《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か
《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か
▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。
・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰
☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。
【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。
1. 《 ♪ 夕焼け小焼けのあかとんぼ》ともうたわれるわけだが ここでは童謡の《夕焼け小焼け》をとりあげよう。小節づつ。
2. 《 ♪ 夕焼け小焼けで 日がくれて》
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日本人は昔から、あの落日のかなたに浄土をイメージしてきたのではないでしょうか。・・・
沖縄に行きますとニライカナイという海上のかなたに存在する理想の国土が信じられております。
その太陽がまた翌日になると、東から昇るわけであります。それは人生が必ずよみがえる、季節も繰り返しよみがえってくるという再生の考え方とも結びついている。それを象徴するのが落日ですよね。
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3. 《 ♪ 山のお寺の 鐘がなる》
▲ “山のお寺の鐘が鳴る” その山のお寺が朝昼晩 鐘を鳴らす。鐘の響きを聞いて人々は起床し、食事を取り、労働をし、1日のリズムがそれで決められていく。
☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。
4. 《 ♪ お手てつないで みなかえろ》
▲ しかしこれは大人に対するメッセージでもあると私は解釈しています。「帰るべきところに帰れよ。」 そういうメッセージですね。
5. 《 ♪ からすといっしょに かえりましょう》
▲ 「共生」、動物たちや小鳥たちや自然といっしょに生きていこうという考え方は、もうこの『夕焼け小焼け』の歌の中にきちんと歌い込まれていたんです。
6. 木下順二の『夕鶴』
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・・・〔* あるたけの羽根で織物を織らせられ〕鶴は人間どもの欲望の尽きないありさまに絶望して、天上に帰っていく。鶴が飛び立ったときに初めて与ひょうは大事なものを失ったと思う、という現代劇です。
最後につうが天上に戻っていくその場面を、木下順二はどう表現していたか。これが夕焼け空なのです。つうは真っ赤に燃えた夕焼け空に向かって飛び立って行った。
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7. ☆ さてここで最初の【α】と【β】の問いになります。
特に【β】については こうです。
【β‐1】 日本人は――いくら自然と一体だと言っても――決して 夕陽の向こうのイデアの世界にふるさとを見るなどということはしないのではないか。――《世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば》(山上憶良)。その場この場にとどまるほうが 日本人の伝統ではないか。
【β‐2】 同じような内容として:《人間のあさましさ・その欲望の深さにたとえ絶望した》としても 鳥ではないのだから 夕鶴のように夕焼け小焼けの赤く染まった西の空のかなたを目指して飛び去っていくことはないであろう。
【β‐3】 この《夕鶴》および《夕陽の信仰》というしろものこそが 日本人のあいだに いぢめを無くさなくしておる共同の観念であり幻想であるのではないか。いぢめに遭ったとしても 夕陽の観念に逃れその栄光の観念の国にのぞみを見い出せと 周りの《観念の運河》からは声が聞こえて来る。――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。これが 日本人の信条ではなかったか。
☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう?
* (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?