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自己決定権と人格の尊厳
自己決定権と人格の尊厳について少し意味はわかるのですが、詳しくはわかりません。具体例を挙げて説明していただけたら幸いです。
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- satorya
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自己決定権と人格の尊厳との関係について簡単に説明してみます。 両者のうち、根本概念は「人格の尊厳」の方です。 「人格の尊厳」があるから「自己決定権」が導き出されると考えてください。 「人格の尊厳(個人の尊厳)」というのは、「一人一人の人間にはそれぞれ唯一無限の価値があり、人間同士の間に価値の優劣などない」という考え方です。 ですので「無限の価値のあるそれぞれの人間は、他人から生き方を強制されることなく、自分の生き方を自分で決定できるべきである」となり「自己決定権」が導かれます。 以上、御参考まで。
お邪魔します。 「人間の尊厳」からのご回答拝見しました。 「人間の尊厳」に関しては良い回答が有りますので、「自己決定権」について、 「自己決定権」とは、殆ど所有権と同じ事です、つまり、排他的に所有してい る物件に関して、その所有者が自由に処分できる権利を持つということです。 あたりまえのようですが、此処には、難問がありますが、そのことには触れません。 此処では、処分の対象が、「物件」でない場合。つまり、「自己決定権」と 「人間の尊厳」から、私が思いつくのは、尊厳死・人工中絶・脳死臓器移植 ・代理母などの医療問題です。 自己決定が優先されれば上記の医療問題は何も問題がないことになります。 しかし、本当にそうでしょうか? 自己決定にも拘らず、批判される事も多い と思います。 さらに、出産前診断(特定の遺伝病は出産前に判るのです)で、生まれる前の 胎児を処分する場合、この場合の「自己決定権」の自己が胎児でない事は明ら かです。尊厳死でも同様の問題が有ります、すでに、自己の意思を表現できな い、患者に「自己決定権」も、くそ も無いのです。 「自己決定権」は医療問題以外にも、社会問題としても関わります。 「売春」「麻薬」「自殺」等々、自己の決定に従い、自己の所有する身体をど のように処分しようと、自分の自由だという考えです。本当にそうでしょうか。 さらに、「自己決定権」を広げれば、「小さな政府」といった、政治経済にも 関わります。 最後に結局これは「所有」の問題と、我田引水を付け加える事を忘れずに。 ご質問者様の関心にも拠るでしょうが、同じ質問で、ずいぶん受ける印象が違 いますね。 なかなか難しいですね。だから、面白いのかも。
- ghostbuster
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人格の尊厳、というのは、カントのこの道徳格率から来ています。 -------- あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に目的として扱い、決して単に手段として扱われないように行動しなさい。 ------- カントはまず人間を「内なる価値、すなわち尊厳」を有する存在である、と考えます。 したがって、人間は決して目的に対する手段として「使用」されてはならない、ということです。 「目的」として「使用する」というのは、どういうことかというと、「物」と「人」との関係を考えるとわかりやすいでしょう。炊飯器がある。炊飯器は、ゴハンを炊くためにあります。この「ゴハンを炊く」という目的を離れれば、炊飯器には何ら価値がない。 これはどういうことかというと、人間が願望や目標をもつからこそ、「物」は人間との関係において、人間にとっての価値をもつのです。 ここで、相手が「物」でなく、「人」であればどうでしょう。 たとえば、普段あまり好きではないA子さんだけど、試験前だから仲良くしてあげて、なんとかノートのコピーを取らせてもらおうとする、こういうとき、あなたはA子さんを「目的」を達成するための手段として「使用」しています。 これは、人間に「内なる価値」があるとは認めていない、「物」に対するのと同様の態度を取っている。 従って、「誤っている」ということになります。 ここで、カントの道徳格率の根拠にもういちど立ち返ってみましょう。 人間が「内なる価値、すなわち尊厳」を持つのは、人間が理性的行為者であるから、つまり、自分自身の決断を下し、自分自身の目標を設定し、自分の行為を理性によって導くことができる自由な行為者だから、です。 このことを一語で要約すると「自己決定権」ということになります。 相手を「理性的存在者」として尊重しようと思ったら、自分の目的を達成するために、人々を操ったり、使用するようなことがあってはならないのです。 上では「人」を「目的」を達成するための手段として「使用」する例をあげました。 では、「目的として」扱うとはどういうことを言うのでしょうか。 あなたは「ある目的」のために、A子さんに、何かをしてほしいと思っています。 A子さんに、その目的を話し、あなたの希望を話します。 そのとき、A子さんはそのことをするか、しないか、自分で決めることができるはずです。A子さんは、自分の理性の能力を行使し、自分自身の価値と希望に相談して、そうして自由で自律的な選択をすることができるでしょう。 そしてもし、A子さんが「そうしよう」と自分で決めたなら、A子さんはあなたの「ある目的」を、自分の目的にもすることを選んだのです。 となると、あなたは「ある目的」を実現するための「手段」として、A子さんを「使用」したわけではない、ということになります。 つまり、カントの定義によると、わたしたちが人格の尊厳を認めなければならない根拠は、人間が理性的行為者であるから、すなわち自己決定権を持つから、ということになります。 ここから「自己決定権」を持たない人々に対しては、どのように考えたら良いのか。あるいはカントとはちがう「功利主義」の人々が「人格の尊厳」についてどのようにとらえているのか、という問題が、いくつも派生していきます。