前に回答したのでしておきます。
少し誤解もあるようですので、そこも書いておきます。
>一闡提という人は仏性がないそうです
という、説があると書いただけですので、それが仏教世界の定説でもないし、決まってもないのです。たとえば、同じ一闡提でも菩薩闡提というのもあって、これは悪人ではないです。菩薩は、自分の悟りをおいて、他を救うことを優先しますよね。となると、菩薩は最後に悟ることになります。理論上、ほとんど悟れないということになります。これは悪人ではなくて、救済の煩悩がある菩薩ならではということです。
もちろん悪人の一闡提もあります。しかし、彼らに仏性がないといつも書かれているわけではなくて、やはりあるんだとも書かれています(大乗の涅槃経)。そのために、日本や中国では一般にすべての人間に仏性があるとされているわけですね。日本では一闡提成仏の説が普通ですので、仏性はすべての人間にあると、お坊さんは説きます。なお、どういう意味での悪人かと聞かれれば、これも前の回答を見てくだされば分かりますが、仏法をそしり、親を殺すなどの五逆罪(殺母、殺父、殺羅漢、破和合僧、出仏身血)などを興し、反省すらしないもの、このようなものをそういいます。それについては、悟らないと書かれている部分もあり、そういう解釈もあったということです。
したがって、もともとの経典によれば、彼らは信心はしませんが、あえて順序をつければ、仏性がないが故に、信心しない、という順序になると思います。しかし、一応仏性は持っているが、それが発揮されることはない、と主張する学派もあります。
大乗仏教で、仏性をよく説くのは、仏の位置が大きいからです。信仰を出したのは、日本の仏教(大乗仏教)が仏を信じることによって成り立っている、というのはこういう意味です。歴史上の釈迦は、少なくても肉体的には普通の人です。先生であり、聖者であっても、絶対的な神ではありません。また涅槃に入った後に、我々の目の前に出てきたり、助けてくれたりしません。
こういった、信者にしてみれば、不安定で頼りのない一面があります。これに対して、大乗仏教では、永遠の仏を考え出しました。永遠の救済者です。大乗仏教がそういうことを言い出したのは、インド古来のヒンドゥー教が様々な神々の信仰をもって、信者を獲得し圧迫されてきたのに、対抗して、ブッダの神格化を図ったと一般には言われています。それまでは偉大だけど普通の人間でした。
とにかくブッダは、永遠の存在になりました。ここが大乗仏教の特徴の一つです。大乗仏教は空を説くとか、実体を説かないとかいいますが、それは哲学の部分です。信仰の部分ではこうした実体的なものを取り入れたのです。とくに仏性の話は、その最たる者で、空とも直接関係ありません。永遠のブッダは、同時に我々にとって永遠の救済者であることになりました。たとえば有名な法華経には、仏は父親(永遠の)のように我々を導くとあります。これがだれでも仏の子、という話の直接の出典でしょう。そして、救済された私たちはどうなるのか、というともちろん仏になる、というのが、法華経の主旨です。その成仏の根拠が、仏性であり、ブッダの永遠性を己の中にも見いだす、ということです。もちろん現在の日本で仏性を説く人は、すべての人間が仏性を持っていて、仏の子であることの証明であり、それによって救われるという意味で説いているのです。だから信じましょう、仏とか自分の救済とかすべての生き物を、と。
で、今は法華経としますが、仏性を哲学的に書いてあるわけでも、救済が哲学的に書かれているわけでもありません。同じ大乗経典でも空を説く経典は哲学的要素も濃いですが、基本的には信じることが重視されます。というか、信じろ信じろ、そうすれば悟れる、としか書いてないともいえるかもしれません。いろいろなたとえが書いてありますが、とにかく信じろ、と書いています。仏性を理論的に証明できれば良いのでしょうが、仏教の説く因果説では、もともと実体的な仏性を証明するのにはどうも落ち着きが悪いのと、形而上学には向かなかったのでしょうか、これはほとんど発展しませんでした。信仰をすすめるのは、こうした事情があります。
誤解はとけたでしょうか?
お礼
何度もありがとうございました。 これっていう解釈がなくて仏性の考え方もいろいろあるんですね。おかげさまで、なかなかわからないもんだということがわかりました。