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人の成功を願って生きるのor不幸を願って生きるor特にどちらの感情もなく(その時々)ていきるのでは何が一番得?
人の成功(幸せ)を願って生きてると、自分も成功(幸せ)できる。心が豊かになる。等メリット、デメリットあるかもしれませんが意見を聞かせてください。
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人の成功を願って生きるでしょう。 誰かが成功しようとしている時、笑ってオープンにおめでとう!よかったね!と言える人になるか、それともその逆か・・・明らかに前者のほうが総合的にも良いと思います。 不定的思考の人間に、心の問題、病気がよくあるのは自明の理だとおもいますので、心がそうであるならば、財産もその他すべて無意味なものになってしまいます←そういうのは心の平安を築くための力、要因となるべきだと思いますので、そうではなくなるならば無意味だということです。 だって生きてる時は同じように与えられているけど、その一瞬一瞬の時をうつうつと過ごしたり、卑屈に過ごしたりするのは、なんのための財産かと思いますね。 それと、あやかるだけ、みせびらかすだけの財産なら富の役目も対したものではないと思います。 話はそれましたが、心から人の成功を思えなくても、そう思考していこうとすることこそが、心から人の幸せを願える人間になる原因を創るのだと思います! 心が積極的思考で前向きで、心豊かで、真の平安を築ければ幸せなんですから、その原因は人の成功を願って生きるに大きく関連していることをあなたも気づいているとおもいます。 結局、財産も地位も名誉もすべて手に入れても、人の成功を願って生きることができない人間は、ほんとうの心の平安というものを知らない人だと思います。 これでもか!というぐらい心の大きさ、心の平安さを示した偉大な哲学者達に、その法則性があると私は確信していますが、その一つの大きな要因こそが、人の成功を願って生きる、人の幸せを願っているだと思います。 愛せよ!さらば愛されんだ!! もし読んでいないのであれば、エマソンの『償い』を絶対見たほうがいいです! これは、一生を心豊かに暮らしたい、ほんとうの心の平安を築きたいという人には必読書です!ほんとうに読んでみてください、価値ありです!
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- reira080802
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幸福も不幸も全て一人一人の心の中にある。 私は人の幸福を願える人の幸福を願います。 人の不幸を願ってしまう人の心を嘆きます。
- zenzenzen
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偉大な哲学を産んだ中国の魂は何処へ行ったのだろうか.
- zenzenzen
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孔子においては以直報怨といい 老子においては以徳報怨といった.
- zenzenzen
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それに越した事はないが一面的過ぎる. 思考のロックのかかった子供のようだ. 車は加速やスピードは出せるけど出さないというのが大人の運転だといわれる. 怨みは一代で終わらせる.それを超えて子孫には幸福を願う.恨みを子の世代に引き継ごうとすることこそ悲惨だ.だからこそ中国の教育における恨みを骨に染込ませるような教育をする事自体が中国という国体の異様さを思わせる.
- kobarero
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人に仕えては上司の成功を願い、妻となっては夫の成功を願い、親となっては子の成功を願う。どうして得しないということがあろうか? ジハードにおいては敵の失敗を願い、裁判においては敵の失敗を願う。どうして得しないということがあろうか? コンサートにおいては無心に楽しみ、漫才を聞いては無心に笑う。どうして得しないということがあろうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。
- zenzenzen
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それは生物種間においてもそうであるかもしれない. 自らの生存をかけて それが生物の進化.
お礼
ご回答ありがとうございます。
- zenzenzen
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と故事が教えています.
お礼
ご回答ありがとうございます。
- zenzenzen
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そうやって宗教は利用され政治が如何に民衆を虐げるものであってもその為政者を怨む事を封じようとした. 怨まれることを一番恐れるのは為政者だ. それがお互いの身の破滅の始まりだからである. 譬えこの身が滅んでも,と怨まれることほど為政者にとって怖いものはないのだ.
お礼
ご回答ありがとうございます。
- hw4183
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人の成功(幸せ)を願って生きる これが出来れば成功者であり、 この思いと、行為が即幸福であるんですね。 自分が今不幸であっても他人の幸福を願った瞬間、不幸ではない、です。 幸福を願う、即幸福です。幸福を願った瞬間、幸福を手にしている状態です。 幸福不幸は日々瞬間瞬間の心の向きです。方向です。いつも定まっていませんね。 不幸を願う事は即不幸です。人の不幸を喜んだり、不幸を願う気持ちを持っている方は、それ自体が不幸なのです。不幸を願った瞬間にその時点では 不幸な状態である。という事です。 人の心の針は思った瞬間、必ず、幸福か不幸かどちらかを指し示しています。 思った事の集積が自分自身であり、幸不幸どちらの人生を歩んだかは 心がどちらに多くあったか見れば分かりますね。 これが天国地獄を分ける基準です。天国=幸福、地獄=不幸ですよね。 人の不幸を願う人は天国にはいない、 人の幸福を願う人は地獄にいない、という事ですね。 死ねば心しか残りません。 本当の成功か失敗かは、この世だけでは完結しない、あの世の視点も入れなければ半分しか分からないという事です。 世界中の人が、他人の幸福を真実願って生きる事ができたら、世界は光輝くでしょうね。 補足説明 「お釈迦様はあの世について教えを説かれています」 (お釈迦様は唯物論を説いたとする説がありますが、これは大きな間違いですね。明らかな情報不足、勉強不足、勘違いですね。「霊的覚醒なければ悟りなし」です。ただ霊的体験なく霊的確信を持つ事は至難なので、霊的な意味をこの世的解釈として理解した事はある意味仕方ない事かも知れません。 唯物論を説いたら誰も信じる必要はない。唯物的でないから宗教は信仰が成り立つんですね。非合理的であるから、信じる価値が生じるわけです。教えの中にたくさんの霊的視点ありますから。世界宗教は皆、そうです。本来の世界は非合理的世界だからです)
お礼
ご回答ありがとうございます。 幸福不幸の心の向きはいつも定まっていない。 そのとうりだと思います。感情はポジティブとネガティブのいったりきたりで成り立ってますよね。 いつも「心の幸せ」を多く感じていたいですね。
- vincero
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自分がどのように願うと幸福を感じるのかは、人それぞれに違うことです。 自分が不幸なときに他人の幸福を願うのと、幸福なときに願うのとでは感情は異なります。 幸福な人の場合。他人の幸福を願うことは、自分にとっての喜びにもなります。幸福な人を増やし広げることは、自分の幸福を守ることにもなるからです。 不幸な人の場合。他人の幸福を願うことは、自分にとっての喜びになりません。幸福な人を増やし広げることは、自分をより不幸に感じさせてしまいます。 幸福を感じるのは、人それぞれの価値観などで違います。ですが、多くの人達は、他人と比較して幸福を感じたり、不幸を感じたりしているのではないでしょうか。 不幸な人が幸福を感じるのは、他人よりも自分が幸福になった時などです。他人が自分よりも幸福になると、不幸を感じてしまうのが不幸な人です。ですから、多くの人達は不幸な人といえるでしょう。 幸福な人にならなければ、本当の意味での幸福にはなれません。他人の幸福を願えなければ、まず自分の幸福を願うしかありません。 他人の不幸を願って自分が幸福を得られるのでしたら、その他人が自分にとっての不幸の原因です。その他人によって幸福が得られないのでしたら、その他人にも自分と同じ不幸になってほしいと願うのはわかります。 (その他人へ自分の不幸を理解させることは、その他人を幸福にすることにつながるかもしれません。) 願い方は動機が重要です。不幸を願うよりも幸福を願うことの方が、得なのは理解できるでしょう。他人の不幸を願うよりも、まず自分が他人と同じかもしくは、それ以上に幸せになることを願えば良いのです。 質問の三つの選択から外れていますが、お互いが幸福になることを願うのが、一番得な願い方と私は判断します。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >お互いが幸福になることを願うのが、一番得な願い方。 共感します。
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お礼
ご回答ありがとうございます。