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現代音楽は感動がない
あえて、そういいきりましょう。 理屈はあり狙いはある。エキサイティングであるかもしれない。 しかし、叙情的あるいは感傷的あるいは野生的あるいは憧憬的あるいは…というような、人間の「情」に訴えるような感動はない(一部の回顧的現代作品を除く) 音楽が、それらの人間的な感動を考慮しないという姿勢は非常に疑問に思わざるをえない。 私は、もしも、そのような「情」に訴える音楽と言うもののクラシック的技法様式が前世紀初頭か前半で完了したとしたら、あとは様々なバリエーションをその範囲内で生み出していく、と言う考えでもよかったのではないかと思うのです。それだって、立派な職業作曲家じゃないですか?オリジナリティとか新機構とか目指さなくたっていい。ラヴェルやストラヴィンスキーの焼き直しをどんどん未来永劫作り続ければいいんです。そうすれば、大いなる、普通の人間の「情」に訴える感動が多く生産され続ける。それが無意味だと? 一般的な「感動」を目指さないでもいい、というような達観したような姿勢というのはやはり異端ではないでしょうか?芸術派いかなるときも「感動」を生み出すべきではないんでしょうか?そこがよくわかりませんので、教えていただきたいです。
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「情」は危険だ。「感動」は危険だ。 だから、今までのような、ハードルの低い「感動」、子供騙しのような「感動」を作り続ける気は現代の作曲家にはさらさらない。 このへんが本音・・かどうかはわからないけれども。 音楽って洗脳の力がありますし、民族主義と結びついたロマン派の「情に訴える音楽」は2つの大戦を経て危険だと思うようにもなりますよ。前の方が述べられているように。 ラヴェルやストラヴィンスキーだって、決して情の音楽ではありません。確かにラヴェルの「ボレロ」はだんだん高揚していけばいいと思われるかもしれないけれども、その反復も洗脳がごとくただ反復するだけでなく語り口をご苦労様にも毎度変えていく技巧が知的な面で刺激してくれる作品です。ストラヴィンスキーで最も人口に膾炙した「春の祭典」だって、金管が咆哮、打楽器が炸裂すればいいという代物でもありません。ロシアの原始宗教、言ってしまえば野蛮な世界をどう表現するかというところが知性に訴えます。ハードルの高い感動です。しかし現代の作曲家はさらにハードルの高い感動を目指しています。 少なくとも、音楽はもはや人に感動を強制させるための道具ではないのです。
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あなたのおっしゃる「現代音楽」とは、どのようなものを指しているのですか。 現代音楽もいろいろあって、「情」に訴えるものもたくさんありますし、人間の移り気で個人的な「情」を超越しようとする音楽もたくさんあります。そもそも、「情」が万人共通だということ自体、現代では幻想かもしれません。 昔、ある国では、音楽は、労働の喜びや、労働者の日常的な喜怒哀楽を表現すべきである、とされ、実験的な新しい音楽や快くない音楽は「ブルジョア的形式主義」として排除されたそうです。つまり、人間の感情に訴えない音楽、人間に奉仕しない音楽は、存在価値がないので社会として禁止するというわけです。質問者の音楽に対する価値基準は、この国の「社会主義リアリズム」とほぼ同じようなものに見えます。 19世紀末以降においては、人間の深層心理や心の奥に潜む邪悪な本能、潜在意識といった人間の闇の部分が明らかになり、それまでのロマン主義的で単純な喜怒哀楽といった感情だけでは、人間を表現できなくなったと思います。 さらに、20世紀の2度にわたる世界大戦、ナチスによるホロコースト、1発で数万人を殺傷する原爆、そして今でも続く民族対立、宗教対立による殺し合い・・・。偏見、差別・・・。決して「正義」と「悪」ではなく、「祖国を愛する善良な人間」同士が殺しあう社会・・・。 このような状況で、能天気に「人間の情に訴える美しい音楽」を、作曲家は作り続けられるのでしょうか。人間の「情」に真剣に向かい合うほど、人の琴線まで届く音楽を作りたいと思うほど、昔風の美しい旋律では表現できないのではないでしょうか。それは偽善に過ぎないのではないでしょうか。ましてや「昔の音楽の2番煎じ、使い回し」などできないのではないでしょうか。 20世紀という、極めて理不尽で非人道的な時代に、どのような音楽でその情景を、そこに生きる人間の情を表現すべきか。現代音楽作曲家は、それぞれに苦しみ、模索しながら作品を生み出していると思います。 つい最近まで(今でも?)、イスラエルではワーグナーは演奏できませんでした。このような状況・社会では、「万人を感動させる音楽」という概念そのものが成立しないのかもしれません。 「感動」を求めない作曲家はいないと思います。ただ、何をもって「感動する」と考えるのか、という点が、それほど単純ではないため、いろいろな方法論が登場し、残るもの/消えていくものがある、ということだと思います。 答えになっていなくてすみません。
- m-tahara
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新実徳英の「風神・雷神」をライブで聴き、翌日思い出して本当に涙が出ました。 この曲は決して懐古的作品などではなく、むしろほとんどメロディラインもなくトーンクラスターを多用する作品です。 野田輝行や松村禎三のピアノ協奏曲を聴くと、何度聴いてもスリリングでとても興奮させられます。現代の古典とも言える矢代秋雄のピアノ協奏曲でもそうです。石井真木も聴けばワクワクせずにはいられません。 吉松隆の「トキに寄せる哀歌」を聴くと上質の織物に接するような官能を得られます。 仰っているような現代音楽には「情」に訴えるような感動はない、というのがどうしてなのかは私にはちょっと理解できません。 個人的には広瀬量平や湯浅譲治のように今一つのめり込めない作曲家もいらっしゃいますけれど、あくまでも自分の好みの問題です。 既に書かれているように、作曲家の姿勢の問題ではないように思えるのですけれど‥‥。
- Chappy4649
- ベストアンサー率38% (293/761)
>音楽が、それらの人間的な感動を考慮しないという姿勢は非常に疑問に思わざるをえない。 音楽というのはあくまでクラシック界の範囲でしょうか? まず質問者さんの言う人間的な感動というのが良く分かりませんが、『情』以外の様々な描写の対象があっても良いと思います。 私はコテコテの『情』がむさ苦しく感じる時があるので、選択肢は色々とあった方がいいです。 >一般的な「感動」を目指さないでもいい、というような達観したような姿勢というのはやはり異端ではないでしょうか? 一般的な感動とは、クラシックは大衆向けのエンターテイメントを目指すべきという事でしょうか? 異端の芸術は劣った芸術という事でしょうか? 現代音楽を楽器を破壊するとか、そういう極端なのをイメージしてませんか? 自分は現代音楽自体に拒否反応は無いのですが、『実験音楽』と呼ばれるものは好きではありませんね。(『現代音楽』っていう現代の音楽の代表みたいな、紛らわしい呼び方はどうにかしてくれって思いますが…) 実験に失敗した時の免罪符のようで。 聴く側としては実験に成功したのだけ聴かせてくれよって感じです。^^; 現代音楽だとライヒとか聴きやすいですよ。 アフリカ音楽から影響を受けたり、とても野生的、人間的な感動があります。 ライヒの作風は風景画的なので、情やドラマチックさを至上とする人にはあまりウケないかもしれませんが。 Steve Reich - Music for 18 Musicians http://www.youtube.com/watch?v=CHVMVDhC-UA 質問文を読むと、自分の感動=一般的な感動に摩り替わっている印象がありました。 質問者さんはどうも『情』を表現した音楽こそが至高だという考え方に固執しすぎてる感じがします。 世の中には色々な感性の人間がいるので、自分の個人的な感性が他人にも通用するとか、音楽は万人ウケを目指すべきなどの意見は非現実的で、あまり意味が無いと思いますが。
- hitokotonusi
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現代音楽、それほど知りませんが、 これなどはどうですか?結構感動しました。 Winter Was Hard/Kronos Quartet http://www.hmv.co.jp/product/detail/68026 それからこのボックスの最期のほうに現代曲がありますが、 これも面白かったです。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000VIFM1S 現代音楽も探せば結構感動できるものもあるかもしれないと、 最近は思ってます。