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広島 昭和二十年八月六日をみて色々質問
あのドラマを見て、いくつか分からないことがありましたので 教えてください。 1.主人公の弟・利明君が戦争へ行かされましたが、 あの当時はあんな子供でも兵隊に行かされたのですか? 私は戦争に行くのは、若くても十八歳ぐらいだと思っていましたが 違うのでしょうか? 2.甲本雅裕さんが演じていた教官ですが、あの工場の人なのですか? それとも軍人? 軍人だとしたら何の階級で、なんで工場にいたのでしょうか? かなり偉そうでしたが・・・。 3.利明君や他の兵隊さんがが出征するとき、軍服を着ていましたが、 あれは国から支給されるのですか? 4.あの当時はみんな芋やすいとんばかり食べていたと 聞いたんですが、主人公達一家は今とそう変わらない 食事をしていました。 やっぱり旅館とかには特別な配給があったのですか? どれか一つでもいいのでよろしくお願いします。
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戦況が悪化するにつれて、徴兵年齢はどんどん下がって行きました。 更に、志願兵もどんどん募って行きます。 当時、15歳までは志願を受け付けたと思います。 15歳で身長が低く、体重が軽い場合、 徴兵検査を受けさせると、不合格になり、 体格丙の記録が残るので徴兵候補から暫く外されるので徴兵逃れに使ったケースもあります。 徴兵される時、制服、軍靴、戦闘用の服など1式が支給されていました。 軍隊で生活出来る衣類全てです。 後、給料も当たり前ですね。 戦況が悪化すると、制服は支給せず、戦闘時の服のみ支給したようです。 配給は、配給カードをもらう制度です。 このカードが無いと、いくらお金があっても物が買えません。 決められた量しか買えない、均等配分の方法です。 もらう訳ではありません。 ここは間違わないで下さい。 配給カードをお金で譲ってもらったり、闇で購入したり、色々頑張っていました。 終戦間際は、ナス1個の配給カードしか貰えませんでしたから、 皆、衣類と米の交換だとか、闇米購入とか、余った物を互いに交換しあったり、不足を補っていました。 軍事施設の付近の必要施設には、軍隊が要請すれば配給カードは多く支給されます。 高官の宿泊に使用。高官の接客の為の料亭。 当時、学校にも軍隊幹部が訪れ、教練を教えていたそうです。 軍需工場ならば、幹部による見回りや、下士官の常駐も十分に考えられます。
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- 10pph
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2番について 軍需品を生産する工場には、「監督官」と呼ばれる軍人が常駐していました。 その工場が陸軍向けのモノを造っているか?、海軍向けのものを造っているか?で、どちらの軍人がいるかが決まりました。 陸軍と海軍は仲が悪かったので、一つの工場で両方の製品を造る事はありませんでした。
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ありがとうございました。 陸軍と海軍の仲が険悪だったのは知っていましたが、 工場まで別々だったんですね。
- che_guevara
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2 はいぞく‐しょうこう 【配属将校】 - 国語辞書(大辞泉) 軍事知識の付与、軍事教練実施のため、大正一四年(一九二五)公布の陸軍現役将校学校配属令により、全国の中等学校以上の学校に配置された旧日本陸軍の現役将校 「現役将校」ですから当然「兵」より偉いです。
お礼
あの教官は配属将校だったんですね。 ありがとうございました。
- PENPENMAKKY
- ベストアンサー率17% (344/1984)
4の食事ですが、はっきり言いましてマスコミは嘘を垂れ流しています。 私の母の話しでは、とうもろこしは食いきれない程配給された。パンが毎週配給されたが、20年6月以降に配給された蓬入りフスマパンだけは食えなかった。芋の配給はさほど多くはなかった。との事です。ちなみに大阪です。 一方父は学童疎開しましたが、終戦まで三食保証され、白米、味噌汁、オカズが2品(肉類と煮物が主だったそうです)、漬物が完全給食されたそうです。 戦後は配給制度が崩壊したため、供給が止まり、闇米やすいとんを食って飢えをしのいだそうです。闇物はお腹に抱いたり子供に持たせて警察から許してもらったとか… 戦時下で着用したモンペは高級な着物を潰して作ったもので、あまりにもみすぼらしいのでオーバーオールみたいな形にしてたそうです。 祖母は、孫が縁日で焼きとうもろこしを欲しがると、何であんな物を食べたがるの…と嘆き、オーバーオールのジーンズを欲しがると、戦時中のモンペなんか金を出してまで着るんじゃありませんと怒ったそうです。
お礼
ありがとうございました。 実体験とマスコミの情報では多く食い違っていますね。 配給制度が無くなった戦後が一番苦しかったようですね。
- kageroho
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1.大戦後半には、少年兵が募集されています。戦艦大和でも、14歳、15歳の水兵が多数戦死しています。 2.紡績工場でしたね。パラシュートか何かを作っていたのでしょうか…。通常は、いちいち軍人が監視はしていなかったと思うのですが、確証はありません。 3.出征の時は軍服は着ません。師団や海兵団で始めて支給され、私服は実家に送り返されます。利昭君は国民服を着ていたように思います。もう1人のほうは、出征ではなく、部隊の移動でしたので、軍服を着ていました。
お礼
ありがとうございました。 (1)たった十四・五歳で戦争に行って命を落としたんですか。 切ないです・・・ (2)ホントは監視がなかった可能性があるのですか。 あのシーンを見たとき、刑務所みたいだと思いました。 (3)利明君が着ていたのは国民服ですか。 国民服と軍服、よく似ているので見分けがつきませんでした。
- baisyoooo
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(1) 当時は15歳から戦争にかり出さ れていたと思 われます。ドラマの中では利明君が訓 練中に監督 (軍人?)に暴力を受けていましたよね、 「おまえ は日本男児か」なんて言われていました。プ レッシ ャーを感じて志願したんでしょう。 (2) 工場の人でしょうね。教官だから見張りみたい な。軍人ですね。あの人がどんな階級だったのかは 分かりませんが、戦争に行く人々よりは階級は上で しょうね。 (3) きっと支給です。国民が飢えていた中軍人さんに 対しては軍服を新品で配給していたそうです。そ こだけ見栄貼っていたんですね・・・。 (4) 他の方が答えていらっしゃるとおり軍人さんがよ く利用されていた旅館なので配給はあったのではな いのでしょうか。ドラマ中にも「うちは食べ物だけは ある、困らない」 というセリフがあったので、食べ 物には恵まれていたんですね。 確かではなくて済みません。
お礼
ありがとうございました。 (1)あの頃はたった十五歳で戦争に行かされたんですか・・・。 (2)戦争行く人より上ってことは将校クラスでしょうか? (3)軍服は支給品なんですね。 (4)旅館用の配給があったようですね。
- che_guevara
- ベストアンサー率17% (44/251)
一番 ドラマでは、「(海軍)少年航空兵」と言っていました。豫科練ですね。 高等小学校卒業程度の15歳から17歳までの「志願制」でした。 利明君は「軟弱者」といつもいじめられていたので「お姉さんたちに黙って」志願してしまったのですね。
お礼
ありがとうございました。 利明君は予科練の志願兵だったんですね。 15歳から17歳というと、今の高校生ぐらいですね。
- chachi25
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4番についてですが、 あの旅館は軍人さんが利用していた旅館だったので 何か特別な配慮がされていたのではないですかね。 2については、 あれは軍の施設でそこで女学生たちが働かされていて 軍の施設だからその見張りで軍人がいたのでしょうね。 旅館の女将が軍の偉い人に言いつける、 みたいな事を言っていてひるんでいたので そこまでえらい身分ではないでしょうね あとはちょっと確実なことがわからないので すいません^^;
お礼
ありがとうございました。 >特別な配慮がされていたのではないですかね。 たしか最初の方で軍人から、魚を差し入れてもらっていましたね。 あの工場は軍の施設だったんですね。 どうりで軍人がいっぱいいた訳だ・・・。
お礼
ありがとうございました。 配給カードのことは始めて知りました。 ドラマや漫画の配給シーンで 配給品を受け取るシーンしか見たことないもので。 ナス一個ではとても生活できませんね。 軍が要請すれば配給カードは多くもらえたのですか。