グリム童話は、口伝の昔話(民話)を集めたものですが、口伝という意味では、その他の神話や伝説と同じです。口伝ということが、かなり味噌で、誰かによって意図的に編まれた物語ではないということです。「誰か」という無名の多者が感じたことが、少しづつ語られて、繋ぎ合わされて物語の形を成していったのでしょう。『物語』の「モノ」とは、「モノノケ」の「モノ」なのだそうです。人が語るんじゃなくて、モノノケが語ったものだというんですね。誰か一人の意識が創作したのではなく、これらの物語は、人びとの無意識を反映しているのだと言います。
分析心理学者C.G.ユングの原型論に基づいた解説が河合隼雄さんの『昔話の深層』(講談社+α文庫)でなされていますが、なかなか興味深かったです。それと神話に関してはフランスの思想家ルネ・ジラールが、かつての原初的な共同体の記憶(異人殺し)を異なったシンボルに変換して想起することで、忘却する作用があると言っています。これは、フロイトの夢理論と通じるものがあります。日本の分権で言えば、小松和彦さんの『異人論』(ちくま学芸文庫)が読みやすいと思います。
つまり昔話というものは成立の段階で「子供」という視点は含まれていなかったと思われます。そして、子供に対して教訓的な「童話」となったとき、物語が孕む本来的な機能(無意識の想起、忘却)は失われ、骨抜きの説教譚が出来上がったのだと思います。ただ、仏教説話など教化的なものの中にも怖いような話が含まれているようですが、それについては、良く分かりません。ただ、わたしは、そのようないたずらに恐怖を与えるような「説教譚」は子供に対して必ずしも良い影響は与えないと思います。文学のカテゴリでもどなたかが書いておられましたが、昔話には「無痛覚」ということは、つまり、現実味のない漠然とした怖さがそこにあるのであって、「説教譚」の痛覚に訴えるものとは本質的に異なるものだと思われます。それにしても「無痛覚」と言う言葉は、夜に眠りながら見る夢の世界(無意識の世界)から表れたものであると考えることに、しっくりきますねぇ。
お礼
ああ、すごくよく分かります。 先日、映画「A.I」を見たんです。 「A.I」は、倫理観がまだ形成されていない子供の危うさに忍び込んだ 物凄く残酷な童話でした。でも妙に意識の奥に響くんです。 ああ、そうか、それが「無痛覚」なんですね。 で、これは初版グリムかな?と思ったんです。 (あれで「感動して泣きました」は浅はかだよ。) ちなみに「プライベート・ライアン」は、カフカの「城」 じゃないかと思っています。 そして、スピルバーグって、捉えらようのない恐怖や残酷を 存在論的に、叙事的に、表現することに 異様に卓越した作家だと思っています。 どうもありがとうございました。