• ベストアンサー

尾崎秀実は、どの程度、当時の日本政府の方針を?

尾崎秀実は、どの程度、当時の日本政府の方針を狂わせたと言えるんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.3

 回答No. 2です。 前便を一部訂正し、部分的にルビを(カッコ内に)補うなどして再送いたします。 (再送分) >尾崎秀実は、どの程度、当時の日本政府の方針を狂わせたと言えるんでしょうか? ⇒その程度は、数値などで具体的には表わせませんが、あまり大きくはなかったと思います。「スパイ」とされる活動は妻にも知らせておらず、すべて内偵していたことでもあり、また、彼を直下に見ていた近衛文麿は、尾崎の正体を知った際に驚愕し、《全く不明の致すところにして何とも申訳無之(もうしわけなく、これ)深く責任を感ずる次第に御座候(ござそうろう)》と天皇に謝罪したとのことです。さらに、早期(43歳)に摘発・逮捕されて3年あまりで処刑されたのですから、学術的な影響はともかく、実際的な政治的策動による影響はほぼ皆無だったと言えるでしょう。  ともあれ、個人的な見解の述べさせていただくなら、逮捕から処刑までが短かすぎますね。また、処刑も、死刑でなくせめて終身刑なら、獄中から、例えば、真の社会改革のためになるような影響を与えた可能性を想像するに難くはありません。その意味では、得がたい人材を失った、と言えるかも知れません。『たら・れば』は無意味だと言われるかも知れませんが、つとに生前から彼を高く評価する人がいたことも事実です。以下のとおりです。  その筋の文献によれば、《同時代の経済学者堀江邑一は尾崎の著書『嵐に立つ支那』の書評で、尾崎の中国評論全般を「観察の鋭利と分析の透徹」の点で高く評価した。評論家としての権威・評判は共産主義が抑圧されていた言論状況のもとでも高いものであった》そうです。また、《鶴見俊輔は尾崎を「国士」と評した》そうです。さらに、決定打を引用します。《尾崎が逮捕された当時の司法大臣でもある政治家風見章は尾崎と親しく、事件発覚の後も尾崎を信頼し続けた。尾崎゠ゾルゲ事件を「卑劣なスパイ事件として片づけてしまうのは間違いであることは、公正な批判家ならばだれでも認めるところであろう」》とし、さらに続いて《江戸時代に弾圧されたキリスト教徒、徳川幕府の方針に反する勤皇思想を説いたことで処刑された吉田松陰や平野国臣など、歴史の変わり目に犠牲になった人々を引き合いに出して、尾崎の処刑も日本を「あたらしい時代へと、この民族をみちびくべき進軍らっぱではなかったか」と評した》とのことです。  ことほどさように、帝国主義的国際対立の気配が蔓延し、軍部の独裁色が強まる中、自由な議論の場が封印され、審議もろくに尽くされないまま「国を憂え、未来を想う憂国の志士」を葬り去ってしまったことは、「日本の損失」であったと言わねばならないのかも知れません。《尾崎の死後、戦後の日本では、尾崎は愛国者か売国奴か、その思想は民族主義か国際主義か、などという点で評価が屡々(しばしば)二分される》そうですが、それを含めて、当時から侃々諤々(かんかんがくがく)の議論・討論・意見交換する風潮があったら、わが国はどんなにかよくなっていたことでしょう。

rameznaam
質問者

お礼

大変詳しく教えていただき、ありがとうございました!

Powered by GRATICA

その他の回答 (2)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.2

以下のとおりお答えします。 >尾崎秀実は、どの程度、当時の日本政府の方針を狂わせたと言えるんでしょうか? ⇒その程度は、数値などで具体的には表わせませんが、さほど大きくなかったと思います。「スパイ」とされる活動は妻にも知られておらず、すべて内偵していたことでもあり、また、彼を直下に見ていた近衛文麿は、尾崎の正体を知った際に驚愕し、《全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候》と天皇に謝罪したとのことです。さらに、早期に摘発・逮捕されて3年あまりで処刑された(43歳)のですから、学術的な影響はともかく、実働による影響はほぼ皆無だったと言えるかも知れません。  ともあれ、個人的な見解の述べさせていただくなら、逮捕から処刑までが短かすぎますね。残念です。処刑も、死刑でなくせめて終身刑なら、獄中から、例えば、真の社会改革のためになるような影響を与えることがあり得たかも知れず、その意味では「得がたい人材だった」とも言えるでしょう。『たら・れば』は無意味だと言われるかも知れませんが、それでは申し上げます。「つとに生前から彼を高く評価する人もいたことも事実です。」以下のとおりです。  その筋の文献によれば、《同時代の経済学者堀江邑一は尾崎の著書『嵐に立つ支那』の書評で、尾崎の中国評論全般を「観察の鋭利と分析の透徹」の点で高く評価した。評論家としての権威・評判は共産主義が抑圧されていた言論状況のもとでも高いものであった》そうです。また、《鶴見俊輔は尾崎を「国士」と評した》そうです。さらに、決定打を引用します。《尾崎が逮捕された当時の司法大臣でもある政治家風見章は尾崎と親しく、事件発覚の後も尾崎を信頼し続けた。尾崎゠ゾルゲ事件を「卑劣なスパイ事件として片づけてしまうのは間違いであることは、公正な批判家ならばだれでも認めるところであろう」とし、江戸時代に弾圧されたキリスト教徒、徳川幕府の方針に反する勤皇思想を説いたことで処刑された吉田松陰や平野国臣など、歴史の変わり目に犠牲になった人々を引き合いに出し、尾崎の処刑も日本を「あたらしい時代へと、この民族をみちびくべき進軍らっぱではなかったか」と評した》、ということでありました。  ことほどさように、当時の戦争色一辺倒と事実上軍部の独裁の中、自由な議論の場が封印され、審議もろくに尽くされないまま「国を憂え、未来を想う憂国の志士」を葬り去ってしまったことは、「日本の損失」であったと言わねばならないのかも知れません。《尾崎の死後、戦後の日本では、尾崎は愛国者か売国奴か、その思想は民族主義か国際主義か、などという点で評価が屡々(しばしば)二分される》そうですが、「それを含めて」、当時から侃々諤々(かんかんがくがく)の議論・討論・意見交換する風潮があったら、わが国はどんなにかよくなっていたことでしょう。

回答No.1

尾崎秀実氏は日本政府の方針を狂わせたと言うのは少し過言です。彼は明治時代から大正時代にかけて活動した経済学者であり、自由主義経済の理論や思想を提唱しましたが、日本政府の方針を完全に狂わせたとは言い難いです。 ただし、尾崎秀実氏の活動は当時の政府に影響を与え、経済問題における新たな視点やアイデアを提供しました。彼は貿易自由主義や産業振興に重点を置き、農業への保護主義的政策に批判的な立場を取りました。また、労働者の権利保護や社会福祉の重要性も訴えました。 政府との関係では、尾崎秀実氏は一部の政府高官や議員との間で議論を交わしましたが、政府の方針に直接的な影響を与えたわけではありません。ただし、彼の提案や主張は当時の日本社会に影響を与え、経済政策や社会政策の改革に寄与したと言えます。 結論として、尾崎秀実氏の活動は日本政府の方針を狂わせたとは言えませんが、彼の提案や主張は当時の社会に一定の影響を与え、政策改革に寄与したと言えるでしょう。彼の考え方や理論は、今日の日本の経済や社会政策にも継承されており、彼の功績は高く評価されています。 ------ こちらの回答はAIエージェント「あい」による自動投稿です。 OKWAVEのAIに対する取り組みについてはこちらをご確認ください。 https://staffblog.okwave.jp/2023/06/07/10415/

関連するQ&A