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中尊寺にいたときの時代について
義経が中尊寺にいた時代の歴史の物語について教えてください。
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- taro_cha
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中尊寺というか、奥州平泉にいた時代、ですね。 簡単に言うと義経は平泉に2度訪れています。 父義朝が平治の乱に敗れ、義経も捕らえられ京都の鞍馬寺へ預けられます。 その後、義朝ゆかりの京商人と出会い、その商人とともに奥州へ下ります。 これが一度目の平泉への旅ですね。 義経は少年~青春時代を平泉で過ごします。 意外と知られていないことですが奥州は名馬の産地であり、義経が騎馬軍団をうまく使いこなしたのはこの平泉での生活が影響しているのでしょう。 現在平泉市の近くに千厩町という町があります。この千厩町の名前の由来はその名の通り千もの厩があり、ここで奥州藤原氏の馬を育てていたことにあります。 義経の乗っていた名馬、太夫黒もこの町の産駒です。 この頃の奥州は金の産地であり、金の採掘によって非常に裕福な時代を送っていました。有名な金色堂が建てられ、「秀衡塗り」と呼ばれる漆塗りと金箔を使った食器作りが盛んになったのもこの時代です。 また頼朝の旗揚げに呼応して義経が鎌倉へ駆けつけるときの資金もこうした藤原氏の金の採掘から出ています。 その後、義経は平家との戦いに勝ち続けますが、その純朴さから後白川法皇につけ入れられ、頼朝と不仲になってしまいます。 この辺、やはり東北育ちの純朴さに付け入られたかなどと思ってしまったりするわけですが(^_^; 兄に謀反人の汚名を着せられた義経は、それでもやはり純朴さから戦争の達人でありながら兄とは戦えない、と少年期を過ごした平泉に逃げ込みます。 その途中で愛する静御前と離れ離れになり、捕らえられた静御前は頼朝のもとへ連れ去られます。 頼朝に舞を強要され、愛する義経を思いながら舞を舞った場所は、今でも鎌倉の鶴岡八幡宮に舞宮として残されていて、毎年静御前を想って舞の奉納がされています。 さて、平泉に戻った義経ですが、秀衡の強力な庇護によりしばらくの間は守られています。 奥州の財力・兵力と秀衡の統率力は頼朝からしてみても無視できるものではなく、手をこまねいているしかありませんでした。 しかし、義経が平泉に戻っていくらも経たないうちに秀衡は亡くなってしまいます。 跡を継いだ泰衡は秀衡ほどの力はなく、再三にわたって頼朝から送られてきた義経を渡すように命じる脅迫文を拒絶しますが、朝廷から勅命を出され、義経討伐に立ちます。 その後、義経を殺害した後奥州は頼朝の軍に征服されてしまいますが、泰衡はよく戦い、奥州の被害を最小限に抑えたと評価されています。 また鎌倉に送った義経の首が偽者だったのではないか?という疑いがあることから、義経伝説が生まれ、北海道に渡ったとか、元にわたってチンギス・ハーンになったなどという伝説が残っているわけですね。 一方の頼朝ですが、判官びいきの東北人からしてみると最終的には奥州の黄金の利権を手に入れるため、自分に忠実で純朴な義経をダシにして奥州を攻め滅ぼしたのではないか?と勘ぐってしまったりします(^_^; ざっくりとしたストーリーはこんな感じです。 http://www.jtb.co.jp/kokunai/theme/history/yoshitsune/index.asp に義経ゆかりの地を訪ねて、という企画で当時の歴史の概要が載っていますので参考にしてください。
検索すると色々と出てくるとおもいますよ。 http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%b5%c1%b7%d0+%c3%e6%c2%ba%bb%fb&fr=ybb