音楽の美的把捉と病的把捉とは?(ハンスリック)
音楽美をめぐる次の見解についてみなさんは どうお考えになりますか?
次の議論についての解説と評価になっています。
ハンスリック( Eduard HANSLICK, 1825-1904 ):『音楽美論』( Vom Musikalische-Schönen, Ein Beitrag zur Revision der Aesthetik der Tonkunst, Leipzig, 1854 )
▲ (國安洋:美的把捉と病的把捉の画別) ~~~~~~
(あ) ハンスリックの指摘をまつまでもなく 音楽のようにわれわれの内面に深くまた鋭く截り込んでくる芸術は他にないといえよう。音楽は他のどの芸術よりもいっそう速くまた強度に感情に作用する。
(い) そしてわれわれは嬉しさまたは悲しさに心を動かされて感傷・感動にひたる。あるいは最も内奥なるものにおいて高く昂揚させられたり 震撼させられる。あるいは音楽との全面的な融合によって生ずる感情に耽溺し それに絶対的に帰依する。あるいは自我の解体をともなった陶酔に陥る。
(う) このような感情享受の諸形態は われわれが日常身近に体験している音楽の聴き方ではなかろうか。
(え) そしてこれは他の芸術よりも音楽に固有の受容とみなされ ロマン派の人たちにとっては音楽の本来の聴き方として支持された。先ほど触れたヘーゲルの見解も この感情享受が音楽に固有の聴体験であることを述べたものであり ヴァッケンローダーにとっては 二つの聴き方のなかでも感情享受こそが真の聴き方であった。また ヴァーグナーがめざした陶酔も感情享受の徹底である。
(お) このように音楽にとって固有の そして本来的な聴き方である感情享受をハンスリックは否定するのである。(以上 pp.318-319 )
▲ (國安洋:美的把捉の二側面) ~~~~~~~~
(か) 芸術の受容は二つの局面から成り立っているといわれる。《美的判断》と《解釈》 より一般的には《体験》と《理解》の二つである。
(き) ハンスリックの〔* 《感情享受》なる《病的把捉》とは別の〕美的把捉はこの二つの局面を分離されていない状態で含み込んでいる。
(く) この美的判断〔* ないし美的享受〕と解釈の二局面を音楽に即して言い換えるならば 《純粋聴》と《音楽聴》になるであろう。
[・・・]
(け) いかなる関心ももたずに耳を澄まして音楽に聴き入ること[・・・]そのような聴き方に対する定まった呼称はないが 《純粋聴》とよぶことができるであろう。
(こ) もうひとつの局面の《解釈》とは《理解》に裏づけられた聴体験であるので それは《音楽聴》にほかならない。
(さ) 音楽の美的把捉は純粋聴であるとともに音楽聴でもある。しかし この二つは音楽の聴き方の別個の形態である。たとえば われわれはひとつの音楽作品に同時に純粋聴と音楽聴をもってかかわりあうことはできない。あるときには純粋聴 またあるときには音楽聴をもって聴くのである。
(し) この二つの局面のなかでハンスリックが重視したのは 純粋聴よりも音楽聴である。それはハンスリックがとくに精神の働きを強調していることに表われている。その理由は《精神的活動なくしていかなる美的享受も存在しない》からである。(以上 pp.322-323 )
(國安洋:音楽における受容美学――ハンスリックの聴体験論―― in 今道友信編 『精神と音楽の交響 西洋音楽美学の流れ』 1997
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☆ いかがでしょう? 《美的把捉と病的(パトローギッシュ)把捉》そして《純粋聴と音楽聴》についてどんなものなんでしょう?
質問者の得ている感触としては きわめて《妥協もいいとこ》と言われても仕方のないかたちながら 《感性で得られた反応のうちに――それを言葉にし得れば――理性的・知性的にして そう言ってよければ霊的な把捉もあるのではないか》です。
《純粋聴と音楽聴》とのふたつに純粋に分けることは出来ないし分ける必要はない。
ただし 人によってはどちらか一方にもっぱら《純粋化》して聴く場合があるかも知れない。
美の享受は 初めに美的把捉が前提として・構えとしてあって 得るものではない。
うんぬんと考えます。
この解説について またはハンスリックの議論本体について お考えをお聞かせください。
お礼
回答ありがとうございます >私がそう思っていると言うことは、殆どの人がそう思っていると言うことです。 この点につきましてはおかしいと思いますが全面的に仰る通りだと思います。確かに海外は完全な盲点でした。ついミスチルが「自分のペースで自分の曲を求める」といった考えたを聞いたことがあり、人を楽しませることより自分のなにかを求めて音楽活動をしてるのではないかと考えてしまいました。もう少しよく考えてみますね。