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ブッタの苦しみとは

ブッタの苦しみに生苦がありますが、生まれる苦しみの意味がわかりません。また、楽と苦「一切皆苦」というものもありますが、本当に全部がそうなのか人生楽もあり、苦もあっていいのではないかと思うのですが、理解ができなくて困っています。

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  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.4

こんばんは。。  このサイトを見ていると、お坊さんや経典に詳しい方々が、もっともっとたくさんおられるはずなのですが・・・「哲学」カテゴリーの方が良かったのかしらん?自分はただ、概説書を読みかじった程度の者です。    釈尊が生きることを苦しみだと捉えたことから発する、と言ってよい仏教は、数ある宗教の中でも、かなり特異な教義を持った宗教と言えます。  生まれることによって、後の老・病・死が必然的について回るために、生まれること、そして生きることそれ自体も苦しみに入る、というのがよくなされる説明だと思います。(同種のご回答もすでに出ていますね。)仏教は、その苦しみというのは絶対的なものとしており、「楽もあり、苦もあり」という考え方を採りません。この点は、仏教の特色の一つであり、要になる部分だと思っています。その生苦への理解がなければ、おそらく仏教は取り付く島がないでしょう。    ある意味、それは幸せなことかもしれませんよ。  永井均氏が著作『マンガは哲学する』(講談社)の中で、坂口尚氏の『あっかんべェ一休』(講談社漫画文庫)を取り上げ、こう記しています。(←すでにご存知であればごめんなさい。) 「禅はいろいろなものの捨て方を教えてくれるが、それは捨てるべきなにか巨大なものの処理に困っている人にしか役に立たないだろう。これは仏教そのものの本質かもしれない。」  貴方には、「捨てるべきなにか巨大なもの」がまだないのかもしれない。だから、「人生楽もあり、苦もあっていいのではないか」と思えるのかもしれません。それはそれで、今のところはそれでいいんだと思います。むしろそういう感性は非常に貴重なものではないかと思いました。今のその思いを大切にして生きてみていただければ、と思います。それは変わっていくかもしれないし、変わらないかもしれない。  自分は、仏教を理解したり実践したりできたという人間ではないのですが、仏教が説く「絶対的な生苦」というものは、確かにそうだと思っています。  識者の方には怒られそうですが、個人的には、仏教は「生き苦しい世の中を、それでも死ぬまで生きていけ」という教えかなーと思っています。釈尊も生きることを苦しみと観じたにもかかわらず、べつに自殺ししたわけではありませんから。「生死」というものを越えてしまったんだろうな、と思います。そこには「苦楽」という概念もないでしょうし、あらゆる「相反」がなくなったのでしょう。それが具体的にどんな境地なのかは、私にはわかりませんが。  また、生苦を考える上で、仏教は「自性」を否定する、と言う点も押さえておいた方がよいと思います。 人間であれば「自我」の否定となります。世界が縁によって形作られると説く仏教は、おおかたの人間が想定し信じて疑わない自我を明確に否定します。物事に変わらない本性はなく、ただ流転を繰り返すだけと考えるわけです。だから、自我を想定して成り立つ人間社会を、真実を観ない誤った認識による苦しみの世界と捉えるわけです。ここも実に重要なポイントになると個人的にに考えている部分なのですが、やはりわかりにくい点でしょうね。「自我を想定しない世の中」がいったいどんな世界なのか、私にはわかりません。たぶん、どんどん内的な世界の話になっていくんだろうな、とは感じています。  訳知り顔で、偉そうに記してしまいましたが、まだまだ精進が足りない身の上なので、お許しを。では。

haibisukasu3
質問者

お礼

les-minさんのおっしゃる通り哲学で質問をすればよかったと思います。回答が少なかったので締め切ろうか悩んでいたところで回答があり、とても役にたちました。私は一般の方の考えも知りたかったのです。もちろん識者の専門的なことも含めてですが・・・生が死の基礎であり生まれてきた以上死をさけることは絶対にできないのだから生苦なのでしょうね。これからまだまだ勉強して理解を深めていきたいと思います。あなたの回答に満足して質問を締め切りたいと思います。ありがとうございました。

その他の回答 (3)

noname#12208
noname#12208
回答No.3

仏陀が説いた「四苦」のうち、老苦・病苦・死苦の三苦については、なんとなく解かりような気がしますが「生苦」は確かに漠然として、解かり辛いですよね。 仏教では、この世に生まれたこと、それ自体が「苦」だと説いていますし、また、人は、生まれてきたからには、「老いて」いき、「病」気になり、やがて「死」を迎えます。生も老も病も、最後は何人も逃れられない「死」の苦しみに繋がるから、と学生時代に教わりました。 >人生楽もあり、苦もあっていいのではないか 確かにそうですね。ただ、仏教(大乗仏教)では「人生は苦しまなければならない」ではなく、「人生は、衆生は、苦しまざるを得ないもの」というのが根本にあり、「(だから)仏を信じることでその苦しみから救われよう」という教えだと私は理解しています。 ただ、社会的生活(現実社会)と仏教(その他の宗教も含めて)は相容れないこともしばしばあるようです。 まとまりの無い文章になってしまいまして、ごめんなさい。

haibisukasu3
質問者

お礼

皆さんの回答を読んでわかったようなわからないようなって感じなのですが、要するにlatewolfさんのおっしゃるように現代とブッタとの生活様式も違うし、現代で考えては理解できないですよね。紀元前に生まれたとして考えるとなんとなく解るような気もします。でもブッタの入滅後何百年もたってから書かれているのですから、本当にブッタの言葉だったのかとかどうしても疑ってしまう私なのです。 仏を信じることでその苦しみから救われるという視点でもう一度考えて見ます。ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

インドの伝統的な考え方では生きていくことは苦でしかありませんでした。すなわち「一切皆苦」というわけです。そしてこのような苦しむために生きてくることは苦ということになります。 そしてそのような苦しみの中になんども生まれ変わる輪廻転生から解脱して抜け出すことが目標となりました。 考え方によれば「人生楽ありゃ苦もあるさ」ということもありますが、このあたりは民族的な伝統に根ざす考え方なのでどうしようもありません。

haibisukasu3
質問者

お礼

解脱をすることが目標・・・解脱すれば苦も楽もなくなるということでしょうか。一切の欲望も。生きてゆくことが苦というのはもっと違う角度から本を読んで今後の課題にして勉強したいと思います。ありがとうございました

  • o24hi
  • ベストアンサー率36% (2961/8168)
回答No.1

 こんばんは。  仏教では「苦」を苦しみとは使いません。自分の力ではどうすることもできないことを「苦」といっています。  という事で、人生は生まれることは当然として、完全に全て自分の力でできることはないので、象徴的に、全ては「苦」であるといっているんですね。  例えば、夏でしたら、海でおぼれて、何とか岸まで泳げたとしても、たまたま、波が緩やかだったとか、自然の条件が良かったこともあるでしょうし、自分の力だけではなく、自然にも助けられたことになりますよね。そう考えると、完全に自分だけの力でできることは、まずないといってもいいです。

haibisukasu3
質問者

お礼

ありがとうございました。たとえがわかりやすくてなんとなくわかりました。でも「苦」をわかるには相当な勉強が必要だと思いました。現代とちがうという認識で本を読まなくてはなりませんね

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