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ポーズだらけの世の中で子供はどうなるのでしょう
世の中に「かくあれかし」という常識がまかり通っております。極端な例しか思いつきませんが、事故でなくなった方はみんな「明るい人」とか。ヒットラーは有無を言わさず悪人であるとか。「なんで」という疑問が本能的に沸いても、それが抑圧されてしまうという経験をすることは、処理しきれない混乱を招くことになるかと思います。それは、私の場合は精神発達が遅かったためもあるでしょうが、十代前半までそういうまがい物理論に毒され利用され混乱させられていたと思います。そういう疑問は教育学的にあるいは心理学的には問題にならないのでしょうか。
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大変に良い質問ですね。ただ、問題は「ポーズだらけの常識」がまかり通ることよりも、様々な見解がある事を「子供自身が経験しない、できない」ことの方が深刻です。…なんか『バカの壁』みたいな話し(でもオススメですよ)。 「かくあれかし」という常識がまかり通る…のは、別段特別な事ではありません。いつの世にも常識も道徳も存在しますし、そのヒットラーの例のようにたとえ一個人に対する観念が規定に置き換わるのも決しておかしい訳ではないんです。あくまで延長線上のことなんですよ。 忠臣蔵だって、各登場人物の役回りはほとんど決まってますね。そこには、実際に存在したであろう個人とは必ずしも一致しない性格で描かれる事もありますし、多くの人はそれも知っているでしょう。けれど、“忠臣蔵”というストーリィに重点をおけば、おのずと描き方は決まってくる…つまり、認知すべき“キャラクター像”の焦点は定まっちゃうんですね。実際の人物として、は問題じゃなくなっちゃうんです。(この点はメディア論に通じるかな…言葉とか“情報”として伝える上では一種の“キャラクタ化”すると第一に通じ易い。その上、“情報”として一元性を持たせるためには結局不要な部分は“存在するけど切り捨て”ないといけない…結局、伝えてない部分は受け手にとっては無いのと同じなんですよね…) だから、問題は“(ある観念が)常識としてまかり通る”ことよりも、そうした「物事に対する見方」が“本当は多様である”事を経験する機会が成長の過程で失われ易いという現在の社会構造が問題なんです。 よく云われる話題なんですが、昔は大家族が多くておじいちゃん・おばあちゃんや色んな人が家の中には居ましたし、地域の結びつきも強かったから近所のオジさんであるとか、色んな年代の人と子供が触れ合う機会があったのですよね。しかし、そうしたものが薄れて、現在の子供は幅の広い年代の人々と生活を共にする機会というものが大きく減ってます。これは、経験として多種・多様なモノの考え方に触れ合う機会が少なくなると云う事を意味するんです(人間の人格形成に多く関与するのは“経験則”なんです)。 世にまかり通る「常識」が、一定の形質を得易いことは先に述べた通りです。逆に云えば“価値観”に普遍性があるとしたら、“忠臣蔵の芝居”のような、その程度のものでしかないということです。 だから、同じ事を言っているようでも一皮剥けば個人個人、色んな差異が見えてきます。色んな見方をする人が居て、色んな情報の組み立て方があります。そこで意見の相違が現われて、最終的には違う結論に至る訳です。 特に、異なる世代、異なる立場の人間と触れ合うのは良い事です。様々な意見や見方、色んな意味で刺激になりますからね。 ただある点で言うと、日本人はもともと“議論”の文化は持ってないんで、そうした異なる見解の相互立証は苦手かも知れないですね。だから、「上手に議論を交わす」弁証法の技術というのはこれからの人間こそ身につけないといけないのかも知れません。これは、むしろ教育を“行なう側”(親も含めて)の問題でしょうけどね。ま、そうすると冒頭の議題とは論旨が異なってしまいますから、言及はしません(認知と抑圧は次元の違うメカニズムだから両方を論じると益々長文になる…)。 「心理学的に問題か?」と問われると、それは「(扱うには)次元が違う問題です」と答えざるを得ないと思いますね。洗脳(と言うよりマインドコントロール)の話しをする時に浮上する話題ですが、それ自体は心理的には特別な作用じゃないですからね…。実は誰しもが普通に経験もすれば他人にも行なっている事ですから。件が問題であるのは、むしろメカニズムを把握した上で意図的に行なう一種の「マニュアル」とでも言うか…要するに、「何のために行なうか」でしかなくなるんで、それは心理学の範疇じゃないんですよ。 トラブルや、何らかの“病理”であるならその時に心理学の範疇…となるでしょうね。ただ、それはパーソナルな部分を追求しないといけないんで、社会全体に対するものとは言い方が違ってくると思いますよ。要するに、「カタチが似てるだけで、オタマはスプーンの代わりにはならない」んです。
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- Earmy-S
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…微妙に論旨がズレているような。ただ、問題点に対する追求は出来ているみたいなので良い…んでしょうか。(^^;) 「叱る」ということは非常に大切な事です。ある年齢までは、そうして心的な圧力をかけることは「罪悪感」を養い、また「誉める」ことで「良心」を育まなくてはなりません(発達心理学ですね)。 ただ、それが常にそれであるだけでは人間としては未熟なんですね。論理的、理知的に「なぜいけない事なのか」を説明できないと、説得力が欠如してしまいますから。信念や信仰であるにしても、必ずそこには何かしら拠って立つだけの“根拠”があるのです。 特に、「叱る」ことと「怒る」ことの区別を付けないと説得力を得るのは難しいですね、親としては。 ところで、これまでのこの質問に対する回答の内容中にちょっと危険な部分があるので、あえて指摘いたします。 > No.7 はっきり言いますが、脳の機能障害が異常行動に結びつくと言うのは偏見です。外科的に腫瘍や脳溢血が見つかったからといって、それが個人の性格や思考を左右すると言う事はありません(脳梗塞で性格が変わったなんて聞いた事無いでしょ)。よしんばそのような要因が人格に影響を与える実例があったとして、それが一切の身体機能を損なわずに人格にのみ作用するなんてことは宝くじの高額当選よりも遥かに低い確率です。 (まぁ、過去そういう…人格への干渉を目的とした外科手術の研究は行なわれていたけれど、今日全世界で禁止されてるのは倫理の問題…のみならず、まるで悲劇的な結果しか生まなかった現実の教訓でもあるわけです) 脳科学は古くから研究されてきた分野ですが、その解明は心理学や生理学よりも遥かに難しく、MRI などの研究機材の発達により近年漸く解明が進んだ分野でもあります。 そもそも脳という器官は、…簡単に言うと、たとえ同じ大きさ・同じ重さで同じ細胞の数を比較したとしても、一人々々の反応は異なります。なぜなら、ニューロン同士がどう言う風に手(シナプス)を繋ぎ合っているかが違うからであり、いわば“素材が一緒でも回路が違う”のです。従って、人間一人々々の脳は形状や重さはそれほど差はでなくても、誰一人として同じものを持っている事は無いのです。 もう一つ例を挙げれば、一卵性双生児は同一の遺伝子をもちます。しかし、彼ら(彼女ら)の指紋や網膜・虹彩はそれぞれ異なった形状をしているんです。これは、発達(また成長)の過程で作り上げられるため、遺伝子という設計図は一緒でも違う形状になるのです。より複雑な影響を受けながら発達する脳となると、尚更であるのは無理もありません。 かつ、“意識”となるとこれは更に難しく(感情などは脳内ホルモンなども影響してきますからね)、一重にそれら脳と言う器官のなかで起こる一種の“現象”としか観測できません。したがって、善悪の判断や人間の性格はもっともっと複雑な要因を孕んだ高度な結果なのです。 ですんで、例えば件のヒットラーにしても、ヒムラーにしてもゲッベルスからアイヒマンに至るまで、多分健康体ではあったろうし少なくとも異常ではなかったでしょう(文献を調べれば分かる事ですが、やってた事が戦争やホロコーストだったというだけで日々の仕事は管理職とそんなに変わりません。アイヒマンなんかは特にサラリーマンですよ)。したがって、善悪の観念としてそこは…客観的に判別すればパラダイムの問題でしかなくなるでしょう(歴史を紐解けば大量殺戮を行なった支配者は枚挙に暇がありません)。彼らの行なった事は未来永劫正当化など到底されてはなりませんが、時を隔て今を生きる人間が彼らの過ちから学ぶべきは“如何な状況で人は道を誤るのか”という命題であるべきでしょう。 無論それは問題として追求するにはあまりにも本題より逸れた議論ですが、あえて言及したのは、先の“脳の障害”に関する表現が実際にそうした障害に苦しんでいる人々に対する偏見を助長しかねない表現であるためです。脳の機能障害というのは先も触れた通り、漸く近年研究が進んできた分野です。そこにおいて、これまでは判別されてこなかった障害というのが明らかになり、少しづつ社会もそれらへ手を差し伸べつつあります。 →“広汎性発達障害”で検索しましょう。 そこにおいて、社会にはびこる“間違った情報”・“無理解”・“偏見”に(子供やその親たちが)不当に苦しめられている現状も明らかになってきたのです。 少なくとも、人間はそれまで生きてきた経験と現在おかれている立場・環境によってその思考や行動を左右されるものであり、身体の一器官・一部分の影響だけで意思が決定される生物ではありません。まして、善悪の判別や良心というものは、“社会性”や“信念”といったもっと複合的で高度な仕組みの上に成り立っています。 病気でも障害でも(後天性でも先天性でも、とも云えますが)、そうしたモノにより人間の意思と行動が左右されると云う発想こそ「優性遺伝子説」であり、ナチスのホロコーストの根拠である事を付け加えておきます。 人間の成長の上でもっとも重要な事は、たくさんの“善意”に触れることです。そこに身分や身体の別は問題ではありません。
お礼
たくさんの「善意」に触れたいです。
- kigurumi
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人の死とエロ本は全く異質だと思います。 エロ本は有害図書として、ある程度 現実と架空の区別がつく年齢に達してからでないと、危険な書物になります。 人の衝動は感情が源ですから、理論での説得による制御は難しく、駄目だって言ってもやる者が出ていたづらに性欲を煽られて性犯罪が増え、悲しみが増えるのをこれ以上防止するため、法律で範囲を決めて「こっから先 足踏み入れたら罰を与えるよ」と恐怖心に訴えることで、感情の衝動を制御できるのではないかと思います。 以前、通りでバッチーンとひっぱたくような音がして振り返ると、お母さんと7歳くらいの子どもと3歳くらいの子どもがいました。 「お前がなんでもかんでも弟に買ってやると、弟はものの価値や大事さがわからなくなる!」って怒鳴りつけていました。 7歳くらいの女の子は真っ青な顔をして固まっていました。 7歳の子にとって、愛情を注ぐ一番身近な対象であり、保護したい対象であり、彼を喜ばせたいと思っておこずかいの中から買い与えてもののようです。 「物の価値がわからなくなる」と言われても理解できません。 彼女の弟への愛情を示したい願望が強ければ「お母さんには内緒ね」と貢ぐことをやめないかもしれません。 では、理解できるように根気強く彼女に説明をすれば理解できるか? 理解できる かもしれません。 でも、彼女の衝動が強ければ、理解していても貢ぐ事をやめられないでしょう。 だって 好きというエネルギーは巨大ですから。 じゃあ おかあさんは娘がお母さんに隠れてまだ貢ぐことをやっていた場合、お母さんはどう彼女を導けばいいでしょう? おこづかいを渡さない。 渡さなければ彼女は物欲で人の気持ちを自分に向かせようという行動は取れなくなる。 それでも弟に愛情を示したくてたまらなければ、かまって一緒に遊んだり、外敵から保護したりして弟へ愛情を注ぐ方向があると気づくかもしれません。 って事でいかがでしょうか。 一応 後者のエロ本に対する説明が無かった件に関しても、例をあげて説明してみました。 つまり 『事故で亡くなった人はみんな言い人』ってどうして決め付けるの? と 『エロ本を見せてくれなくなった理由を説明されず、ただ駄目だって威圧的するってどいうこと?』は本質が違うように思えるのですが・・・ 例を揚げて質問するのなら、最初からエロ本の件を上げたほうがよかったのではないかと。
お礼
ご丁寧なご回答ありがとうございます。 私はどうも、なにか行為を強要される薦められるとき、その根拠や理由をたいへんほしがるというところがありまして、私基準でという感じの質問になっているかもしれません。 大人の指導による、社会的な方向付けということでなく、子供の心を納得させることが、たとえ結果的に同じになるにしろ、なにか大事なことのように感じています。別に子供であろうと大人であろうと関係ないわけですが、こうこうするとこういう効果があるからこう薦めるんだと。 ですので、上に挙げられた例で、お姉さんに説明するのとしないのとで、彼女にとってえらく違いがあると思うんです。もちろん、お小遣いを与えないという強硬手段は必要だと思うのですが、そうしない理由を説明するか否か、これは彼女が親の愛情を感じられるか否かという問題につながっているように思われます。 そう考えますと、「疑問に答えてくれるか」という点においては、事故の話とエロ本の話は私にとっては同質に思われます。教育的な重みは違うのですけどね。質問者への愛情という点で同じと思われました。
補足
あ、お姉さんは説明されてますね。それならこの場合の話はよくできたお母さんだと思います。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
私なりに分析しますと、亡くなった人のことを「いい人だったのに惜しまれます」というのは遺族に対しての思いやりだと思います。 遺族は肉親をなくしたことで喪失感に陥っています。 人間社会は一人で生きていくのではないので、人間社会は喪失した人の悲しみを少しでも和らげ、遺族の人の心が早く持ち直すようにします。 痛み分けなのかもしれません。 従って故人を知らない人が一方的に死んだ人はいい人だと決め付けているからじゃあない というのがわかると思います。 人間はいろいろな側面があり、行動に関して全くの義の人は一人もいないと思います。 では、全員悪人なのか というと、そうなってしまうと、「いつやられるかわからない」と被害妄想になり、社会の人間と人間のつながりは断絶します。 人間は集団で生きていく宿命にあるのに、断絶してしまっては絶滅するしかありません。 従って性善説は人類存続に必須なのではないかと思います。 宗教によっては性悪説をとるところがあります。 その威力の悪い例として、女性は汚いと被害妄想になった人が、次々女性を強姦しては殺していきます。 その人の根本の価値観は、女性は全員汚いですから、汚いものは排除して当然という価値観です。 そういう言い分をする殺人者はだいたい極限のその性悪説を解くその宗教の熱狂的な信者であることから、性悪説は人を滅ぼす説ではないかと思います。 自分が滅ぼされたくなければ、やはり性善説をとって人を信じるとか好きになるとか プラス思考で行くしかないのではないかと思います。 蛇足ですが、 大量殺人者、狂っているとして、根源が悪だとされ処刑されます。 しかし、死んだ後解剖すると、大量殺人した原因はこれか とわかることがあります。 脳の異常です。 その人ではなく病気や障害で、常軌を逸した思考になっていたとわかります。 従ってそれさえなければ、彼は人を殺してはいなかったと思え、彼の本質は善だったのではないかと思えます。 ヒトラーも調べてみれば、どうしてそうなったのかわかったかもしれません。
お礼
ご論旨の「性善説」の必要性。納得いたします。それが一種の必要悪てきであっても、やはり落ち着くところに落ち着いているという状況と考えます。必要悪だからこそ、例に挙げていただいたような、腑に落ちない事実もあるのでは。法制度の限界点というか。 が、したにも書きましたが、やはりこれは成熟してからの話で、発展段階でいきなり来てしまう感じではないでしょうか。そしてそれも必要悪。子供は動物だから鞭で物事を仕込むしかない、説明はいらないんだ!という伝統か何かわかりませんが、そういう事態ではないかと思われます。 まぁつまらない例ですが、これを普遍化するつもりもないのですが、おじの部屋にあそびに行った小学3,4年のころでしたか、エロ本まがいのものを本棚から取り出して、かくれて読んでいたのです。それを見つかって隠されてしまった。もう一度見つけようとしていると「もうないんだよ」と突き放されたのですが、そのなんで隠されなければならないのかの説明は無く、ただの威圧なわけです。で、威圧感だけはわかるのです。が、理由はさっぱり伝わってきません。これは精神衛生上よくないと、子供心に感じました。「説明」が必要であって、それが人間性の尊重なのではないかなと、そういう思いがずっと残っています。それで今回のような質問を思い立ったのです。
補足
ですので、もし仮にですけど今度の列車事故のニュースで子供が「なんで死んだ人はみんないいひとなの?」と聞いてきたら、ご回答のような「説明」がぜひ必要かと思われます。もちろん、このままじゃ高度すぎて無理でしょうけど、まったくそうだからそうだ!というのは、私は(プチの何乗)トラウマを子供に与えると思っています。
- Drag-one
- ベストアンサー率23% (6/26)
済みません、ANo.1の補足をよく読まないで回答してしまいました。 質問の解釈ですが 「子供が自発的な発想を持ちながら、否定される形で抑圧された時に、子供はどの様な反応を取るのか。」 というような感じですね。 まさに、最近の「ゆとり教育」の骨子そのものだと思います。自由な発想を損ねない事こそ豊かな人間性をはぐくむと言う考え方です。
お礼
ゆとり教育にそういう論旨があるのは知りませんでした。いままでやたらにただ授業時間を減らすというような、まさに大衆的な雰囲気に私自身流されて、認識できませんでした。そういう受け皿は、今後も継続していくことが肝要化と思います。
- Drag-one
- ベストアンサー率23% (6/26)
No.2です。補足です。 洗脳的な教育についてですが、中東地域で起きている宗教紛争やおとなり中国、韓国の教科書問題などは、その例だと思われます。(子供の頃の偏った教育が大人になってから周囲に対する偏見として行動に現れる。) これを心理学の立場から問題提起しないのか出来ないのか、という事を言っておられるのだと思うのですが、心理学は個人の中で起きている事を生物学的に分析する学問だと思いますので洗脳とかになりますと第三者が意図的に(善意にしろ悪意にしろ)教育活動をする点において心理学が応用、利用されているのであって問題提起はされないと思います。 したがいまして、ここでは心理学は教育の道具として使われているのであって、扱う側に問題が有ると思います。以下その心理について説明いたしたいと思います。 事故の例について、マスコミがなぜ大げさな報道をするのか疑問を持たれると同時に憤慨されているようですが、これは視聴者の恐怖感が反映された結果です。 この事故(福知山線列車事故)の後あなたは電車の先頭車両の一番前に意識せずに行く事が有ると思われるでしょうか。 無意識にまた同じ事が起きるのではないだろうかと神経が過敏になっていると思います。 この様な反応が毎日電車を利用している人達の間に起こり二度と同じ事が起きないようにと悪人を懲らしめたい思いからしつこい報道を望む声が起き、マスコミはこれに答える形になっているのです。 したがいましてポーズではないと思います。 ヒットラーみたいな人があなたのすぐ近くに来たら悪く言う人の気持ちが少しは分かってもらえるのではないでしょうか。 しかし、この反応はあなたの言う通り大げさな物である事は確かです。被害妄想的な反応ととって良いのではないでしょうか。 子供がこれを見てどう思うかについてですが、子供は遺伝的なものに有る程度左右されていると考えますと働きかける人が身近であればあるほど影響を強く受ける事になるでしょう(当たり前ですが)。 親が無くとも子は育つ。とも言われます。子供を取り巻く環境をすべてコントロールする事は出来ません。でも努力は引き続きされるべきですし、されるでしょう。
お礼
長文のご回答 ありがとうございます。 そういう大きな雰囲気に飲み込まれてしまっている。個人の素直な疑問が押し流されていってしまうところが、仕方ないとはいえ、困ったものだと思ってしまいます。
- souziki
- ベストアンサー率24% (116/482)
んー、わたしはヒトラーさん好きですよ。行動は好めませんけど。 えっと、思春期になれば常識を嫌うようになると思うんですが。 例えば、制服かな。 小学生のときは何の疑問も持たずに着てきましたけれど、成長するにつれ理不尽を感じるんですよね。 なんで教諭は私服で俺たちは制服なんだよって。 実際に私服に変えよう、という運動を起こした学校も少なくないです。僕の時もあったんですが(恒例行事みたい)却下されました。 でも、いつかはそうやって常識に疑問をもつようになると思うんですよ。 それに、嬉しいことに日本の常識は世界の非常識といわれる環境。 世界を知れば自国の非常識さを身にしみて知り、常識を破る、という癖がつくようになると思いますけれどね。 だから、日本人は素晴らしいとか言われます。ファンタジーに関してあそこまで型破りなことが出来るのは圧迫された緊張感と、それを破る能力を持ち合わせているから、だそうです。 >「なんで」という疑問が本能的に沸いても、 >それが抑圧されてしまうという経験をすることは、 >処理しきれない混乱を招くことになるかと思います。 そんな気もするんですが、意外と子どもってパワフルですからね。でないと世の中生きてこれないよ。 心配しなくっても平気じゃないかな。 処理しきれない時ばかりじゃないと思いますし。 フツウはね。 それに、子どもは常識だけで生きているんだから、それを取っ払う方が不安だと思いますよ。 自由ほど怖いものはない。自由と責任はセットですからね。まだ子どもに責任が取れないのに、自由の押し売り、常識の取り上げの方が、よっぽど危険じゃないかなぁ。 小四くらいの子と喋っていると、「それが常識でしょ」っていうような台詞が良くあります。 でも、成長して、他人を知って、常識だけではどうしようもないことがあるのを知った大人や青年たちは、「常識でしょ」ってあまり言わないですよ。 「礼儀」はあっても。 ああ、そういう人もいるし、そういう環境もあるんだな。自分の常識を超えたモノがあるんだな。 そうやって認識でき始めるのは、子どもじゃなくて青年くらいじゃないでしょうか。
お礼
前半の制服のお話ですが、ちょっと守備範囲外かなという気がしました。それはすでに制度化されていることというか。 もうちょっとプリミティブなことを問題にしたかったのです。事故でなくなった方はなんでみないい人だったんだろう?とか。性善説の強要はなぜあるのか。子供はそうは思わないと思うんですよ。ほんとにみないい人たちだったんだと思ってしまう。そこに社会を流れる馴れ合い、慣習、そういう腐った風習を理解するのは無理じゃないですか。だから「なんで」と当然思うんです。 で、子供もおっしゃるように4年生くらいになれば、すっかり理由はわからないけれども、性善説のポーズをとるという「子供老人」になってしまっているのではないでしょうか。そこで「常識でしょ」なんて出てきますね。すでに手遅れだと思います。だから、常識を取り上げるのは確かに危険でしょう。 ですので、なぜ幼児の「なぜ」に応えないのか、「子供老人」を作るのが教育なのか、大いに疑問を残すところです。 ご回答後半の「常識を超えた」問題というのは、これはオプション的なものというか発展学習的なものではないかという気がいたします。時間の問題で受容可能になっていく、ということかと思われます。 しかし、ファンタジーに関しては、そういう隠れた幼児的な「なぜ」の未解消問題が昇華されているのかもしれないですね?
- Drag-one
- ベストアンサー率23% (6/26)
そっけない表現になりますが、教育学的にも心理学的にも間違った情報による精神的な混乱は扱っていると思いますし、のちに様々な障害や社会的な混乱を引き起こす事も研究されていると思います。 常識は確かに存在しますが、それは多くが巧みな宣伝広告によってプロパガンダ的に一般大衆に広く浸透しているからかもしれません。 9・11以後のアメリカの大衆は自らの要求でマスコミを動かしていき、国家的な軍事作戦を大きく後押ししていったとも言われています。 混乱しない為には常に冷静な判断をして強硬な意見に対して疑問を持つ事ではないでしょうか。
お礼
はい。しかし子供にはその経験も知力もまだ未発達だということです。一種の洗脳教育を図らずも受けているのと同じになってしまうのではと、危惧するものです。
「そういう疑問」が何を指すのかがよく分かりません。補足が必要と思われます。 あなたは、常識に対する「なんで」という疑問が抑圧されることが、好ましくないと考えている。 ということが文章から読み取れるのですが、最後の「そういう疑問」というのは、上記の「なんで」の疑問ですか? もしかしたら、下記のような質問をなさりたいのでしょうか? 「常識に対する疑問を抑圧することは、教育学的、または心理学的に問題にはならないのでしょうか?」 いずれにしても、質問文を補足しないと、読み手は何を聞きたいのかよく分かりません。
補足
ご回答ありがとうございます。 そういう疑問とは「常識でこどもの「なんで」を抑圧することが問題にならないのか」ということです。 まさにそのことについてお聞きしたかったのです。乱文ですみません。
お礼
たいへん長文のご回答、ありがとうございます。 始めに心理学の適応分野ということですが、これは質問者もあまり「心理学カテゴリだから」ということを意識してませんで、また専門家でもなんでもないので、範囲外だということならば、まったく持って納得する感じです。ですので、あいまいに「心理学っぽい話題を振りたかった」と解していただければ幸いです。 御論旨にまったく納得いたします。地域共同体世代間の交流ですか!大事なのかもしれないですね。それが一番かつ最も現実的な、多様な価値観を取り込める土壌だと思います。