- ベストアンサー
四国88ヶ所巡りは空海もやったって言ってるけど、空
四国88ヶ所巡りは空海もやったって言ってるけど、空海は中国の天台に2年間修行に行った後は高野山の寺作りで忙しかったはずなので四国88ヶ所巡りなんてやる暇はなかったのでは? いつやったんですか? 高野山の寺作りのときに1人抜け出して四国88ヶ所巡りしたんですか? あり得なくないですか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
1。四国88ヶ所巡りなんてやる暇はなかったのでは?いつやったんですか? 下記によれば、空海は讃岐の人で四国の各地で修行をしたそうです。 http://ohenro-88.com/ohenro/kobodaishi.html 2。高野山の寺作りのときに1人抜け出して四国88ヶ所巡りしたんですか? いいえ、中国に行く前です。高野山は中国から帰った後です。 3。あり得なくないですか? 四国88箇所は、ずっと前に空海が修行した場所を、江戸時代の真言宗の僧たちの修行行程として順序立てたものです。下記などをご覧ください。 http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/henro2.htm
その他の回答 (2)
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
>四国88ヶ所巡りは空海もやったって言ってるけど 関係者がそう言っているだけです。 >四国88ヶ所巡りなんてやる暇はなかったのでは? 禅宗の僧侶が托鉢をして歩くように、僧侶の修行の一つに行脚つまり一人でひたすらテクテク歩く修行方法があります。 京都に哲学の道というのがありますが、人は物事を考える際に歩き回りながら考えるということがよくあります。 この傾向は洋の東西を問いません。 仏教ではこれを積極的に取り入れて修行方法の一つとしました。 空海もこれに従って修行時代には四国の各地を行脚していました。 つまり空海が歩き回っていたのは中国へ行く前のことです。 ただし、行脚していたのが現在の八十八のお寺だったという確証はありません。 現在の八十八カ所を一般の人も回るようになったのは江戸時代以降のことです。 >あり得なくないですか? 中国から帰ってきてからやるとうのはあり得ないでしょう。 日本各地に弘法大師伝説があります。 空海は仏教を持ち帰ってきていただけではなく治水技術なども持ち帰ってきていたようです。 四国で堤防を築いてため池を作ったという記録が残っています。 空海は高野山を開いたり、京都の東寺を作るだけではなく庶民救済事業も手広くやっていました。 僧侶は当時の知識階級ですので、これらの技術を習得していた僧侶も沢山いて各地で井戸を作るなど救済事業をやっていたと考えられます。 時代を経てこれらの多くが弘法大師の業績として伝えられていったのでしょう。 この伝承に従えば弘法大師空海は全国を歩き回っていたことになります。
お礼
ありがとうございます
- szk9999
- ベストアンサー率25% (6/24)
まず、空海は真言宗です。天台は最澄。 空海は天台山ではなく、長安に滞在しています。 また、空海の様々記録や伝によると、唐にわたる以前の若いころ、四国山地を修行のため回っています。(讃岐出身なので) 当時、四国の山地は修験場のようなものだったとのこと。 その際の空海の足取りが、長い歳月をかけて88か所巡りのように整理されていったのでしょう。 そもそも、四国88か所といっても、整備されたのは庶民も巡礼をするようになった江戸時代以降のはずです。 興味があるのなら、ちゃんと資料を読んだ方がいいですよ。
お礼
ありがとうございます
お礼
ありがとうございます