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- oska2
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回答No.2
- kuzuhan
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回答No.1
「信濃」は大和型戦艦から設計変更で航空母艦になり、竣工後に空襲被害を避けるために横須賀から呉へ回航中に敵潜水艦の雷撃を受けて撃沈しています。 当時はレイテ沖海戦が終わった後で、17駆の司令艦だった浦風が戦没して隊の司令官も戦死して不在であったことや、浜風と磯風はダメージが残っている状態でした。それでも、「信濃」は大和型戦艦を設計変更した空母でしたから、不沈空母として期待されていましたが、雷撃(資料では4発の魚雷)を受けて沈没して、最終的に実践投入前に海に消えました。 悲劇の空母といわれるのは、回航は第17駆逐隊(浜風、磯風、雪風)が護衛をしていて夜間航行をしていたが、敵潜水艦(アーチャーフィッシュ)の雷撃を受けておよそ1時間程度で沈没したこともさることながら、当時最大の空母であった「信濃」(これよりも大型の空母はアメリカが原子力空母「エンタープライズ」を竣工させるまで変わらなかった)が竣工から沈没までわずか10日という短い艦命だったことでしょう。
質問者
お礼
大和級とかいうものに興味はありません。
質問者
補足
もっと短期間に沈んだ船はいくらでもあります。戦時中名なら尚更です。
お礼
被雷時に何人かは死んだでしょうね。当時はメリケンの魚雷も結構高性能になってましたから。でも、全部で何人死んだんですか。生還者の人数は正確な記録がありますが、軍事機密漏洩防止のためほぼ全員離島に監禁されたと聞きます。上官が口外禁止を命じたって、家に帰れば酔った勢いで家族とかにペラペラ喋る恐れがあったからです。そうなったら元も子もありません。姉妹艦武蔵の生還者も同じような扱いを受けたそうです。