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海軍兵学校1期の卒業生は何故2人だけ?
分からないので教えて下さい。
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- D-Gabacho
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<No.2回答の補足> 明治5年9月に今回限りの特別措置として依願退寮を認めた結果、新入生を除く生徒の大半が退寮するに至った件について、どういう事情があったのか『海軍兵学校沿革』を改めて読んでみたところ、翌年以降に教育方針の抜本的な変更が行われていることに気づきました。 明治5年まで募集する生徒の年齢は15歳~25歳だったのが、明治6年から13歳~15歳になっています。募集年齢の幅は狭まりましたが、募集人数は自費生徒50人を含む150人と大幅に増えています。明治5年の新入生は63名でした。 また、明治6年7月、英国海軍からドーグラス少佐以下34名の軍人が招聘され教師として着任。さらに、この年の新入生が入った後の10月、ドーグラスの建議によって英国女王誕生日、イースターが休業日(夏冬の休みも拡張)となるなど、寮規則が英国海軍の定例に従って抜本改定されるとともに、生徒は測量科、蒸気機関科、運用砲術科、造船科の各専門科のどれかに所属することになりました。 おそらく、こうした教育方針変更を見越して、新たな教育を受ける生徒の枠を増やすため、既存の生徒は退寮を促されたのではないかと思います。
- oska2
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>海軍兵学校1期の卒業生は何故2人だけ? 都合の悪い資料は、1945年の敗戦時に焼却しています。 ですから、「これが正解」という回答は期待できませんが・・・。 推測すると、西郷隆盛の「征韓論が敗れた」時期ですよね。 当時の役人・軍人が、大挙して抗議の辞職を行っています。 半数の参議が辞職し、官僚も約600人が辞職しています。 当然、陸海軍軍人も大勢が辞職。 海軍兵学校でも、西郷の考えに賛同した者が多かったのでしようね。
- D-Gabacho
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1期卒業は明治6年11月ですが、『海軍兵学校沿革』によると、その前年の明治5年に大量の退寮者が出ており、それが大きな要因と考えられます。 明治5年に退寮した者のうち、自らの意志で退寮した依願退寮が85名にのぼります。このほか病気理由が9名、不行状や規則違反によるもの8名、試験落第16名などとなっています。さらに病死者が5名出ています。 明治5年9月26日の生徒への通達で「自身ヨリ退寮願出ツル儀ハ決シテ有之間敷筈ノ処」としつつ、今回限り明治5年9月以前入寮の生徒の依願退寮を許可するとしたのが、この年の大量退寮につながったわけですが、なぜこうした特別措置がとられたのかは、『海軍兵学校沿革』を見てもよくわかりません。おそらく、何かあったのだろうとは思いますが…。 『海軍兵学校沿革』第1巻p116-117 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941344/78 このページにある「本科生徒第五期 二人」が第1期卒業生です。
- pri_tama
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海軍兵学校って設立時に海軍操練所の生徒がスライド(幼年生徒15名、壮年生徒29名)入校していますから、兵学校初年度が、たった2名で勉強していた訳ではありません。 明治初頭の海軍兵学校の期毎の生徒は20~40人で推移し、費用は官費ですから予算の問題で1期生として追加できる人員が2人分しか余裕が無かったとのではと思います。