こんにちは。
仏像の好きな方は沢山いらっしゃいますが、ほとんどが個人的に楽しんでいらっしゃるので、なかなか複数の人数で集まるということが起りにくいようです。と言うよりも、ひとりで仏像を見て回る、というのが日本人の大部分の仏像ファンのあり方なのだろうと感じています。
そういった仏像ファンの多くは、仏像と対面している時の時間をものすごく大切にされますし、自身にとって素晴らしい時間だから心行くまで楽しみ、同時に仏像の前で自分に向き合っていろいろ思うのでしょう。それが面白く価値ある瞬間だから、多くの方は一人で仏像めぐりをすることを好むのかもしれません。
仏友、というのは、私自身は、「仏像と対面している時の時間や、仏像と対面して自身を見つめなおしてゆく時間を、分け隔てなく共有出来る存在」なのだろうと思います。仏像の趣味が同じ、とか、一緒に仏像を見に行く、だけの相手は、仏友というよりは単なる同行者に近く、仏像との瞬間を共に共有し後々まで語り合ってゆけるかどうかは疑問です。
私は「仏友」に近い概念は、たぶん「戦友」という言葉にあるのだろうと常々思っていますが、仏像巡りを真剣にやればやるほど、それだけ共感や結びつきを強く持てる相手でないと一緒に熱中し共に感動しあうことが出来ないことをこれまでの経験からなんとなく理解しております。
親友であれば、色々なことを自由に自在に話して楽しんで一緒に笑うことも出来ますが、それは主観的に終始するし、馴れ合いにもつながります。戦友は、共に必死になって事にあたりますから、それ以上の結びつきがあり、主観よりも客観的な考え方をもってシビアになれる面があり、時には仏像見学の後で議論したり喧嘩したり罵り合ったりも出来ます。そういう友人は、ある意味では親友よりも信用出来ます。
私は、自身が仏像の研究者であり、仏像ホームページの代表も兼ねているせいか、仏像巡りというのは楽しさよりも、苦しさやしんどさの部分のほうが大きいなあ、といつも感じています。そういう場合でも一緒になって突き進んで、私がへたばったら「この野郎、立て、そんなことで仏像に出会えると思ってるのか!」と怒鳴りつつ、強引に腕を引っ張って立たせてくれる相手がいてくれたら、ものすごく心強いです。生死を共にする、といえば大げさですが、少なくとも気持の上ではそれに近いものを共有し一緒に寺を目指す戦友のような存在こそが、最高の「仏友」になってくれると思うのです。
そういう「仏友」を得ようと思った時、私はまず自分で行動することが肝心だと思い、色んな方法をとりましたが、寺や博物館で仏像を熱心に見ている仏像ファンらしき人に声をかける、ということだけは絶対にやりませんでした。彼らは彼らの仏像との時間に浸っており、その大切な時間を邪魔してはいけないと感じていたからです。仏像ファンの誰もが前向きに出て話せる場でなければ、声をかけても話題が生まれにくいと思っていたのです。ですからネットのメーリングリストやチャットへの参加、同好会への参加、仏像見学ツアーへの参加、ホームページなどの掲示板での交流、などの方を積極的にやりました。同時に仏像の文章や論文などを投稿したり発表したりしている人に手紙やメールを送ったり、博物館の講座や講演会の後に行われる交流勉強会などで同席した人と話したりして、一人、また一人と「戦友」を増やしていきました。そういう方法のほうが、仏像巡りの相手を見つける早道だと思っていたからです。
その何人かが私たちの仏像ホームページのメンバーに加わってくれ、現在に至っています。そうした仏友(実際には戦友に近い)たちと行動していて実感する言葉が「一蓮托生」です。好きとか楽しいとか、そういう次元よりももっと上の何かがあり、「こいつらとなら苦労も生死も共に出来そうだ」なんて真面目に思ったりしてしまいますが、そう感じられること自体がとても幸せなのだということに、最近気づいたので、いまでは感謝しながら彼らに接しています。
仏友、というのは本当に難しく、苦労なしには得られないレベルの友人なのだな、と思いますし、それだからこそ自分で色々アタックしたり方法や機会をフルに使って自身にとっての最高の仏友を根気よく探しつづけるべきだと思います。楽な方法では、決してよい友には巡りあえないと思います。まずはチャレンジ精神をもって自分の足で動いて探しに出かけてみてください。
お礼
御回答ありがとうございます。岡寺は明日香村のでしょうか?如意輪観世音菩薩半跏思惟像のことでしょうか?あれは素晴らしいですよね! アドバイス参考にさせて頂きますね! 私はベタですがやっぱり蔵王権現ですね@