の太古のカミへの信仰を母体とし、山岳信仰・浄土信仰・法華信仰など複雑に絡み合って形成されていますが、特に重要な位置を占めるのは海洋信仰と考えられています。
四国遍路の原初の姿は、平安末期に編纂された『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』に見ることができます。
我等[われら]が修行せし様[やう]は、忍辱袈裟[けさ]をば肩[かた]に掛[か]け、又笈[またおい]を負[を]ひ、
衣[ころも]は何時[いつ]となく潮垂[しほた]れて、四國[しこく]の邊道[へち]をぞ常[つね]に踏む[ふん]、
この「辺道(邊道)」は「辺路」とも書き表され、読み方も「へち」「へんち」「へぢ」などがあるが、「辺土」と同意語で“へんぴな場所”そこから転じて「他界」であり、修行場でもありました。これが後に「へんろ(遍路)」と呼ばれるようになりますが、現在でも「辺路」の名をとどめる聖地に「熊野」があります。熊野の辺路もそうですが、四国の札所もその多くは海沿いに点在します。その点から、仏教民俗学者の五来重先生は四国遍路に太古の海洋信仰の姿を指摘しています。海の彼方にカミや先祖の世界である「常世(とこよ)」を見る信仰です。それは『古事記』『日本書紀』の記述にも見いだすことはできますが、それら太古の日本人の他界観・死生観が母体となっています。山中の札所も、かつては山頂から海を拝していたのではないだろうかと考えられます。それは、海とは程遠い寺院に海と関係のある伝承がある点などを指摘されています。
各札所は弘法大師が創建したというのは歴史的事実ではないですが、若き日の、まだ一介の修行僧であった空海が四国の辺路を歩んでいたであろうことは想像できます。実際に「阿國ノ大[おほ]瀧ノ嶽[みね]」(※徳島県の太龍嶽、あるいは大瀧山か)や「土州[としう]ノ室戸[むろふと]ノ﨑[さき]」(高知県室戸岬)で修行されたことは弘法大師の青年期の著書『三教指帰[さんごうしいき]』にも記されます。
四国遍路そのものは弘法大師が創ったものではないですが、弘法大師も歩まれた道ともいえます。そのため、辺道の伝統をふまえ、弘法大師信仰やさまざまな信仰が加味されて、仏教化・真言宗化していき現在のような四国霊場が形成されていきました。
また、五来先生は自著『四国遍路の寺』で、各札所で“本尊出現の地”などとされる「奥之院」と呼ばれる場所。こここそが本来の修行場であり、原初の霊場であったと繰り返し述べられています。つまりかつてカミの宿るとされた場所、島や山頂、滝、窟などが仏教化し、そこで行者が修行を行っていました。そして行者たちが普段の生活を営んでいた場所が寺院としての外観を整え、さらに四国遍路として体系づけられると信仰の中心が寺院に移り、かつての修行場が「奥之院」と称されます。そして四国遍路が庶民化するに伴い、「第○番 ◎◎寺」は参拝しても、その寺院の奥之院までは、なかなか足を運ばれなくなります。しかし、そこに参拝してこそ、なぜそこが霊場たり得るのかを知ることができると指摘されていました。
とまあ、四国の魅力は口でいくら説明しても、しきれるものではありません。一度実際に遍路されることをお勧めします。
【参考】
・『梁塵秘抄』巻第一僧歌十三首(日本古典文学大系73『和漢朗詠集 梁塵秘抄』:岩波書店 ※なお表示フォントの都合上、漢字・ルビの一部を変換)
・『四国遍路の寺』五来重:角川書店
・「中世熊野詣の宗教世界」(『変成譜』山本ひろ子:春秋社)
・『遍路 その心と歴史』宮崎忍勝:小学館
・『三教指帰』巻上(『定本 弘法大師全集』巻七:高野山大学密教文化研究所 ※なお表示フォントの都合上、漢字の一部を変換)