- ベストアンサー
黒船について
日本は黒船が来る前にロシアの軍艦といざこざを経験してますがこの場合相手のロシア軍艦が帆船だったのであえて黒船と称さずあまり大きく表ざたにしなかったのですか?それとも正式な来航でなかったし大きな要求のなかったからですか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
いわゆる黒船以前の来航船は多く難破船や貿易船で、外交使命を帯びて来航したものではなかったのです。 しかも帆船でしたから日本にも存在していたものの外洋用の大型という位でそう驚くような感じを受けなかったと思います。 唯一北海道に来航したロシア軍艦が例外で正式に交渉を求めるものでしたが交渉は長崎でと裁かれてしまいました。 アメリカの場合は日本に給水給炭基地を求める必要があり、貿易を行う必要から日本の鎖国をうち破る断固とした目的を持ち、ロシアの先例から学び当時の政治の中心であった江戸に乗り込んできたのです。 鉄板で船体を覆う構造なので腐食防止のためタールで塗装していたのと蒸気機関で自由に航行するので黒煙を排出する様は大きな脅威を感じさせたのです。 しかもペルーはそれを自覚してデモンストレーションも行うシタタカさでした。 威力外交の見本のようなものでした。
その他の回答 (2)
- 6dou_rinne
- ベストアンサー率25% (1361/5264)
ペリーが来る前にもロシアやイギリスの軍艦が着たり、出島のオランダ商館からの風説書で欧米の情勢は幕府にも知らされており、アメリカ太平洋艦隊(ペリーの艦隊)が日本に行くらしいというのも事前に知っていたようです。 しかし、それまでは出先でなんとか処理できていましたので、もともと基本的な処理方針もなかったので、触らぬ神にたたりなし、これからもなんとかできるだろうということで幕府中枢部はほったらかしにしていたのが、複数の艦船でしかも江戸湾に現れたということでどうにもならなくなったわけです。 アメリカ側もその点を把握していたので長崎で交渉するということを一切拒否したわけです。
お礼
ありがとうございます。
- sarunokoshikake
- ベストアンサー率25% (3/12)
当時日本最大の舟艇が千石船(当然帆走)に対して、4隻もの船が風に頼らず蒸気によって自由に航行できる姿を見て(実際は2隻で引っ張ってたみたいですが)驚いたんでしょうね。 下記URLにもありますが、結構ペリー以前にも来てるんですね。
お礼
添付資料ありがとうございます。
お礼
やはり帆船でしたか、どうもありがとうございます。