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家紋
こんにちは。 江戸城の厠で、用足し中の男性が 後ろから斬りつけられ、その後亡くなる、という事件を知っている方にお聞きします。 家紋が良く似ていたそうですが、 その他の確認はしないのか、また、顔の確認もしないのか、乱心だったのでしょうか。 犯人は、切腹となりました。
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ただ、検索してみつけただけですが、ご参考までに。 体調悪く、うまく書けるかどうか・・・。 「日向ぼっ子の大江戸散歩」 現代のルーツ江戸を学んで今を探る 江戸城のトイレは殺人現場?! 前回は大奥のトイレ「万年」の話でしたが、今日は表御殿トイレの殺人事件を書きますね。 表御殿のトイレは、旗本の勤仕時の心構えを狂歌風に作った『番衆狂歌』に「御番所の 大用場へは燈無く 下駄にてすへる 用心せよ」いわれたように 御城の雪隠は、下駄を履き石敷きで滑りやすく、行燈もなかったようなのです。 延享4年(1747年)の夏 月並登城日の朝 大広間に全身血まみれの人が倒れていました。顔も血だらけで誰だか判らないので、聞いてみると「細川越中守」「斬りつけて来た相手は判らない。裃をつけた者であった」とか細く応えました。 細川家のはなれ九曜紋 殿中を調べると脇差の抜身が、小便所の廊下に捨ててあり、小便所の奥雪隠にザンバラ髪の男が隠れていました。「誰か知らぬものが小便所にきたり、脇差を抜くように見えたので、抜き合わせて斬りつけた。しかし人を疵付けては申し訳も立たぬので、懐中にあった鋏で髪を切り、大便所に隠れていた。脇差は捨てた」と供述しましたよ。 乱心した様子があったというのです。犯人は旗本 寄合席の板倉修理、日頃から狂気の振舞いがあったので、本家である板倉佐渡守勝清が、修理を強制隠居させようとしていたのを恨み、佐渡守を殺そうとかねてから狙っていたのですね。そこで江戸城の厠で佐渡守を見つけたと思った修理は、誤って細川越中守に刃傷に及んだのです。 何故人違いをしたかというとこれが家紋だったのですよ。板倉家は「九曜巴紋」、細川家は「九曜星紋」で似ていたのですね。事件後 九曜紋は「苦労紋」とか「苦悩紋」と呼ばれたそうです。 細川家の九曜星紋 板倉家の九曜巴紋 細川家の九曜紋は、戦国期 細川忠興が信長使用の小柄に付いていた九曜紋を見て自分の衣服に使用したいと信長に願い出たところ、しからば定紋にせよと与えられた由緒あるものなのですよ。 事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更し、通常は裃の両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける「五つ紋」なのですが、両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにしましたよ。「細川の七つ紋」とか周囲の丸を小さめにした「はなれ九曜」と呼ばれるようになりました。
お礼
こんばんは。 体調のお悪い中、ありがとうございます。 その後、回復されましたでしょうか。 大丈夫でしょうか。 熊本藩主、細川宗孝氏、何の落ち度もなく、人違いでこの世を去りました。享年31歳。 まだ跡継ぎがいなく、それも問題でした。 下手人の板倉勝かね は、斬りつける前に 『○○だな!』とか言わないのですかね? 模様も、細川さん家は九曜星紋、板倉家は九曜巴紋。細川さん家は綺麗な○ですが、板倉家のは人魂の様な形。 当時の厠は昼も暗く、よく見えなかったのかもしれません。 回答をありがとうございました。