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京都の歴史、処刑場について。
京都の超有名なデートスポット三条河原はかつて処刑場であったといわれていますが、 一方、関ケ原の戦いでは、六条河原にて、石田三成ら、西軍側の主たるメンバーが処刑されたといわれており、こちらも処刑場だったとされている模様です。 実際のところどっちが処刑場なのでしょうか。それとも三条から六条のあたりまであの辺りずっと鴨川沿いは皆、処刑場だったのでしょうか。 歴史に詳しい方ご教授願えますか。 理由も併せてお答えください。
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>実際のところどっちが処刑場なのでしょうか。 どっち側?という事は、ありません。 当時の鴨川近辺は、処刑場でしたからね。 >三条から六条のあたりまであの辺りずっと鴨川沿いは皆、処刑場だったのでしょうか。 一般的には、その通りです。 「権力者に逆ら者は、処刑する!」という「一種の公開処刑」が必要でした。 当時も今も、鴨川沿いは多くの通行人がいました。 見せしめ!ですからね。 江戸時代は、六角獄舎(現在は、マンションが建っています)で処刑を行いました。
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- gokukame
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三条大橋西南の河原の中州だそうです。三条河原処刑場でググって検索すると色々わかりますよ。
- takepan_toki
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三条河原から七条河原までは、古より斬首・晒し首の場所でした。 有名なところでも、940年に平将門(戦死)が七条河原で晒し首にされたり、1868年に新選組局長の近藤勇の首が三条河原に晒される(斬首は板橋)等、延々と斬首・晒し首が続けられました。謀反の罪で切腹させられた豊臣秀次の一族は、三条河原で公開処刑でしたね。 以上、ご参考になりましたら。
- ji1ij
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https://kaiun.sseikatsu.net/sanjyokawara/ 三条河原から六条河原までは平安時代から江戸時代までの処刑場だった
補足
それって全域にわたってですか。 三条から六条のあたりが。
お礼