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木曽義仲
木曽義仲は後白河法皇を幽閉して征夷大将軍を強奪していますが これは正式な任官ではないですよね? 義仲が幕府を開いたという話は聞かないし… また 義仲は「あさひ将軍」といわれたらしいですがその時の表記は「朝日将軍」ですか? それとも「旭将軍」ですか?
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「木曽義仲は後白河法皇を幽閉して征夷大将軍を強奪していますが これは正式な任官ではないですよね?」 「義仲が幕府を開いたという話は聞かないし」 ⇒ No.1の方の回答が、的を得ているように思います。 時系列的には 寿永2年(1183) 7月28日 義仲入京 8月10日 従五位下、左馬頭兼越後守の叙任 8月16日 越後守→伊予守 閏10月 1日 備中水島で平重衡・通盛の軍に大敗北 平家追討を中止して京に戻る 11月19日 院の御所・法住寺殿を焼き討ち 後白河法皇を幽閉 寿永3年(1184) 1月 2日 従四位下 昇叙 1月15日 「征東大将軍」宣旨 1月20日 粟津の戦いで敗死 ⇒ No.2の方が書かれている任官日は間違っているようです。 何故なら、寿永3年8月16日には、既に義仲は敗死しているからです。 「朝日将軍」の呼称については、そのとおりでしょう。 「旭将軍」とも言うようです。どちらにしても正式な官位名ではありませんから。
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- tanuki4u
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幕府という名称は江戸時代になってからのもの。 江戸時代の学者が、名付けた。 徳川幕府は正当な武家政権だ。 源頼朝は正当な武家の棟梁だから、源頼朝の以下の政権も幕府と名付けよう。 鎌倉幕府はいつ開かれた? というのが、話題になるのは、源頼朝以下、関東の御家人にも京下りの官人であった大江広元なんかも、幕府なんて言われても何のこと?と思っていたから。 従三位以上の公卿の家政組織が政所として名乗れるという頼朝時代で考えるならば、 従四位下の木曾義仲が征東将軍だろうと、その家政組織は政所とは言わない。 逆に、清盛は1158年に大宰大弐に任官しているので、たぶん従三位になっているはず。 この段階で、清盛の家政組織は政所となっており、平盛国あたりが政所長官相当だったのかもしれない。
お礼
ありがとうございました
- Pinhole-09
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義仲は寿永3年(元歴元年)8月16日に正式に 征東大将軍に任じられています。 征東(大)将軍は征夷大将軍とは異なりますが 似たようなものです。 征夷大将軍のほうが上位というわけではありません。 関東の将門の乱を鎮圧したのは征東将軍なので 頼朝に対抗するため義仲は、これを選んだので しょう。 のちになって頼朝の方は奥州藤原氏を意識して 征夷大将軍を望みました。 「朝日将軍」は義仲のあだ名で、こう書くほうが 普通のようです。 誰がつけたかは判りません。(京わらべ?) 後白河法皇が義仲をなだめるためとも、平家物語の 創作ともいわれますが。
お礼
8月には亡くなっていたそうです… ありがとうございます
- izuhara
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義仲が任官したのは長らく「征夷大将軍」とされてきましたが、最近発見された公家の日記によって、「征東大将軍」であったことが明らかにされています。これは正式の任官です。 征夷大将軍と幕府の関係ですが、義仲の時点で征夷大将軍=幕府という概念は存在していません。いわゆる武家政権である幕府を開いたのが頼朝であり、その頼朝の官職の一つに征夷大将軍があったことから、いつの頃からか征夷大将軍が幕府を開くための条件と考えらるようになったのです。 幕府の定義は学説がいろいろあり定まっていません。そもそも当時「鎌倉幕府」を「幕府」と表現した史料も見つかっていません。 最近見つかった公家に日記から、頼朝の征夷大将軍任官について、「頼朝が大将軍任官を求めてきたことについて、朝廷で合議した結果、惣管大将軍、征東大将軍、上将軍、征夷大将軍が候補に挙がったが、惣管と征東はそれぞれ平宗盛・源義仲が任官したもので縁起が悪い。上将軍は前例がない。ということで征夷大将軍に決まった。」といった経緯が判明しています。頼朝が欲しかったのは「大将軍」であって「征夷大将軍」ではなかったわけです。 新史料の発見によって、がらっと変わることがあるのが歴史のおもしろさの一つですね。
お礼
ありがとうございました よく分かったです 詳しいんですね☆
お礼
時系列ありがとうございます 朝日将軍もありがとうございました