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他人の評価なくして自己肯定感は高められるか?
私は恋人、から自分の優先順位が低い、 大事にされていないと感じたり 知人・友人から軽く見られていると感じると 自分はなんて無価値な人間なのかと思います。 普段はあまり考えてなくともこういう時 自分は自己肯定感がいかにないか気付かされます。 例えば、自己啓発本の類に 毎日、ちょっとずつhappyを見つけること。 (例:アロマを炊いてみる) 何かひとつを極めること。 などと書いてありますが自己の行動の変化で 自己肯定はできるものですか? 上記のような例はきっかけであり、 私は最終的に、人間は他人に認められない限り 自信が持てないと思うのです。 (ここでいう他人といっても社会全体の肯定感も含めてで 例えば学歴が高い人、若い女性、社会的地位のある男性等は 例えその時認めてくれる人がいなくても、 社会全体の肯定感と言うものを日々味わっているのではないかと思うのです) 他人に認められるプロセスなくして 自己肯定感は本当に得られるのでしょうか? また得られた方いますか?
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- katyan
- ベストアンサー率9% (201/2029)
追伸 逆から見ましょう。友人サイドから 彼とあなたの人生があまりにも違っている。 だから、彼らはあなたを見て、そう感じているのかも そしてもう一つ、友人や彼女に何か期待していませんか?そうではなく、自ら愛さないといけないでしょう そうすれば、友人たちの見方もかわります
追伸です 他者からの自分の肯定の方が気になるのですか? なるほど。 自分の自分に対する肯定感はぼちぼち上がりました。 他者が自分を肯定してくれているか?はあまり 上がっていないような気がします。ただ、他人が自分 をどう考えるか?と気にする回数や深さが和らぎ ました。 この質問は大人気ですね。それだけ、あなたにとって 正解になるだろう(複数の可能性もあり)選択しが 多いのかもしれません。あなたにフィットする良い 方法がみつかると良いですね。
お礼
>自分の自分に対する肯定感はぼちぼち上がりました。 この質問を見てると自己の行動の変化で 自己の肯定感が上がったという方が、結構いるんですね。 関係ないですがhamontukaiさんは波紋使いなんですね。私もジョジョおたくですよ。 ちょっと無理やりですが、プッチ神父が ”他人に優しくするのは自分に優しくして欲しい為であり、無償の愛というのものはない” これ、かなり好きな台詞なんですが、自分も基本的にはこの考えなんです。
- SUPERS
- ベストアンサー率42% (26/61)
ある意味哲学的な匂いを感じさせる内容ですね。 結論:自己存在の価値に対しての肯定的感情は、高められる。 補足です。 失礼ながら、「否定論理」にはまっているように感じました。 質問者様は、責任感が強く、感受性が高いのでしょうね。 まず、評価内容と自己への肯定的感情ですが、関係性から言えば 強く関連しています。しかし、一元的な関係性ではなく、この 関係性そのものを自己が決定づけることが可能だということです。 どういうことかと言うと、自分の行動が他者に評価されたとしま す。その結果が否定的であった場合、(生きている価値は無い等々) これをプラス志向する。結果がプラスであればいいのですから、 「こんなに言われて、なにくそ、悔しい。見返してやる。」パターン1 「生きている価値が無いのか。でもだからこそ価値を生み出してみせる。」パターン2 パターン1:なにくそ根性型(評価を認めずプラスへ転換) パターン2:受け入れ正義型(一旦認めてプラスへ転換) 一番怖いのは、「無反応」「無視」です。評価すらしない、されない。 ですから、反応を得るキッカケとして自己の行動を変えるのです。 その結果、相手の反応があれば、ラッキー、パターン1,2などの ように結果的にプラスへと方向付けていけるのです。 偉い坊さんが、仏の教説に照らして「反対されればされるほど 教説が真実だと確信するに至った」という話が残っており、 このような事例は数え切れないほど多いのです。 人間、本当のことを言えば怒ります。ウソなら聞き流すでしょう。 真実で力があるが故に反発があり、そのこと(国家権力に迫害される)が 正に予言的に教説に書かれてあったが故に真実だと確信したのです。 (とるに足らない、非力なものであれば誰も無関心のまま) さらに真実の教説を広める主体者であることによる自身の存在価値、 つまり、この世に生まれた究極の使命感を感じたのでした。 肯定であれ否定であれ、一石を投じて起きた波紋は、成長への キッカケということでしょう。 この場合、「一石を投じる」=「自己の行動を変える」ことです。 また、反応があやふやなのであれば、これもハッキリさせるための キッカケを作り、非難されるか、賞賛されるかの白黒をつけます。 そうすると、次への行動が変えていけるという理屈です。 アクションが無いと「下手な考え」だけに陥りますので注意ですが。 一番重要なことは、どうあったら良いか(あるべき論、評論、評価)、 ではなく、これからどうしたら良いか(目標、決意、行動)でしょう。 長文失礼、参考にならなかったらすみません。
お礼
障害をバネにするという考え方ですね。 非常に前向きで結果的に一番効率的な考え方だと思います。 いやみではなくまったくもって正しいと思うので、注釈の付け所がありません; ただ、自分の場合、目標って何よ?ってことになります。職業とか○年までにお金をいくら貯めるとか事象的、物質的な事だったらいえますけど。そうなると自分の場合目標の目的が他人に認められたい。なのでまたループですね。
- excelmania
- ベストアンサー率24% (94/377)
難しい問題だと思います。 が、これだけは言えます。自分で自分を評価できなければ、自己肯定感は高められない、ということです。 ですから、自分の行動の変化で自己肯定感を高めることは十分可能です。 と言うか、自己評価がなければ、他人にいくら評価されても自信は持てないのです。 ご質問者様だって、これまで生きてきて一度も他人に認められたことがない、と言うことはないはずです。 恋人がいる、と言う時点で、既に他人から肯定的評価を受けているのです。 それなのに、自信がない、自己肯定感がないのは、恐らく自分で自分を評価できないことが問題なのだと思います。 私は病気にかかって、自分が生きていていいのか、と言うことにさえ自信が持てなくなったことがあります。 そこから立ち直るきっかけになったのは、他者からの評価ではありません。 他者からの評価を気にし続けることから、自分自身を解放できたことでした。 私が病気になった時、いろんな人に迷惑をかけ、自分で自分が嫌になりましたが、 そんな時、焦らなくていいんだよ、そのままでいいんだよ、と大事な友人たちは言ってくれました。 でも、いくら友人たちが私を認めてくれても、私自身が私を許せないでいた時期は、自己肯定感は全くなかったです。 自己肯定感は、やはりまず自分から出発するものだと思います。自分は自分だ、とまず自分が思えることです。 他者からの評価がなくては自己評価を出来ない自分から卒業した時、私は自信を取り戻し始めたのです。 他者から評価されると、自分で自分を評価できなくても自信のようなものを持てますが、 結局それは根本的な自信にはなりません。何故か。少しでも他者から評価されないと感じたら、 それまでの自信は呆気なく崩れ去ってしまうからです。 他者から認められることは嬉しいことですが、それが全てになってしまっては、自分が苦しくなってしまいます。 そして、他者から肯定的に評価されるものが何もなかったら、立ち直れなくなってしまいます。 でも、自分で自分を評価できれば、その浮き沈みが少なくて済むようになるんです。 私も以前はご質問者様のように考えておりましたので、ご意見はよくわかりますが、 実際自分を振り返ってみてわかったのは、やはり自分でまず立つこと、 自分で自分を客観的に見て、評価できる点は素直に評価することが大事だと言うことでした。 恐らくご質問者様は自責的な傾向が強い方なのではないでしょうか? だから、ご自分に対する評価が無意識に辛くなり、自分で自分を評価できないんだと思います。 それは、客観的に自分を分析できていない、と言うことだと思います。 自分で分析できないのなら、本当に心を許せる人に聞いてみましょう。「私のいいところってどこ?」って。 それを聞いて、他人に評価されたことを喜ぶのではなく、他者から自分がどう見えているのかを考えましょう。 自分から見えている自分と他人から見える自分は、重なるところもあれば、驚くほど違っているところもあります。 他人の考え方・ものの見方を色々知る中で、自分と言う存在が透けて見えてきますよ。 そして、自分のいいところ、評価できないところを両方ともそのまま、それが私なんだ、と受け容れる。 そうすると、自分を肯定的に評価できるようになってくると思います。 言葉で説明すると当たり前のことなんですが、それに自分で本当に気づくことが出来ると違いがわかります。 この、「理屈としてわかる」ことと「自分の考え方として咀嚼し血肉とする」ことの間には、 非常に大きな溝があり、それを超えるまでが大変だと思いますが、 疑問を持ち続けることこそが、その溝を超えるきっかけを招くと思います。是非考え続けてください。
お礼
>でも、いくら友人たちが私を認めてくれても、私自>身が私を許せないでいた時期は、自己肯定感は全く>なかったです。 私も、一応自分の存在を認めてくれる友人や恋人、家族がいます。 でも家族はともかく友人、いざとなれば私でなくても変わりが効く。なので心から大事にされていると思えない。逆にその確信が持てれば自己肯定間は随分満たされると思いますが。 何故自分が理解者(他者の評価という言い方は御幣があるので)の評価を求めているのか。 自責的というより、他人から否定されたと感じる経験が事実、人よりずっと多いのだと思います。それを何かで埋めない限り満たされない。 自分が価値がある人間なら誰かが埋めてくれるはずだという確信があるのです。 まずそのマイナスをゼロに戻さない限り、 excelmaniaのいう自分で自分を認めてあげることというスタートラインにさえ立っていないという気持ちがあります。これは理屈ではなく心でそう思えないんです。 なんだかせっかく下さったアドバイスに かみ合ってないような気がします。すみません。 excelmania さんはかつては同じ考えだったということで、自分も価値観がまったく変わった経験があります。 なので仰るとおり、真に気付いてない状態なのかもしれません。思考停止せず考えてみようと思います。
- yutakaiwaoka
- ベストアンサー率15% (3/19)
ご質問に対する明確な回答でなくてごめんなさい。 実は私も似たようなことでよく悩みます。心理学とか自己啓発系の本を読んだり、親しい人には「昔からこんな感じで困ってるんだけどどう思う?」って聞いてみたりしましたが、抜本的な解決策はまだ得られていません。 「なぜ他人に認められなければ不安なのか?」 考えていくと、私の場合、原因は父親に行き着きました。 5567さんとは異なる箇所もあるかと思いますが、私の場合、「他人に認められたい」、「自己評価の基準は自分でなくて他人」ということは、「ありのままの自分では他人から認められない、受け入れてもらえない、愛されない」ということでした。なぜそう思うかというのは心理学の本を読むと「幼少の頃、親から無条件の愛情を受けてなかった」ことに起因すると書かれていました。振り返ってみると私の場合、父親からは条件つきの愛情を受けていたと感じています。「条件付き」というのは「これこれが出来てないと俺はお前を認めない」という接し方です。本人からすればそういう風には思っていなかったのかもしれませんが(確認はしてません・・)、その頃の私(小学生から大学位まで)はそう感じていました。社会人になって親元離れ1人で暮らしている今でも父に対してそういう風に感じることはありますが、いまさら無条件で認めて欲しい(例えば勤めてる会社をクビになってフリーターになっても・・とか)なんて願っても仕方ないので、対処法としては、別の誰か(自分のとって大切な人)に無条件の愛情(あなたがどうなろうがありのまま全部受けとめる)を受けるしかないのかな、と思ったりしてますが、そんな方とはなかなかめぐり合えないでいます。 なにか参考になればと思い、長々と書かせていただきました。(同じような悩みを持っている方がいるのだなぁ、と少し安心しました。。)
お礼
>別の誰か(自分のとって大切な人)に無条件の愛情 >(あなたがどうなろうがありのまま全部受ける)を受けるしかないのかな う~ん。Aの影響で損なった自己肯定間の欠如をBで埋めようと いうのはありますね。というより人間みんな無意識にやってると思います。 自分の場合、父親の愛に飢えているという事はないですけど。 (深層心理ではあるのかな?) ただ乳との関係を考えてみたとき、条件というものをつけられた事はないのですが、 畏怖がない分、父親の威厳とか安心感みたいなものを味わったことがない。 これは結構影響があると思います。 でももう1人の人間にそういうのを託すのは諦めました。所詮他人ですからね。 逆に今度は自分が親になり無条件の愛情を与える番なんですよね・・。 受けるより与えるほうが、案外安定した肯定感は得られるかなとなんとなく思ったり。 そんな事言っても子供なんてまだまだですし。 今は、分散させることで、肯定感を得たいと言うのが深層心理なのかもしれません。 10を1人から受けるか、1ずつ10人から貰うかの違いです。
他の人の回答をしっかり見ていないのでかぶっていたらごめんなさい。 自己肯定感、つまり、「自分はこれで良いということですよね。」 そして、これは「評価」ですよね。 評価するには「基準」と必要ですよね。「基準」とは良いか悪いかを決めるポイントのことです。(言葉の定義を確認しておかないと誤解になりますか。) そして、人は、生まれながらにして「基準」があると思います。それを基に「価値観・考え方」が形成されていくと僕は思っています。 ―――――――――――― 他人に認められる。どうして認められたいか?ということをもっと深く掘り下げていきたいと思います。 まず、人に認められなかったら、自分はいらない存在ということですよね。いらない存在だから、邪魔ともとられますよね。生存本能を否定される。生存を脅かされる。だから、生きていくためには自分がいる存在、必要とされている存在でなければならない。という1つの考え。これは、死にたくない、生きていたい、攻撃されたくないという生命存続本能から基く考え。 人は人と関わりを持ちたい。つまり、「孤独」は嫌という本能、人としゃべったり、人と何か一緒にしたりするのはこういう本能があるからだと思います。電車で携帯電話を使うのも、コミュニケーション、人と関係、関わりたいというものからだと思います。 さらに、人は褒められたいというのは子供の頃は誰でもあったと思います。何かして親に褒めらたらうれしかった時があったと思います。だから、人から認められたいという本能はあると思います。 では、なぜ、「人は認められる必要はないんだよ」、「自分が良ければそれでいんだよ」という人がいるのでしょうか? 人に認められたいと思ってがんばりすぎて疲れたり、自分がやりたくもないことしてストレスが溜まり過ぎた人が言ったことだと思います。 現に、僕もそれを感じています。 そして、どっちかがとかいう問題ではないのですよね。どっちもあるのが「事実」ですから、バランス良く満たされるのが理想なんじゃないかな。 それも、最終的には、「自分が満足する」というものに繋がると思います。「自分が満足すればそれで良い」ということですが、それは他人から認められなくても良いということではないと思います。 認められて満足するならそれで良いし、認められなくても良いというなら、それでもいいでしょう。それは人それぞれだと思います。 自己肯定感が「満足する」になっていますが、「満足できる」ということは、「今の自分で良いんだ」ということですよね。 なんかひっかがると思うかもしれません。念のために。 「満足できる」ということが、何に対して満足できるかということを忘れていけません。そして、「自己肯定感」とは、自分の嫌なところ、好きなところ、満足するところのすべてを吟味して「満足」できるということだと思います。 よって、他人に認められたい、認められなければ今の自分に満足できないであり、他人によって認められる以外がすべて満足している場合、他人に認められるプロセスによって自己肯定感は本当に得られる可能性があります。 というのが僕の考えです。
お礼
私の考え、疑問をを掘り下げて 的確に答えてくださってありがとうございます。 >どっちもあるのが「事実」ですから、バランス良く>満たされるのが理想なんじゃないかな。 同意です。どっちかじゃ駄目なんですよね。理想ですけど。自分の場合、まだストレスが限界に来てはいないのでとりあえず人に認められる為にエネルギーを割こうと思ってますけど。
- lifeishell
- ベストアンサー率0% (0/2)
5567さんこんばんわ。 僕も人間は他者に認められなければいけないのだろうか?という疑問についてだいぶ悩みました。 認められなくても良いけど、 他人を幸せにしてあげる力を持つ事は必要だと思います。人間が様々な人生経験を経て精神レベルが高まってる状態なら、自然とどこかで認められています。 そもそも人間とは、お金がある、スポーツができる、 芸術的才能に長けている、顔が良いなどという判断材料で、優劣は決まりません。心の奥底を磨く事が重要です。マイナス思考にならない、何も考えない、誰かに見返りを要求しない愛を与えるとか簡単な事から始めてみては? 知人友人に軽く見られているというのは、僕も良くあります。というか誰しもあるんじゃないでしょうか。 そういう時はほっとくのが一番だと思います。 わざわざ不愉快になる必要は無いです。 他人の評価を得て自分を肯定したいというのは自己愛ですよね。これは捨てる事が可能なんです。 とても難しい事ですけどね。捨ててもちゃんと幸せに生きれます。この事に関しては、 新潮社から出ているトルストイの「人生論」という本がオススメです。
お礼
okwebはいい意味でいい方が多いなぁ・・。 ”心の奥を磨く事が重要”って実体のない精神論になりがちですが、最近こういうシンプルな考えを持つ人が逆に少ないので純粋に納得してしまいました。 >他人の評価を得て自分を肯定したいというのは自己>愛ですよね。これは捨てる事が可能なんです。 へえ。なんかガツンと来ました。 本当ですか?今の未熟な自分では自己愛に代替する価値観が思いつかないのですが。「人生論」読んでみようと思います。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
つまり自信が持てないということですか? 生理的には生きていけるだろうけど、人間は独りでは生きていけないものだと思っています。孤立ほど辛いことはないです。 だけど、他人から評価を受けなくても僕は僕です。つまり自分の絶対的な価値、譲れない価値を知っているからそれは僕にとって絶対なんです。なので常に自己肯定しています。というのも、人間誰だって自分が正しいと思って言動しています。そうじゃなきゃ、何もできません。しかしこの世界で本当に正しいことも、そうじゃないこともわかりきったことはありません。なので人は反省もするし、そして成長していきます。つまりあやまりを繰り返し、失敗を繰り返して成長していくものだと思ってます。なので僕にとって、人間は誰でも間違いを犯すと思うし、逆にみんなを認めてます。つまり自分を認めているわけです。 それに、他人がどんなに褒めても、ウソでも褒めることができますし、逆も然り。ウソでもけなすことができます。なので、コロコロ変わる周りの評価より、僕にとって確かなのは自分の評価なのです。その自分の評価は絶対なので自信なんて問題じゃありません。自己肯定を得ています。もちろん他人に認められることは嬉しいです。しかしそれは絶対じゃない、ただそれだけです。
お礼
>だけど、他人から評価を受けなくても僕は僕です。 vagabondさんは自我がしっかりある方という印象を受けました。 例え10人中3人には存在すら否定されても、残りの6人は否定もされなく、1人は認めてくれる、そんな自信が確固たる自我に繋がっているのではないでしょうか? 他者からの否定と言うことになると、自己肯定感というものには大きな影響があると思います。 >コロコロ変わる周りの評価より、僕にとって確かな>のは自分の評価なのです。 本当にそう思います。他人の評価など印象によって随分変わる。だからこそ、大事な人(身内、恋人、親友etc)に軽く扱われたり舐められてると感じると何を根拠にしていいかわからなくなります。
こんばんは とても難しい質問ですね。僕もひるんでしまい ますよ。でも、敢えて2点を申し上げます。 1自分の飾らない姿で自分の力で挑戦してみる たとえ失敗しても、爽やかな時さえあるし、成功し たら、その嬉しさは言うまでもありません。 2ステップアップしていく 目標を細分化します。そして、少しずつ達成してい く事で自信を高めていきます。実際、自信がない 時は、 「あぁ、さっき挨拶を大きな声ですれば」 「さっき、電話でかんじゃったなぁ」 「お疲れ様っていってあげればよかったなぁ」 など、細かい失敗?を積み重ねて意識してしまう所が 意外と大きく育っているのではないでしょうか? 2で言いたい事は小さな成功を馬鹿にしない。そして 小さく成功できるように目標を等身大にするように、 細分化して実行することが大切です。自信を失う例を 書きましたが、僕も年をとるごとに鈍感になっていき すこしずつどうでも良くなって来ました。大学時代に 感受性レベル最大だった僕でもそうなったので、 きっと少し時間はかかるかもしれませんが大丈夫だと 思います。 お互いもっと自信がつくと良いですね。
お礼
具体的な、自己肯定感を高める自己の行動の変化の 回答ありがとうございます。 hamontukaiさんは結果的に他者からの肯定感を得られたのでしょうか・・?
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
初めまして。 体調がイマイチなので大雑把な書き込みで御免なさいね。 貴方は、まだ、ずい分お若いのだろうと思います。もし、そうでもないとしても、いずれにせよ自分を肯定してあげられるほどの基礎になる実績がないからだと思いますよ。だから若い人ほど肯定感が薄いのは当然だとも思うし別の見方をすれば何の根拠もなく自己肯定感に満ち溢れてたらオメデタイ人だなあという感じもするし幼児的な感じもするし。だから、そんなに気に病むことないですよ。 親が無条件に受け入れて大事にするのは愛情だけではなく責任も伴うのだから当然と言えば当然だけど他人に無条件に肯定して欲しいというのは厚かましいかも知れない。 >自己の行動の変化で自己肯定はできるものですか? 厳しい言い方をすれば人に聞く前に実践してみることですね。 「他人に認められること」=無条件に、ですか? 他人の評価というのは、やはり結果について来るべきものでしょうし、また、他人の評価というものに縛られていては或いは、いつまでたっても満足できないかも知れない。 どのように行動できたときに人にではなく自分で肯定してあげることができるのか、それは、これから生きながら学ぶことだと私は思うのですが、いかがですか?
お礼
やはり青い疑問ですよね。 私はこれでも思春期もとっくに過ぎて、二十歳過ぎてます; >厳しい言い方をすれば人に聞く前に実践してみるこ とですね。 まったくもってその通りですね。 青いと思われたのは、結果が出る前に悩むのは 若者特有の甘えだからですよね。 職業と言う意味なら、将来のために、努力しているといえるものはあるのですが。
お礼
人生が違ってるかぁ そうかもしれませんね。 人生と言うか価値観の違いはあるかもしれません。 自ら。。愛しているつもりです。精一杯。