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価値の哲学

価値そのものに関する考察も、そろそろ結論を出さねばなりません。 現在、結論を出すとすれば、「価値にそのものについて言うことは出来ない」と言うことになります。 ただ最後に、お聞きしたいことは、以下の一点です。 価値は多義的な言葉ですが、量的意味が有ること。 つまり現実的には、価値評価によって量的比較を行っているという事実と、理論的には、量を測る為には、質的統一が必要だということ、---長さを重さで測られないように、有用性や希少性、美的価値といった、質の違ったものを量的に比較することの不可能性、---この矛盾をどう解決できるのかという問題です。 お時間が有りましたら、価値一般についてもご意見アドバイスをお願いします。

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回答No.2

これまでfishbowl66さんのご質問とそれに対する回答には、ジンメルを除いてほとんど参考文献があがっていませんね。今回が最後になるようですので、私も最後に参加させていただきますが、僭越ながら文末に、参考文献を挙げてみました。(fishbowl66さんはもうお読みになっている可能性大ですが・・・) さて、今回のご質問を拝見して、おそらくまだ「価値」の質的多義性の問題を誤解されているように感じました。つまり、そもそも「価値」の多義性は質の多義性によるものだと思うのです。以下、参考文献を下敷きに価値の質的多義性を整理し、価値とはどういうものかを検討したいと思います。 1 前提(確認) 「価値」とは「よさ」のことである。「価値」が多義的であるのは、この「よさ」がそもそも多義的なのではないか。日本語で「よし」を表しうるものは、「可、吉、良、善、由、好、芳、佳、義、美」など多数あることがわかる。つまり、「よさ」の質は多種多様である。 価値という漢字は、本来は経済的用語である。それゆえ、たしかにすべての種類の「よさ」を経済的価値とみなすむきがあるが、価値哲学という観点からは、経済的価値、生命的価値というよりも、文化価値を巡る議論を検討する必要がある。 「ロックに端を発しアダム・スミスを経てマルクスによって批判的に受け止められる労働価値説において価値は社会的に使用価値から交換価値すなわち市場における価値へと変動するが、これによって価値本来の意味は見失われる。」 人間の三つの心的要素として知性と感情と意志という三区分がある。これは意識の複雑さを示している。つまり、これは意識の作用と内容に応じて区分されているが、しかしこれらの要素は意識において相互に連関しているものである。知情意という三区分はそれに応じた内容的な区分として真善美という三つの価値を連想させる。つまり、知的活動にはさまざまな相があるが、その素材は様々なレヴェルの感覚あるいは感情に基づくものである。 つまり、「真・善・美」という文化価値は、その「存在」にはなく、あくまでも「妥当性」、「そう思われるかどうか」にある。価値は感じられるものであり、換言すれば、価値は感情を通して示されるものである。 (しかし、このなかでも真理感は、審美感とも道徳感とも質を異にしており、特殊な位置を占める。というのも真理感情は、正誤あるいは真偽を判別することに関わるからだ。この木は美しいとか、この人は善いとか言うのと同様に、この判断は真である、ということはできる。他方、この木が美しいことは真であり、この人が善いことは真であるとはいえても、この判断が真であることは美しいとか善であるとかは言うことはできない。) 2 客観的な価値序列 シェーラーは客観的な価値序列の存在を力説する。その序列決定の基準は次のようになる。 (1) 永続的な価値ほど高い (2) 非分割的な価値ほど高い (3) 他の価値によって基礎付けられない価値ほど高い (4) 感得した際に与えられる満足の深い価値ほど高い (5) 感性的な現存在に制限されることの少ない価値ほど高い 価値は感じられなければ与えられないが、客観的に与えられるためには利害関係や利己的関心を脱却しなくてはならない。シェーラーは、価値は感性的な存在に制約されることの少ないものほど高次であるという。要するに、感覚的な快適価値よりは生命価値の方が高く、生命価値よりは精神的価値の方が高く、精神的価値のなかでは宗教的な聖価値が最高である。こうしてシェーラーは、実質としての価値のアプリオリ性を説く。 3 個人の状況と価値感 確かにこうした客観的価値序列はある。しかし、現実の価値の決定は、その都度どこかに重心がおかれていて、各人の置かれた状況に基づく。より善く生きることはいつでも、序列的により高い価値の実現を志向することではない。たとえば、文化価値は一般的には経済的価値より高いが、しかしそうであるからといって、常に文化価値の実現が選ばれるべきであるとは言えない。たとえば、飢えた者が直接に必要としているのは芸術ではなく食物である。また、病気の芸術家が無理をして仕事をしている場合に、それを「悪」であると見なすことができないのは、その芸術家にとっては生命価値よりも高い価値がその営為に感じられているからである。このように価値は選択される。 つまり、価値にも序列があり、客観的な議論が可能であると言えるが、しかしその実現においては、常に状況により左右される価値感でしかないと言える。 参照: 講座哲学 4・価値の哲学 小倉志祥編 東京大学出版会1973年 まだ理解不足な点があるとは思いますが、大変勉強になりました。ちなみに100円の本ですが、大変な恩恵を受けています・・・

noname#15238
質問者

お礼

「価値の哲学」ですか、そのものズバリですね。 なぜ今まで気が付かなかったのか、表題が「講座哲学」のせいでしょうね。 3年前にこの本に出会っていれば、と言う想いもしますが、おそらく、3年前にはこの本を全く理解できなかったかもしれません。「価値の哲学」(私の質問)は、価値の語源から始まり、価値の主観性・感情をへて、アプリオリの問題へと移っていたようです、この本(序論)には、そのほとんどが入っています。 価値は、なくしたときに気が付くのと同様、探し物は、諦めた時に見つかるのでしょうか?不思議な偶然としかいえません。 価値は「良い」ではなく「良さ」であるという点は大事だと思います。 但し、以下の一点を、再度確認したいと考えます。 「良さ」とは、主観的に考えられたことか、客観的に妥当することかを、 一読しただけですので、この点の記述が曖昧なのか、私の理解不足か、この点何度も読み直す必要があります。 「良い」や「良さ」と同様、「悪い」や「悪さ」に価値を認める主観の存在は、この本の中にもあったような気がします、そうなると、客観的に「良い」と「悪い」の質的違いを主観的に「良さ」に通約して比較するのか?その場合、アプリオリ性が存在するのか?最後の質問と宣言したことを後悔しています(笑。 この序論の最後の言葉、選択と比較の違いは有りますが、私の質問と意図的には同義と感じるのは私の偏見でしょうか。問題は、「内的行為」とそれ以前の記述の、カントの「汎通的規定の原則」この点の理解不足にあるのかもしれませんし、選択と比較の違いもよく考える必要があるようです。 不満は、価値客体と価値主体の距離の問題が欠けていますが、アプリオリ性を考える上では重要だとは思いますが、贅沢の言いすぎですね。 結論的には、「良さ」とか「高さ」といった言葉で、上手く、「誤魔化された」気もしますが、ある意味上手く騙されたと言う爽快感かあります。 感謝・感謝。 お礼(この本)は100円(文字)ですって、1000文字と3000円のしか見つかりませんね(笑。

noname#15238
質問者

補足

忘れ物をしていました、何度も済みません。 「真理感」これが感情と言うことに違和感を感じました、確かに感情と意識の区別ははっきり線引きできないのですが、「真理」については、感情と言うより意識に近いような気がしますが、どう感じられました? 時間があればお願いします。

その他の回答 (11)

回答No.12

ご返答ありがとうございます。No,11の者です。しつこくてすみません。不快に感じられたら申し訳ありません。 上手く考えをまとめられず、言葉にするのが難しいのですが、「自己満足」といっても、己の分量に安住することではなくて、無限大にエネルギーを爆発させたいと思う気持ち、能動力があって、満ちているんだけど、満足ではない(笑)という感覚。言葉にするとどうしても矛盾してしまいます。混乱するようなことを書いて申し訳ありません。 「一番の贅沢は何も欲しがらないこと」と心理学者が言っていました。この感じに近いけど、欲しいものはたくさんあります。(笑) 大切なものはお金では買えないと思います。そういう価値観になってから、この「自己満足」という答えが出たのだと思います。 ものやお金、社会的地位や肩書きなどにとらわれない価値観や精神を持つことが、僕は「自己満足」につながると思います。もしかしたら、貧乏の方が純粋になれるのかも。もちろん僕もお金は欲しいです。(笑) いろんな選択があれば迷うけど、何も選択がなければつっぱしるしかないみたいな感じだと思います。 自分の哲学(精神、価値観など)をどんどん深くしていくことによって、どんどん研ぎ澄まされていくような感じで、哲学は、とても楽しいです。これからも、自分がどんな風に変わっていくのかと考えると楽しくて仕方がありません。 やはり価値観は人それぞれだと思います。オンリーワンであるからこそ、一人一人が輝くと思います。(笑)個性の相違があるからこそ、文明ではなく文化が進歩していくし、それが面白いと思います。みんな画一化したら全然楽しくないです。価値観も同じだと思います。 苦しいことがあるからこそ、楽しいことが楽しいと感じるように、食べ物がおいしいと感じるように、失恋したり、トラブルがあったり、病気になったり、嫌なことや不幸を経験しても、そこからさらに、生きたいと思う強い気持ち。能動力。人間のそういう一番大切な心・精神が一番大切で、またそれに感動もします。その精神が不幸なこともポジティブに転換すると思います。 人間は矛盾した複雑な存在だと思います。合理的に思考だけでは真理はとらえられないと思います。言葉の限界にぶつかって僕はどうしようもありません。それでも書きますが。(笑)ですから、哲学はとても大切だと思います。人生賭けて思いっきりやれば、必ず「自己満足」に行き着きます。それが価値だと思います。

noname#15238
質問者

お礼

第一感として、やはり羨ましいご回答、有難うございます。 やれるだけの事をすべてした後の自己満足を私は「諦念」と心得ています。 前回のご回答に、「諦念」と言う言葉を使わなかったのはvagabond_0710 様のご回答を誤って過小評価していたのでしょう。 「しらたまは、ひとにしられず、しらずともよし、しらずとも、われししれらばしらずともよし」 何十年も前に習つた和歌を今でも覚えています、少し違うかもしれませんが。 やはり人は、人の不幸を見ない振りは出来ない、自分ひとりが・・・ 時間がきましたので、またの機会にしましょう、有難うございます。

回答No.11

素人なので難しいことはわかりません。私の解答が失礼でしたらお詫び申し上げます。その上で書かせていただきます。 自分なりに哲学して「価値」について考えてます。そこで得た答えは、「自己満足」です。お金にしても、物にしても、あらゆる現象にしても、人それぞれによって価値が異なると思います。 ウル覚えですが、確かソシュールの言語学?だと思うのですが、言葉について調べてみました。言葉というものは、その本質とか実体が常に自己同一性を持った確固たる存在ではなく、反復性によってあたかもそれらの概念が常に同一であるように錯視しているに過ぎないとあります。言葉は無限に変化のあるこの世界を有限に表すもので、経済性に優れる反面、カテゴリーわけをしているにすぎないのです。なので、結局、「価値」は、人それぞれ、対象によって異なるので同一視することはできないと思います。

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 この質問もそろそろ「店じまい」と考えながら、ついつい決断を引き伸ばしてしまいました。質問の山に埋もれた中から発掘していただき感謝いたします。 ソシュールについては、他の回答者様から、本を紹介いただきましたが、図書館では見つけられずに、またの機会にと考えています。 「価値」と言う言葉は確かに難しいですね。 「自己満足」と言う答えを得られたと言う事は羨ましい限りです。 確かに私のこの質問も、私の「自己満足」の為と言う部分もあることを否定できませんし(笑。 私の心境としては「自己満足」が「価値欺瞞」(キツネとブドウの寓話が有名ですが)の結果ではないかと、自らの心を内省中としておきます。 森に入って、森が見えないのかも、暫らく「価値」から離れる必要がありそうですね。

  • comodesu
  • ベストアンサー率48% (49/102)
回答No.10

♯8です。いつもながら丁寧なご返事、感服いたします。ありがとうございました。 議論する気はありませんが、すこし補足しておきます。 ・マイナスの価値(負の価値の方が通りがよいですね)は、それを求められるのではなく、それを避けるという行動の動機となること。負の価値を避けることは、価値を得ることに等価であり得ること。 ・一つの事象・事物には価値と負の価値がともに含まれるのが一般的であること。関係する人と状況によりそれらは流動的に変化すること。 (例) ・危険を避けることが出来れば、避け得ず被害に遭ったときに比べ、価値を獲得したことになる。 ・原子力発電所は他の方式に比べ経済性に優れているとされていたが、廃炉に多額の費用がかかる面もあった。(有利なところ=価値だけ強調された) ・生産物に伴う産業廃棄物は、処理に費用がかかる生産者には負の価値であるが、処理業者には利益を生む価値である。これを生産者が再利用するなど資源化する方法を考えだすと、価値と負の価値は立場を逆にする。 ・「人間万事塞翁が馬」という状況変化による価値と負の価値の転換は、日常でも程度の差はあれ、起こっていることである。 これくらいで退散します。失礼しました。

noname#15238
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 お礼の文字制限以内で、ご回答で取り上げていただいた事柄に関して、考えたことをご報告することは断念いたしました。窮余の策として、補足欄を使用させていただきますのでご理解ください。 尚、補足欄の記入も文字数を出来るだけ制限した結果ですので、理解しにくい点があると思いますが、宜しくお願いいたします。 あらためて考えてみると、マイナス価値は不思議な言葉ですね。 「価値では有るが、価値はない。」「価値では有るが、価値が減る。」 この矛盾について整理したいと、つい時間がかかってしまいました。 つまり、マイナス価値は価値ではないと論破できないかと考えた次第です。 さらに、マイナス価値は否定的表現ですが、何かが有るという肯定を前提として否定が可能な訳で、前提としてのプラス価値の考察だけで充分では?などなど。 この辺りは、ペダンテイィックな言葉遊びに脱線気味で、悪戯に時間ばかりかかってしまいますので、またの機会に考えてみることにします。 色々考えることが出来、大変感謝しています、有難うございました。

noname#15238
質問者

補足

この問題は、今後の為にも整理しておく必要があります。 マイナス価値、負の価値、あるいは消極的価値といったものを「価値」の本質を考える際に、検討する必要が有るかどうかと言う問題です。 現在の、私見としては、必要は無いだろう、としておきます(笑。 ご回答の内容順に一応全て反論してみます。 反論1 病気を負の価値、健康を正の価値とした場合、病気の時には健康と言う正の価値が強調され、健康の時には健康の正の価値も、病気の負の価値を感ずることもほとんどないでしょう。価値を「感じるもの」から超越させて、広義に理性的価値判断を含めばありえないことでは有りませんが。 それと、人間はそもそも、欠如的存在です、危険を避けるために、洞窟なり木の上でじっとしていては生きてはいけません、危険を冒して、自らの身体を使って、自然と対峙する存在ではないでしょうか。 反論2 感情は感じるものですが、全体としての事物を対象にするのであって、感情の段階では決して分析したりはしないのではないでしょうか。総和の原理というものが有るのですが、これが関係するかはまだ勉強不足でやや自信ないですが。 例に対する反論3 此処は、反論1で対応できると考えます。 例に対する反論4 これはマルクスの商品論を使って反論できます。電気(商品)は、どのような方法で作られたかを問うことは無い、これは価値感情の問題と言うより、経済合理性と安全性といった、社会的共通意識の生成といった高度な領域ではないでしょうか。集団の価値意識と言うより、私は個人の価値感情を問題にしています、此処では、原子力発電所の価値は感情の領域ではないと言うことで如何でしょうか。 例に対する反論5 生産物に伴う廃棄物の件は、反論3と反論4で対応できるような気がします。 価値は可能性として、生成すると申しましょうか、鉄鉱石から鉄を抽出し、鉄を道具として使用できる社会の状況によって、鉄鉱石は価値があると感じられるのではないでしょうか。鉄を道具として使用する前に、鉄鉱石に負の価値が感じられたとは想像できません。 例に対する反論6 これは価値に対する真面目さの欠如でしょう、実在的により善く生きるためには決断の連続であり、自由や、志向性の冒涜で、価値論を単なる結果論に貶めることになりませんか? 以上、議論を煽っている、お礼と無縁な内容ですが、基本的には同じ方向に関心があると思います。 comodesu 様は、反価値を強調するように、私は、有限的な人間の捉える価値(貨幣価値に価値を一元化)を批判することで、同じ結果を導き出したいと考えているような気がします。そのため、負の価値の概念を持ち出して、価値に関する考察を必要以上に複雑にしたくは無いのです。 なお、議論を煽ってはいますが(笑、価値を広義に捉えるかどうかということは不毛な議論になりそうで不安ですが、私自身、価値感情と価値意識を区別できていませんし、理論的に破綻している点が有るかと思いますので、そのような指摘は歓迎いたします。

回答No.9

お礼欄拝見しました。 「文字制限がありますので、此処まで延ばして、儀礼的な言葉を続けるのは勿体無い気がします。」という所から11行ほどの部分が何を仰りたいのかがよくわかりませんでしたが、、、お返事が遅くなりまして申しわけありません。 といいましても、特に何が言えるというわけでもないので、再回答すべきかどうか迷いました・・・ >最大の疑問は、「価値序列」にアプリオリな序列が存在するのか? 「確かに価値間にはア・プリオリな高低の序列が認められる」(S. 40) 「価値間にア・プリオリな序列すなわち、序列一般が成立すると言ってよい」(S. 42) 病気の時にデートの約束を断る、という場合は、「生命価値」を優先しています。これが芸術のためであれ、仕事のためであれ、勉強のためであれ、病気の時は身体をいたわるのが「よい」というのが一般的な価値観であり、個人の経験に関わらず、「生命価値」が高い位置をしめる。つまり価値にはアプリオリな序列があると言える。しかし、この価値序列の高低に関わらず、実際には個々の状況によって選択される、ということでした。 私はこの見解については、理解できますし同意もできます。・・・ しかしfishbowl66さんはこの点が「最大の疑問」だと仰る。 しかしそれもそうかも知れません。fishbowl66さんは、もうずっと以前から価値について考察されてきていたのを私は知らずに、経済価値に対するfishbowlさんの思い入れを理解していませんでした。つまり、fishbowlさんにとってみれば、私の見解の方がきっと一面的なのでしょう・・・でも私は、「価値の哲学」(Wertphilosophie)という場合、やはり美学や倫理学における哲学的分野だと理解しています(念のため、ドイツの哲学辞典でも確認してみました)。 では、どうしたら、fishbowl66さんが求める価値の哲学を考えることができるか、、、 いろいろ考えてみました。・・・・・・・・・・・・・・ 日常生活では、私たちは意識せずに、「価値」という言葉を多義的に使用していますが、経済価値を論じる場合は、言葉の厳密な意味では、価値ではなく、「価格」、「賃金」という方が適切なのではないか。 「物の価値を貨幣で表わしたもの」が「価格」であり、この「価格」や「値段」であれば、量的に比較可能ということではないでしょうか。しかし基本的には、「価値がある」とは「よい」ということで、空気がよい場合は、空気に価値があり、価格がよい場合には、価値がある。もちろん、よりよい場合は、よりよい価値がある・・・ 要するに、難しく考えすぎなければよい、という非常に間の抜けた結論に私は落ち着きたいと思います。 ところで、fishbowlさんがもう一つ気になっていた章、「〈信仰〉について」の、 241p「ここでは自由を持つ人間が…次善のものだとしていさぎよく主張しよう、それがわれわれのなしうる最善だと私は言いたいのである。」 の部分ですが、ここの主眼は、「信仰の問題について、またとくに生き方の問題で、どこの誰にでも通用するという価値はないのである」、しかし、「近似値的な真理を得ることはできる」、それは「次善」と呼ぶべきものではあるが、それが「最善」だと考えるのがよいだろう、ですね。 なぜでしょう? これは次の段落にキーワードがあります。すなわち「寛容」の問題です。これはまさにカントの時代の啓蒙思想(ドイツの啓蒙思想)が示した一つの大きな価値の転倒とも呼べるものです。一神教のキリスト教を唯一絶対のものとして選択しても、それは普遍的にはあり得ない。なぜなら、信仰においてはキリスト教に限らず、ユダヤ教、イスラム教という他の人にとっての真理があるからです。カント的に言えば、私に選択の自由がある、という格律がなりたつとすれば、他の人にも選択の自由があるということを認めざるを得ない。つまり「主体的な絶対性」を主張しようとも、相対的にならざるを得ないのが信仰ということです。 「互いにまず尊敬しあうこと」、これか理性を持った人間がなすべき寛容の精神であると考えられます。この意味で著者は最後に、「各人の自由を現実に認めることが自己の自由を享受することにもなることを確認」する必要性を説いています(S. 253)。 やはり長くなってしまいました、すみません。

noname#15238
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり、申し訳ありません。 最初に以下の二点をご説明するのが大事だと考えます。 ひとつは、すでに知っていることを、知らない人に理解させる時の歯痒さをkonstellation様がお感じになるだろうということです、これは、自分の理解力不足の結果ですが、問題に対する真面目さの現れと寛容なお心でお許しいただければ幸いです。 もう一点は、「価値間のアプリオリな序列の存在」についてです。 私がこの事を最大の疑問とするのは、否定しているわけではなく、その前段階でまだ確認したい事柄が数多くあると言うことです。ご紹介いただいた本は大変役に立ちますが、ドグマのようにただ受け入れるだけでは理解したことには成らないと考えるからです。 おかげ様で、価値は感情であると再確認できました。 そして、意識にも感情にも「作用面」と「内容面」があることの再発見。 さらに、両者の共存できない関係については大変勉強になります。 ところが、感情の分析に入ると、真理感情・知識感情・知識価値感情これらの区別の説明は理解できるのですが、そうなると全体としての感情は、どれだけの質的に違う感情で構成されるのか、感情についてもう少し確認したいところです。 ジョンストンという方が、確か感情を「快・不快」に還元出来るような事を書いていたと記憶していますが、もう一度確認したいところです。 それと、意識と感情の区別がつきません。 上記の「作用面」を感情「内容面」を意識とそのまま区別つければ便利ですが、残念ながら、そのように単純ではないようです。価値は感情の領域から意識の領域へ複雑に絡み合うわけですが、価値を感じるものとする狭い範囲に限ると、序列は意識の領域に限定されるような思いから抜けられないのが現実です。 シェラーとマイノングの比較は面白いです、私は、やや、マイノングの下から上の考えに方法的に賛成したいです、「現象学」と言う武器を持っていないことも共通していますし。 おかげ様で、壁を乗り越える方法が見えたようです、上を越すのでなく、下に掘り下げることでした。 私の求める価値に合わせてご回答いただきましたが、私の求める価値は、玉野井芳郎博士の「広義の経済学」と言う概念より広い「広義の経済学」を想像しています。説明不足を深くお詫びします。 此処で取り上げなかった、ご回答の内容も、大変参考になりました。有難うございます。

  • comodesu
  • ベストアンサー率48% (49/102)
回答No.8

これまで傍観していましたが、価値についての考察もそろそろ終わりということで、少し私見を述べさせていただきます。聞き苦しければスルーして下さい。 「価値(の本質)とは」という問いは、それ自体、すこぶる形而上学的なアプローチだと思います。いわば固定的な世界観の発露と言いうるかも知れません。 もし「万象変化」という世界観から見るならば、価値は当然相対的なものであり、関係的であり、変動的なもの、であることは明らかです。あなたが「価値にそのものについて言うことは出来ない」と口走ったり、「価値とは関係の概念である、ということがわからない」とおっしゃるのは、変動するものを形而上学的にとらえようとするムリが現れたものと思います。(と言っても、これまで考察されたことがムダだったと言っているわけではありません。ここらで別の観点に立つ必要があろう、と思うのです。) 価値の問いをご自分の視点から立ててこられたあなたが、先哲にその答えを求められるのはスジが通らない。なぜなら先人達もほとんど形而上学のワナにはまっているからです。その例として、価値に対するマイナスの価値(反価値)の考証が不足していることを挙げましょう。一般に反価値はこれまでまともに考察されず、価値からの類推にまかされている面があります。だが私見によればそれで済むものではなく、たとえば真善美の逆は何か、それらは人間の具体的な世界にどんな関係があり、どんな感情と関わるか、そして何よりも、正の価値とどんな関係があるのか、負の価値から正の価値への転換(あるいはその逆)の問題、へと広がります。ことにあとの方の問題こそ現実世界の多様で深遠な様相をあぶり出します。いったい、男の世界についての認識を、女の世界に類推して適用できるでしょうか。なにより男と女の織りなす世界は次元の違った深遠さを持つことは明らかです。 価値と反価値は具体的には、「真善美」に対する「偽・悪・醜」、財(資産)に対する負債、生産物に対する廃棄物、安全に対する危険、などありますが、考察すればこれらが容易に相互に転換しうることが分かるはずです。 ところで、私はあなたが「価値とは」の問いを立てられたこと自体を考えたいのです。この問いを立てられたということは ⅰ)「価値」観を重視し、価値目的的な自己の生を構成したいと思っている、か ⅱ)とくにそのようには思っていず、知的関心から、か ⅲ)その他(内容省略) に分けられるとすれば もしⅱ)であれば、これ以上考えれば考えるほど、ペダンティックな知的遊戯に陥りかねません。 そしてもしⅰ)であるならば、個人における価値体系は、その個人の目的が決まればおのずとすべての価値の序列が決まっていくはずです。(複数の価値目的を持つことも出来ますが、その相互にも序列をつけられる。)この場合、先人や世人の価値観を元にする必要はありません。新千円札の見本が99億円の値をつけようとも、私はそれを欲しいとも思いません。私にとって価値あるものは私自身にしか決められず、それを求めていくことが「私の世界」の構築です。 あなたの価値とは何か。一般論を離れてそれを突きつめていくこと、そこに別の価値観が見えてくるのでは、と思います。 たいへん失礼しました。

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 なるほど、マイナス価値ですか、マレーという方が、「負の価値」と言う表現をしたようですが、確かにまともに考察していませんね。しかし、そもそもマイナスの価値とはなんでしょうか? 価値とは、われわれが現実の世界の中で何らかの行為を主体的にはじめる要因、つまり要求されるわけですが、われわれがより善く生きることを一般的に目的とする場合、マイナスの価値自体が無意味だと言うことにならないでしょうか。マイナスの価値はプラスの価値に対立することによって現れるような気がします。 さらに、価値は主観の感情に負う所が多く、関心の可能性の問題もあり、わざわざマイナスの価値を対象として行為をはじめる人もいない様な気もします。 男と女の対比としても、価値はその上位概念としての人間を捉えられると言った領域にあるのではと考えていますがどうでしょうか。 >価値と反価値は具体的には、…容易に相互に転換しうることが分かるはずです。 これこそ価値の不思議なところと申しますか、私の心をつかんで話さない「知的好奇心の対象」などと逃げては怒られますか、反価値と言う表現は置いておくとしても、価値の恣意性の原因を考察することにより価値に接近することが出来るような気がしますが。つまり価値はあくまで一過性の感情であり、生産物と廃棄物の対比として判断するわけではなく、廃棄物そのものを、との時その場の状況により価値ありと判断するのではないでしょうか。(自信なし) 私の質問は、私の主観的価値判断にしたがって、為すべき事を為し、為さぬべき事を為さぬだけです。 それをどう評価するかは、ご回答者様のご自由で、私があれこれ言い訳する事柄ではないと思います。 マイナス価値ですかお礼?に苦労しました、どこかに破綻がありそうですがよい勉強になりました。 そうそう、そろそろ少し変えたいと思ったのですが(汗。

回答No.7

過去ログ紹介してくださって、どうもありがとうございました。 すごくおもしろかったです。 あー、やっぱりプロは違うな~という回答もあったりして、大変勉強になりました。 >丸山圭三郎さんの部分はさっぱりわからないのです。 たぶんそれはfishbowl66さんの問題意識と、かみ合っていないからだと思います。 そういうピンとこないものは、ちょっと脇へ置いておけばいい。 >>価値の概念そのものを量的に比較することはできませんが ここで言いたかったのは、「(なんによらず)概念」を量的に比較することはできない、ということだったんです。あまり深く突っ込むと、「概念とは何か」みたいになって、またそれはそれで大変なことになってくるんですけどね。 「価値」という言葉自体が対立する要素を含んでいる、と指摘したのは、社会学者の作田啓一です。 『価値の社会学』(岩波書店)で、作田は日常語としての「価値」という言葉から、概念の定義づけをおこないます。 ちょっと長いけど、とっても読みやすい部分なので、そのまま引用します。 「日常用語では、価値は何らかの欲求を満たしうる客体もしくは客体の性質を意味する。食物、衣服、家屋、異性、金銭、書物、絵画などは、すべて価値である。経済学で使用価値と呼ばれているものは、だいたいこの用法での価値と一致する。 しかし、他方においては希少価値という用語法がある。この用語法によれば、容易に接近したり、入手したりできないものが価値である。あるいは容易に到達できない目標が価値とみなされる。たとえば、単なる書物や絵画ではなく、誰もが容易に創造できない学問的労作や芸術作品のみが価値をもつとみなされることがある。同様に、誰もが日常的に行っている行為は価値はもたず、強い正義感や深い信仰から出てくる禁欲行為だけが価値をもつ、という見方もある。  右に述べた二つの価値の概念は、明らかに対立している。一方では、欲求を充足させるものが価値であるとみなされ、他方では、ふだんの欲求の充足を押さえることで到達したものが価値であるとみなされている。経済学を除いた領域では、しばしば第二の価値の概念が用いられてきた」 おもしろいですね。日常用語としての「価値」に、すでに対立する概念が含まれているんです。 第一の意味では、量に換算できます。 でも、第二の概念ではどうでしょうか。 「希少」というぐらいだから、当然量としての意味が前提としてある。それでもここでは量というより、質の問題になってきている。 作田はこのあと日常用語の「価値」を精錬していきます。 第一の意味では、欲求充足=価値である。 第二の意味では、入手あるいは到達に困難なもののみに価値を認める。 いいかえれば、何かを犠牲にしてはじめて、入手された客体に価値が付与される、ということになる。 そうやって、ジンメルの、価値とは、入手あるいは到達に犠牲を伴った客体の持つ充足的な意味である、という考え方に準拠しつつ、価値の定義づけを行っていきます。 どうですか?これはピンときそうですか? 前にも書いたけれど、価値というのはやはり幅広い概念ですので、自分が読んで一番ピンとくる人の思想に寄り添って、考えていくのがいいんじゃないかなー、と思います。 そのとき、経済学と社会学と哲学ではやはりアプローチの仕方が違うので、あれもこれも、みたいにしていくと、かえって混乱するんじゃないでしょうか。 最後に個人的な感想なんですが、哲学ではないけれど、わたしはずっと研究者になるために勉強してきて、周囲も学生か教官しか知らなくて、fishbowl66さんや、いまでもよく覚えているんですがq=791895の質問者のような方がいらっしゃる、こんなふうに、仕事とは直接の関係がなくても、思想や、あるいは文学に興味を持ち、考えることや読むことを愉しみ、一種のライフワークのような感じで取り組んでいらっしゃる方がいるなんて、想像したこともありませんでした。 うまく言えないのだけれど、そういう方に対しても、深い尊敬の念を抱きます。 わたしは、たとえばq=193056の#3、#6の方のように、哲学を専門的に取り組んできたわけではありませんから、どうしても底は浅く、同じような勉強のやり方をしている学生のレポートのアドバイスならできるんですが、fishbowl66さんに的確な回答ができるかどうかはずいぶん覚束ないのです。 ということで、ずいぶんまとまらない回答になりましたが、過去ログ含め、いろいろ拝見して、こうした感想を持った、ということで。 今後とも愉しみつつ、「価値」について考えていってください。

noname#15238
質問者

お礼

お礼が遅くなり失礼しました。 私のやり方は、科学的ではないです、「価値」を分析するのではなく、直観的という表現が妥当かどうかわかりませんが、「価値」の全体を直観的に理解したいと言う願いです。 北川さんはジンメルを評して、使用価値と交換価値を区別していないと言う批判をしていたと記憶していますし、ウェーバーは、主観的に考えられた意味と客観的に妥当する意味を区別せず曖昧にしていると批判しています。つまり、北川さんは「使用価値」と「交換価値は」は違うものと区別し、ウェーバーは「主観的に考えられた意味」と「客観的に妥当する意味」は違うものだと区別する前提があるようです。 ジンメルははっきりとした記述は引用できませんが、事物(Was)は、ある意味一つの全体であり、経済的、又は文化的といった一つの側面のみで汲み尽されるような事物はないというようなことを言っていると思います、このあたりが上記批判の原因であるとともに、私にとっては共感する部分です。 私見ですが、「使用価値と交換価値」の分析が必要なのかが疑問です、「交換価値」はあくまでも「使用価値」の影に過ぎないのでは、これは言い過ぎかもしれませんが、二つの価値が全く個別の価値と言うことは出来ないような気もします、このあたりは価値から貨幣を考える上ではまだまた掘り下げる必要が有るのですが。 ウェーバーの批判に関しては、そもそもその違いは何かを考えることがこれからの問題です、何しろこの人の事は誤解していて全く無視していたのです。 ところで、ジンメルの価値論は「距離化」の問題ですが、以前質問したのですが、これだと空気に価値は無いことになってしまうのです。これも今後の課題です。 わからないことをわきに置いておくのは大賛成、置き過ぎると整理整頓が大変ですが(笑。 ghostbuster様が哲学は哲学史を研究することも必要とおっしゃるように私に基本的な知識が不足しています、私は、ジンメルを理解するとか哲学を理解するとかが目的ではないので、基本的に専門の研究をされる方とは立場が違うのでしょう。あれも欲しいこれも欲しいと言うただの欲張りです(笑。 そうそう、私はそんな大した者では有りません、世間でこのような話をする相手はいませんから、対話に餓えているだけだと思いますが。 すれ違いのようなお礼を長々失礼致しました、また宜しくお願いします。

回答No.6

こんにちは、補足欄を拝見しました。 私の拙い回答というよりも、私の回答を契機に『価値の哲学』を読んで頂けて幸いに思います。あの本の「まえがき」に見られる、 「経済の高度成長は価値とは貨幣価値のみのことであるかのような錯覚をさえ生じさせる。しかし人間がホモ・エコノミックスに成りきることも不可能である」 という言葉がまさに私の言いたいことでした。現代社会において「文化価値」が軽視されてきていることが様々な弊害をもたらしていると思うのです。 あれ、いきなり脱線してしまいましたね・・・ さてさて >「真理感」これが感情と言うことに違和感を感じました そうですね~、確かに。でも私は感じませんでした。 というのも、カントやフィヒテが用いる”Wahrheitssinn”という言葉やこれに類する表現 (…fuer wahr halten..「真であると思う」など)で、「真理感覚」というように言われます。”Wahrheit“が「真理」で、”Sinn”が「感覚、知覚、考え、意味」でして、英語で言えば“sense“ですね。 あの本の著者は、「この判断は真である」という例に見られるように、真偽の感覚を言っていますので、確かに感情という表現が単体であれば問題があるような気がしますが、あの文脈では言っている意味はよくわかります。 >探し物は、諦めた時に見つかるのでしょうか?不思議な偶然としかいえません。 はい、人と人との出会いと結びつきも星辰のように不思議な偶然ですね。(笑 >客観的に「良い」と「悪い」の質的違いを主観的に「良さ」に通約して比較するのか?その場合、アプリオリ性が存在するのか? つまり「価値は感性的な存在に制約されることの少ないものほど高次であるという」、という価値序列の問題ですね。たとえば、大事な契約の打ち合わせに遅刻しそうなときに、見ず知らずの困っている人を助けることが「よい」か「悪い」かという問題です。一人の今生きている人間としての自分の立場では、自分の人生やお金がかかっている「遅刻しない」ことは「良い」のですが、客観的な価値序列でいえば、「困っている人を助けること」の方が道徳的により高い価値がある「善い」のだと思います。 このように、シェーラーの言うようなアプリオリな価値序列はあると思われます。 >この序論の最後の言葉、選択と比較の違いは有りますが、私の質問と意図的には同義と感じるのは私の偏見でしょうか。 この点に関しては、私は問題にしてませんでしたが、両者に違いがあるとすれば、本の『価値の哲学』では、比較した後の選択決定に重点が置かれている、ということでしょうか。 >不満は、価値客体と価値主体の距離の問題が欠けていますが、アプリオリ性を考える上では重要だとは思いますが、贅沢の言いすぎですね。 そんなことはありませんよ。「美」を巡る議論でも、「心的距離」は重要な問題だと思います。 なので、 >最後の質問と宣言したことを後悔しています(笑。 と言わずに、あの本に対する不満・疑問点も含めて、さらにご研究をすすめてください☆ >お礼(この本)は100円(文字)ですって 文化価値を無視した古本屋のおかげです(笑

noname#15238
質問者

お礼

お礼が遅くなり、大変失礼しました。 文字制限がありますので、此処まで延ばして、儀礼的な言葉を続けるのは勿体無い気がします。 私は、反省しています、そもそも、価値についての道楽的な考察は、経済学における「効用」の内容を曖昧にしたまま、「合理的人間によって選択された行為」の結果を元に精密な理論によって、経済的効率性に「価値」を幻想させる逆説的な現状に疑問を持ったことからです。 そのため出発点からして、私の「価値一般」は経済的価値から見れば「価値一般」かもしれませんが、「価値一般」から見れば、経済的価値への傾斜は否定できないものだったようです。 文化的価値とか美的価値といった形容詞のついた価値ではなく「価値」そのものを考えたいと考えなから、「価値」についての考察にひとまず区切りをつけようとしたら、私はただ「価値一般」についての考察の「入口」に着ただけだったようです。 「まえがき」から最後の討論まで全て価値に関連して大変役に立ちました、特に、これまで意図的に避けていた、ウェーバーと宗教に関しては、いままでの偏見を反省する良い材料になりました。 それでも疑問点は多々あります。 48p~49p「より善く生きる…餓えた者が…芸術ではなく食物である。…「汎通的規定の原則」が作用している。…従ってより善く生きることは、より高い価値体系を求めることであるといってよい。」 この部分が、私の質問の要点である質と量の問題になるのかも含めて、もうひとつ理解できません。 241p「ここでは自由を持つ人間が…次善のものだとしていさぎよく主張しよう、それがわれわれのなしうる最善だと私は言いたいのである。」 これがアダムスミスの「道徳感情論」における適時性としての「次善」と同一のものなら、カントの「実践理性批判」での「経験論」に対する激しい批判に耐えうるのでしょうか。 そして、最大の疑問は、「価値序列」にアプリオリな序列が存在するのか? その他、「文化的価値と経済的価値」の「序列」では無く共通する何かが有りはしないか? シェーラーの序列では、分割できる価値の概念となど有るのか? これらの疑問には自ら「答」を出したいと思います、それが「道楽」ですね。 おっ、まだ余裕が有る、私は「お馬鹿さん」の上に「嘘つき」になってしまいますが、 また質問してしまいそうです、大変有難うございました。

noname#15238
質問者

補足

大変お世話になります。 現在、(1)と(2)を読み返しています。 ウェーバーを価値を科学から追放した悪人と考えていましたが誤解だったかもしれません。そんなことも有りましてなかなか先に進めません。「美」をめぐる議論まではまだかかりそうですが、この本を読み終わったあと、再度お聞きしたいことが恐らくでるでしょう。 そのためにもお礼は完読後にさせていただきます、忘れた頃にお礼が届きましたら宜しくお願いします。

回答No.5

横レスになりますが。 補足欄拝見しました。 >人は、態度として、動機として、客体として、測定しうる量として、・・・見なされている価値の概念を見出すのである これは文化人類学者としてのクラックホーンが、価値をとらえようとするときのスタンスである、と理解すべきだと思います。 たとえばある文化圏における特定の「価値」あるものの研究を通して、その文化体系の「価値」の概念を把握するためには、当然、比較・分類・測定が必要となります。 >価値評価によって量的比較を行っているという事実 価値評価≠「価値」の概念、です。 たとえば「価値」のような抽象的概念を扱うとき、わたしたちはさまざまな言葉でその概念を表象させます。 ジンメルの「貨幣」はきわめて卓越した表象であるし、ソシュールは「言葉」を「貨幣」と喩えることによって、価値という概念をあきらかにしました。 価値評価、というのは、あるシステムにおける価値を、何らかのモノサシによって表象したものです。 ですから、価値評価の量的比較は当然可能ですし、 >量を測る為には、質的統一が必要だということ >有用性や希少性、美的価値といった、質の違ったものを量的に比較することの不可能性 価値の概念そのものを量的に比較することはできませんが、あるシステムのなかで生じた「価値」を比較することは可能です。 たとえば、質問者さんもあげていらっしゃる見田宗介は「価値とは、主体の欲求をみたす、客体の性能のこと」として定義している。 これはおそらく社会学の定義として理解していいと思うのですが、このような定義づけをする限りにおいて、「客体の性能」ならば、さまざまなモノサシを準備することによって測定可能でしょう。 たとえば「価値」、「欲望」、「場所」、「権力」などという抽象的な概念は、百人いれば百通りのとらえかたがあります。 そして、哲学の方法論、心理学の方法論、社会学の方法論、経済学の、政治学の…もまた、それぞれちがいます。やはり、そのどれに依拠しつつ、自分の考えを深めていくか、自分はどの考え方が一番なじむ感じがするか、選択していくことは必要かと思います。 ** >「価値」とは「関係」の概念である。 わたしも以前、質問者さんの回答にそう書いた記憶があります。 わたしは丸山圭三郎が好きなんですが、丸山は『言葉と無意識』(講談社現代新書)で、ソシュールに依拠しつつ、自説をこのように展開しています。 「価値は関係から成立する」という小見出しがあって、そのなかで、貨幣と言葉の共通性に触れられています。 「言葉と貨幣が共有する類似点を掘り下げていくと、以下に見るような二つの本質が浮き彫りにされてくる。  第一に、いずれの価値も〈関係〉から成り立っているという点である。つまりは、全体から切り離した〈個〉としての存在は、それだけでは何の価値ももたないということだ」 つまりそれは、貨幣の性格 ・一万円札の「価値」は、たとえば一万円分のコメと交換可能である、という関係のなかで、「価値」をもってくる。 ・円という貨幣体系内で、ほかの貨幣との相関関係(これは一万円札で、五千円札でもなければ千円札でもない)においてのみ機能する。 と、言葉の性格 ・日本語の「兄」という言葉は、日本語の体系内でしか価値を持たない。英語で「兄」に相当するかに思えるbrotherには、「兄」に対する「弟」という対立項を含まない。 ・単語の意味は文脈内で決まる。たとえば「民主主義」という言葉ひとつとっても、置かれた文脈によってさまざまな意味を持つ。 は、両者の「価値」が「関係」のなかで成立することをあきらかにしています。 さらに、丸山は「価値は関係である」というだけでは、貨幣と言葉の性格を完全に言いあてることにはならない、と言います。 わたしたちは「関係」というと、実体論的関係、すなわち、すでにあるもの同士の関係を想定しがちです。 たとえば、人間関係にしても、恋愛関係にしても、すでに、別個に存在するもの同士の間に結ばれた関係です。 それに対して、貨幣と言葉に共通して見出される関係とは「〈物〉を生み出す関係(存立的関係)」であるというのです(これが第二の本質)。 「深層のロゴスとしての言葉は(略)、言葉以前に存在する事物や観念の記号でもなければ、社会的価値観を他人に伝えるための道具でもなく、そもそも存在していなかった諸価値を創り出す〈荒ぶる神〉であった。  同様に貨幣もまた、貨幣以前に存在する商品価値(交換価値)に代わるものでもなければ、商品化以前の生産物が有するかに見えている有用性(使用価値)に代わるものでもなく、そもそも存在していなかった諸価値を創り出す〈神〉にほかならない。貨幣が代行・再現しているように見える諸価値は、実は貨幣自らが生み出した非実体に過ぎないのである」 つまり「言葉」と「貨幣」に共通する「価値」の性質とは、 ・実体的に存在するものではなく、関係のなかで存在する。 ・さらに関係のなかであらたなものを生み出す存在である。 としているわけです。 あらゆる価値というのは、あるシステムの中でのみ成立するものだと思います。 同時にいかなるシステムも、「価値」という要素抜きには成立しません。 丸山の「言葉」と「貨幣」に関する考察は、優れて「価値」そのものの本質を言い当てていると思います。

noname#15238
質問者

お礼

ghostbuster様ご回答有難うございます。御礼か大変遅くなり申し訳ありません。 まだ、御礼の出来る状態ではないのですが、補足欄も使用してしまい、現状を伝える方法がありませんので、お礼の欄を使用して、再度のご回答を依頼するマナー違反をお許しください。 >価値の概念そのものを量的に比較することはできませんが しかし、見田さんも価値を「のぞましさ」と表現して、小倉さんも「よさ」と表現しています。 「さ」を広辞苑で引くと、「接尾語(1)形容詞の語幹…、その程度・状態を表す名詞を作る。」 「程度」と「量的に比較」同義とは申しませんが、やはり共通な点もありそうで、価値には異質性と量概念を同時に併せ持つ不思議な言葉のような気がします。 見田さんは、価値と価値意識を区別することによって、社会科学として価値意識を分析されるのですが、価値を客体に価値意識を主体に区別することが妥当かどうか、これは難しいです。 カントも性質は「もの」に付着しているわけではないと言うようなことを言っていたような気もしますし。 お礼を書きながら自分の考えを整理できるのがよい点ですが、今回は全然ダメですね。 「関係」については、ご回答者様が原因では決して有りません、以下の二つの質問を参考にしてください。 http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=188855 http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=193056 同じ事ばかり何度もやっていると笑わないで下さい(汗。 それと「価値と関係」の関係が理解できない私の問題点に付いて、以下の質問から何かご助言がございましたらお願いします。 http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=997370 丸山圭三郎さんの部分はさっぱりわからないのです、もうご紹介いただいた本を読むしか有りませんが、読まねばならない本ばかり増えて、元々お馬鹿さんが、浮き世の義理ごとや、つまらぬ所用の為、遅々として進みません。以前、経済学的に価値について考えた本はなかなか見つかりませんでしたが、そこから比べれば現在の状況は良い方向に有りますね、ただ経済学的な部分にいつ戻れるのか、それが心配です。 文字制限がありますので、失礼しますが、この質問は当分締め切りませんので、余裕がございましたら再登場をお願いします、特に「関係」は、お気づきの点をアドバイス頂けないかと、勿論無視されてもストーカー行為などしませんのでご安心下さい。

noname#15238
質問者

補足

価値評価≠「価値」の概念、です。 ご指摘有難うございます、この部分は気になっていました、当初、別の質問を予定していまして、あと2回か3回位質問したかったのですが、私の知る限り、多くの学者が価値について知る事を断念する中、この質問も潮時と判断して、急遽この矛盾だけに絞ってみました。 そのため、個人的な時間の制約で、つい、不正確な表現をしてしまったようです(汗。 現在、#2さんのお礼のために、ご紹介いただいた本を読む時間の工面に奔走しております。 興味深いご回答で、後日ゆっくり味あわせていただきます。御礼が遅くなりますので宜しくご理解ください。 蛇足、貨幣は言葉と似ています、但し「yes」としか言えないようです。あと、この場をお借りして、他のご回答者様への御礼が遅くなることにも、ご理解をお願いさせていただきます。

noname#7975
noname#7975
回答No.4

 ご質問は、以前からの続きモノで、暗黙の方向性を持っているように見受けられますが、過去の問答の復習を試みたところで、私には経済学に関わる大前提となるような問題意識が欠落していましょうから、今回の文面のみを小見を述べる拠り所として、また、「人生とは不十分な前提から十分な結論をひきだす技術である」という英国の作家サミュエル・バトラーの言葉を思い出しながら、回答を考えてみました。 > この矛盾をどう解決できるのかという問題です。  フィギアスケートの芸術点がどのような基準で採点されているか、その計算式を提示することは出来そうにありませんが、採点する審判の条件(履歴や経験)を提示することは出来ることかも知れません。そうして選ばれた資格保持者による、云わば「目利きへの一任」という形で質的統一を図ることは、多く採択されている解決方法でしょうか。  また、古来より美術品の売買に利用され、昨今ではインターネットによる多対多の情報交換が可能にしたオークションという取引形態は、質的統一を図ることなく価値評価を行わせている点で、これも解決の一例といえるでしょう。  そして、実はもっと卑近なところで私達は、測られないような価値評価をこなしています。例えば、600円のお昼の定食。その内容を見て栄養・嗜好・ボリューム等の満足感が価格に見合っているかを、すなわち、量的に示された価値を計測不可な価値にリバースエンジニアリングする作業を日常強いられているのです。とすれば、曖昧さは価値判断に付き物な訳で、私達は価値を扱うにあたり、便宜として用いていた値が、いつの間にか、絶対的な値に成りすましたり、またその逆転が遍在していても、逐一驚くことなくおおような気持ちで価値に接することが自然に出来ています。放置の結果とも取れますが、これも解決手段かも知れません。 > 「価値にそのものについて言うことは出来ない」と言うことになります。  「言うことは出来ない」とする理由は何でしょうか。経済的行為としての価値評価の矛盾なのか、それとも、価値みずからを否定する背理的なものを抜きに価値を論じれないというような、価値の定義そのものを切り出した場合に見られるゲーデルの不完全性定理にも似た言葉の論理的不整合が問題なのかが見えません。(それ以前に、言うことは出来ないと言いつつ言っていることが…(^^;それは違うか…)

noname#15238
質問者

お礼

SimpleThree様いつもお世話になります、御礼が大変遅くなり失礼しました。 芸術点やオークション・ランチに関する、具体的事例は非常に参考になります。 現実的には、権威や自由競争・市場の結果を受け入れることで個々様々な解決手段があるということなのでしょう。 お礼が遅れた理由の一つには、ご回答者様の問題意識が、深読みのせいと申しますか、私が以前、経済的部分への橋渡し的な質問に先走ってしまった影響かもしれません。 あの頃は、客観的な等価交換に内在する主観の違和感とか、行為に至らなかった価値意識はどこに行くのかとか、そのようなことが深層にあったような気がします、今でもあるのですが。 今回の質問は、元に戻って、理論的には異質なものの量的計測の不可能性と、現実的には異質なものを量的に計測して個々に判断を下す人間の能力に注目することにより、価値に接近することが目的ですが、ご回答者様の問題意識はすでに方法論的部分に進んでいってしまっているような気がします。たとえていえば、峠に上ってきたら、本当の峠はまだまだ先ですよと言われて、へたり込んでしまったようなものでしょうか。 もう一点は、このご回答を読んで―――私は常々、「現実は合理的なものだ」と言う考えが基本的にあるのですが―――この質問は自分のこの考えに矛盾していることに気が付いたのです。この内面的矛盾を解決しないで先に進んで大丈夫だろうかという不安があったのです。 やっと解決しました、自分がお馬鹿さんだということを、ツイツイ忘れてしまったようです。 後の問題は、お馬鹿さんがカッコウつけていると、おおような気持ちで、放置していただければ幸いです。 それにしてもコメントがよく変わりますね(笑。

  • bofd
  • ベストアンサー率25% (8/32)
回答No.3

ご存知かもしれませんが、価値一般について書かせてもらいます。 「もの」に「価値」がある場合、必ずそれを感じている主体がいます。主体が自らの意を「もの」に向けない限り「価値」はありません。つまり、概して、「もの」に「価値」がある場合、主体から「もの」へなんらかの志向性があります。 この志向性の内実として、人が「もの」を見るとき、その眼差しの中には配慮があります。これは、意識的なものから、本能的なものまで様々な段階があります。 例えば、床の上を歩いているとき、主体は床に向けられた眼差しから、視覚的情報(色彩、明暗、形、左右の目に映る像のずれ、など)を得ますが、これだけでは、ただの2次元の情報です。これらの情報に、「奥行きを感じ取る配慮」が向けられることで初めて、主体はそれを「歩くことのできる奥行きのあるもの」と感じ取ることができます。つまり、主体の眼差しには、歩くために必要な「奥行きを感じ取る配慮」が含まれていることになります。 また、眼差しに配慮が含まれる理由は、主体に「~のため」という必要性、欲望があるからです。逆に言えば、この「~のため」というのがなかったり、複数で矛盾しあったりしていると、主体が「もの」に「価値」を与えるのが難しくなります。 つまり、簡単に言ってしまえば、主体が持っている欲望が、世界に「価値」(意味)を与えている。それゆえ、「価値」そのものを語るためには、主体が持っている欲望について語る必要がある。大抵の場合、この欲望は「生命を維持するため」と「種を保存するため」で説明できます。しかし、美的感覚など、「~のため」というのが見つけにくい場合もあります(「なぜ花は綺麗なのか」・・・お世話になりました)。 以上の「もの」に対する志向性という考え方は、現象学でよく使われるもので、参考にされるならば、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、日本では竹田青嗣がよろしいのではないでしょうか(というか、このくらいしか知りません)。加えて、認知心理学も参考にすると面白いと思います。

noname#15238
質問者

お礼

bofd様、お忙しいところご回答頂き有難うございます(笑。 「花の質問」参考になりますね、価値論や貨幣論まで出てきてどうなるのか、ひやひやしています。 実は「美」について考えたことが、「価値」の役に立ったのです。 それは丁度、このご回答の「欲望」という言葉と同様な意味での「関心」です。 「もの」は「欲望・欲求」や「関心」の対象になるべく待っているのでしょう、丁度、花が美しいと認められるために待っているように。私が、「花の質問」に書いた、(世界は美で溢れている)でしたか、それは同じように(世界は価値で溢れている)ともいえるわけです。 対象は主観の「欲望・欲求」や「関心」により、認識され、その後、対象の性能が、主観の価値感を引き出すのでしょうか、その場合、主観の条件も重要ですが、その事を「関係」で片付けるのは、いま一つ、理解不足があるようです。 もう一点は、「美」と「価値」を比較した場合、「美」には、最後の最後の点で普遍的な形式があるような気がします、そして、「価値」にはそれが見つからないということです。 尤もカントは「何が美かを概念によって規定するような、趣味の客観的法則はありえない」と言っていますし、#2様のご回答にあるシェーラーは、価値の客観的アプリオリ性を強調していますので、難しい問題ですが。 以下は、少し意見を異にする部分です、お聞き流しください。 遺伝子工学の発展は確かに目を見張る進歩があります、人間が遺伝子を運ぶ道具であることには、確かに説得力が有ると思います。しかし、私たちは世界についてまだ何も知らないといった方が正しいと思います。 全体を知る為に、部分の知識に極端な突き出しがあれば、それを基礎としての全体評価は、誤りに向かう可能性が高いと考えることは出来ないでしょうか? ご紹介いただいた3人の名前は解説書のたぐいで知ってはいますが、一言難解といった印象です。竹田さんを読んで見ましょう、わたしはそろそろ、経済哲学の経済的部分に重心を移したいと思ったのですが、それにしても最後と宣言したことを後悔しています(笑。

noname#15238
質問者

補足

ご無沙汰しています。 先日、図書館で、期限の延長と取り寄せをお願いした本を受け取りに行ったついでに、本棚を眺めていましたら、竹田さんの本と目が合ってしまいました。 頭のすみにこのご回答があったのでしょうか、結果的には大変参考になりました。 内容については、今、判断を保留いたしますが、平易な文章で現象学を解説するだけでなく、「価値」を記述することに挑戦していました、こういうこともあるのかと、感服した次第です。改めてお礼申し上げますとともに、失礼なお礼をお詫び申し上げます。