>米軍は本気でここを取る気でした。ここには最初から、海兵隊が1万人(一個師団?)位いて、ブルトーザーで毎日滑走路を作り、防衛陣地まで作っていました。大本営では、一木支隊位で大丈夫だと思っていましたが、実は、その10倍は兵力がいたんです。だから、一日で全滅したんですよ。事実誤認が多すぎますよね。
はい。それは私も存じています。亀井宏氏による「ガダルカナル戦記」という大著があるのですが、そこにもその顛末の記載があります。
亀井氏は当時偵察機に搭乗した士官を探し出して直接インタビューしています。そしてその人から「大胆な偵察をしたのだが対空砲火が非常に弱く、これは兵力も少ないし士気も低いと判断した。その判断は(その当時の状況においては)間違っていなかったと今でも思っている」という言葉を引き出しています。
「敵兵力の判断」というのはとても難しいです。米軍とて日本軍の数を過大に評価したり、過少に評価しています。有名なのは硫黄島の戦いで、米軍は硫黄島にいる日本軍を過少に評価していました。日本軍に比べると徹底的な偵察を行ったのにね。そのくらい、敵兵力の判断というのは難しいのです。「戦場の霧」というやつですね。
ただ、その情報を鵜呑みにして偵察が不十分なまま「早く攻撃しないと撤退されてしまう」と稚拙な攻撃に出てしまった一木支隊は批判されても仕方がない部分があります。
あえて一木支隊長を擁護するなら、ミッドウェー海戦が敗北で終わって出番がなくなっていたので、一木支隊長は「ここで一発功を上げてやる」とはやっていたようではあります。また部隊の士気も非常に高かったようで、士気が高すぎて米軍を侮ってしまった一面もあったようです。
それに加えて、米軍の火力というのが日本軍の想定を全く越える異次元のものであったというのもありますね。一木支隊の全滅で「米軍というのはとてつもない贅沢な戦争をする」ということが初めて判明したのです。これは現代の我々でいうと、東日本大震災前に「津波というのは本当に恐ろしいものだ」ということを我々は認識できなかったのと同じだと思います。洪水みたいなものだと思ってましたよね。
その後に川口支隊、第2師団と逐次投入していくわけですが、それとても戦略的な考えに基づくものではなく、泥縄式に「手元にあるやつを適当に投げた」といったほうが近いものでした。
これもね、現代の我々が当時の日本軍を批判する資格はないと思います。だってコロナ対策のときに、夏と冬が来るたびに「第何波」ってのがくるのは予測できたのに、戦略的(抜本的)な対策はとらないで「とにかく現場で頑張ってくれ」と泥縄的な対処しかしなかったじゃないですか。コロナは幸いにそれほど大きな災厄とはなりませんでしたが、もっと厄介な事態になっていれば医療崩壊が起きた可能性は十分にありましたよね。日本のコロナ対策が上手くいったように見えるのは、あくまで「結果オーライ」に過ぎません。
コロナ期間中、私はここでずーっと「現代日本のコロナ対策は、太平洋戦争のときの日本軍の敗北と同じ道をトレースしている」といっていて、いつからかテレ朝の玉川さんも同じことをいうようになりましたけど、その考えは今も変わりません。だから現代の我々が、当時の日本軍の対応を批判する資格はないと思っています。
おそらく後世の人たちから我々は、「なぜコロナのときに当時の日本は行動制限と自粛にあんなに執念を持っていたんですかね?海外では意味がないということがどんどん分かっていたのに」といわれるようになると思います。
行動制限を解除したとき、ここでも猛烈に反対していた人たちが少なからずいたことを質問者さんもよくご存知だと思います。あれを見れば分かるように、日本人は「今やっていることを結果が出ていない状態で変更する」ってことに異常なまでにストレスを感じる民族なんですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。実は、海兵隊が上陸できたのはいいんですが、どうやら、準備不足で、高射砲やら、その他の機関銃やら、野砲やらの弾薬が不足がちだったということから見ても、その偵察の反応は非常に偵察将校にはすみませんが稚拙だったというしかありません。 ここから、第3次ソロモン海海戦時まで、米軍も同じく、駆逐艦や輸送艦で食料や弾薬を徹底的に補充していきます。だんだん奪取するにはハードルが上がっていったのです。日本は船舶をこの方面に出すのを渋るほどの被害だし、翌年の2月に撤退を敢行するのです。 これは全部海軍の怠慢からくる責任ですね。