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小早川秀秋越前転封

通説では朝鮮出兵の不手際を問われ処分されたとなっていますが、これは事実なのでしょうか? 筑前33万石→福井29万石はあまり減っていない。 博多の筑前と比べれば目劣りはするものの福井は上方に近い地。 秀吉の死期が近い中秀吉かおねが身内を手近に引き寄せただけにも見えます。 事後に筑前の地を返していることを見ると、奉行が事後処理に時限で博多を直轄地としただけにも見えます。

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  • D-Gabacho
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回答No.2

Wikipedia「小早川秀秋」には > この国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、前項で述べた通り、秀秋の帰国日程は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており、また蔚山城の戦いへの秀秋の参加を裏付ける史料も存在しないため、実際には無関係であると考えられる。 > と書かれています。 ただし、小早川秀秋の越前転封が大幅な減封であり、懲罰的なものだったのは間違いないと思われます。 『福井県史』は小早川秀秋の領知高に関して、確かではないとしつつ「12万石ともいわれる」と記し、転封後に家臣に対して発した領知宛行状の内容から堀秀治の旧領(16万石)のうちであったと推察されるとしています。 また、長く付家老として秀秋を補佐してきた山口宗永が秀吉直臣となったのをはじめ、隆景以来の旧臣の多くが秀秋の下を去って石田光成や毛利輝元の家臣となっており、家臣団の規模を縮小せざるを得ない大幅な減封だったことが示されています。 Wikipedia 小早川秀秋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B 『福井県史』堀秀治の越後転封 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-09.htm

jkpawapuro
質問者

お礼

NHKで筑前33万石→福井29万石出ていたのですが、実際はもっとひどい減封だったのですね、疑問の前提が吹っ飛びました。 ご回答ありがとうございました。

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その他の回答 (1)

  • gunsin
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回答No.1

越前転封 になったのは事実ですね。 朝鮮出兵では、前線からの報告を後方の奉行に取り次ぐ役目でした。 蔚山城の戦いで不手際が有ったと通説ではなってますが、近年では その戦いに参加していない事が解って来ました、 蔚山城の戦い(1598年1月20日)が始まる以前から秀吉から帰国の 命令が有り、帰国したのが蔚山城の戦いが始まった日でした。 残留部隊の家臣内でいざこざが有った様です。 蔚山城の戦いで日本軍は苦戦を強いられ、加藤清正らが石田三成 憎しになり、反三成派?になった起因になりました。 ここからは、何らの根拠も無い推測です、豊臣秀吉は家臣団の 軋轢の空気を察知して、家臣を管理出来なかったとして、前線の 報告を怠ったとして、小早川秀秋に責任を負わせて、後方支援係 の石田三成と前線部隊との軋轢の解消を図ったと思うのですが、 身内を罰せられるのは世の常なのです。 小早川秀秋は15歳で前年の夏には、養父小早川隆景が没してます、 小早川家の家臣団は毛利家では外様に当たる人達です、元々 小早川秀秋を小早川家の養子にさせたのは、毛利家の力を弱める 黒田官兵衛の画策に依る物ですから、毛利家から譜代の家臣が 小早川家に派遣される訳がないですよね。 関ヶ原での出来事は400年経過しても裏切り者の代表の烙印です。 北政所の甥と言う事で、2歳で木下家の養子になり、7歳で元服。 12歳で小早川家の養子となり、13歳で家督を継ぎ、15歳の時に 越前へ減封処分となり、18歳で関ヶ原の合戦、その後21歳で 亡くなりました、豊臣秀吉に翻弄された人生だっと思います。 小早川秀秋は西軍として伏見城攻防戦に参加して、その後は、 鷹狩などで、遊んでいたと言います、それが、突如として、 1万5千の兵を引き連れ松尾山に陣取ったのが合戦の前日です。 大谷刑部が三成に小早川の動きが怪しいと注進したが、三成は 何らの手を打たなかったと言われてます。 徳川家康から小早川秀秋に、何らかの働きがあったのは違いない のですが、歴史に埋もれて闇の中です。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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