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戦国期大内家の武将 多賀美作守隆忠の情報をください
弘治三年1557年多賀美作守隆忠は、大内殿滅亡の後大友に降参していたが、大勢を卒して立花(福岡市東区近郊の立花山・立花城)に出張し、許斐の城を攻めた、 多賀美作守隆忠の大内領での領地・生誕・家族などが判る、WEBサイトや書籍の紹介をお願いたします。
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多賀美作守隆忠は多賀美作守隆長の子です。父隆長は尼子氏の支配下にある出雲の有力国人でしたが、塩冶興久の乱(1530~34)に加担して敗れ、国外に逃亡して大内義隆の家臣となりました。隆長は1538年8月時点で太宰府市にある岩屋城主=御笠郡代であったことが明らかになっています。また、隆長の娘は尼子誠久の妻となっているようです。 許斐山城の近くにある宗生寺は、許斐山城主となった隆忠が父の菩提を弔うために建立したと伝えられています。ネットの記事に文明15年(1483)建立とあるのは、おそらく誤りで、「天文年中に創立す」という『筑前国続風土記』引用の記事のほうが信用できると思います。 許斐山城主となった時期は不明ですが、岩屋城主は1543年時点で千手興国という人物に替わっています。1555年に占部尚持が夜襲をかけて多賀美作守隆忠の許斐山城を落としたそうですから、それ以前に城主として入っているはずです。 大内氏の御笠郡代・岩屋城督 https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/12263.pdf 宗生寺 https://hakataboy.com/temple.php?dirpath=temple/Fukuoka/Munakata/SousyouJI/ 多賀美作守隆長と左京亮元竜 http://zisaku.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-4e98.html 多賀隆長と多胡辰敬 http://zisaku.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-2bb0.html 尼子晴久(8) http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/70.html
お礼
長文のご指導になかの、 多賀美作守隆長の事や、 今回はOKWAVEでは質問いたしませんでしたが、宗生寺の開基の時期は15年ほど前から、疑問に持っていました。 文明15年開基ですと、隆忠が亡くなってから87年前になります、ご指導の天文年中という筑前国続風土記説を、私も信じていましたが、お寺のHP・説明と異なりますので人には説明できませんでした。 ご指導や、WEBサイトの紹介ありがとうございました。