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鎌倉殿のドラマを見てとても疑問
源頼朝は流罪になったというのにノホホンと北条家に隠れているというのが理解に苦しみます。流罪なのに監禁のされず、また流罪した側がどこにいるのかよくかからずという事などあるのでしょうか?バッチリ離れ小島に幽閉軟禁されているのが普通ではないでしょうか?
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>流罪した側がどこにいるのかよくかからずという事などあるのでしょうか? 当時の流罪は、「所払い」です。 流罪先では、自由行動が出来ました。 浄土系の法然・親鸞が「流罪」になりましたが、法然(讃岐の国)親鸞(越後の国)はそれぞれの流罪先で自由に生きています。 親鸞なんか、流刑先で布教していますからね。^^; 江戸時代でも「江戸所払いを命ずる」場合は、江戸管内でなければ自由に行動出来ましたよ。 >バッチリ離れ小島に幽閉軟禁されているのが普通ではないでしょうか? これは、「お預け処分」の場合若しくは「幽閉」の場合です。 お預けの場合は、預け先武家が「24時間監視」して自由行動は出来ません。 幽閉の場合も、同様です。 有名なのは、江島事件の「江島」ですかね。 高遠藩で、24時間監視付きの粗末な牢屋敷で死ぬまで暮らしました。 また、遠山の金さんと敵対した「(元南町奉行)鳥居甲斐守」 讃岐の丸亀藩にお預けになり、(自害しない様に)24時間監視で暮らしました。 明治維新で解放されるまで、約25年間も幽閉でした。
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- chie65536(@chie65535)
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>流罪なのに監禁のされず、また流罪した側がどこにいるのかよくかからずという事などあるのでしょうか? 流罪と言っても「伊豆へ行け。後は伊豆で勝手にしろ」なので、何処に居るか報告する必要はありませんし、所在不明になるのが普通です。 流罪と言えば「佐渡金山送り」みたいのを連想しますが、実際は「江戸所払い」のようなもので「政治の中枢の都から追い出す」程度の刑です。
- SPS700
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鎌倉殿を見ておりませんが、菅原道真は「流罪」になって今の京都から福岡県に行った人です。ですから太宰府天満宮を建てるほどの土地をもらって、都落ちした訳で、中央政府の職を解かれた、という緩やかな例もあります。 東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主(あるじ)無しとて春を忘るな と遠くか呼びかけたので、ハーイと言って梅の木が飛んでいったそうですよ。 ぼくんちの裏庭でも梅が咲き始めました。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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いくら当時の権力者(平家)の敵と言っても、平治の乱の当時はまだ平家の権力はそれほどでもなく、乱の首謀者の子息ではないし、乱の当時頼朝はまだ子どもと言える年齢だったし、母親の身分が高かったせいもあります。 また、少数ですが側近がつけられていたそうです。 乳母の一族がサポートしていたのです。 先の保元の乱にて叔父の為朝みたいな人間兵器であっても伊豆大島への流刑ですからね。 後の鹿ヶ谷の陰謀にて俊寛らが鬼界ヶ島に流されますが、割とのほほんとした流刑生活だったようです。 リアルあつ森までいかなくとも、魚釣って現地の民から食糧を分けて貰って。 過酷で悲惨な流刑生活というのは創作だったという説もあります。 流刑はそもそも特別な恩赦がない限り、京や本拠地から追放し、流されたその土地の民として生きる罰なので、基本的に監禁幽閉する必要はありません。
- t_ohta
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フィクションですからね。 脚本は三谷幸喜さんですから、史実に基づいた物語と言うよりエンターテイメント作品としておもしろおかしく描いた演出と捉える方がいいんだと思います。