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歴史で疑問です
例えば10年前とかだったら映像として残っているので○◯という出来事があったと言えますが 353年 誰々が何々をした 763年 何処何処で◯◯の戦いがあったなど もっと言えば恐竜の時代など(化石が残っているとは言え) そんな正確に「この出来事があった!」なんてわかるものなんですか?
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- staratras
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ひとことで言えば、「○○年に□□が起きた」と文字で書かれた記録(史料)が残されているからです。この文字による記録は、紙に書かれたものだけでなく、木や竹の薄板に書かれた木簡・竹簡、石に文字が刻まれた石碑、金属器に刻まれたり、刀剣に象嵌で記されたりしたものなど多種多様で、現代でも新たな発見があります。 例えば奈良時代に古事記の撰者として教科書にも載っている太 安万侶(おおのやすまろ・安萬侶、安麻呂とも書く)という人がいます。「続日本紀」という歴史書にはこの人が「養老7年7月7日に死去した」(秋七月庚午民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒)と書かれています。 ところが昭和54年(1979年)になって奈良市の茶畑からこの人のお墓が発見されました。そう判明したのは人骨とともに銅製の墓誌が見つかり、「太安萬侶が養老7年7月6日に死去した」(左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 以下省略)と書かれていたからです。 続日本紀と墓誌とでは、死去の日が1日違っていて、これにはいくつか説明する説があるようですが、ともあれ「養老7年7月6日(または7日)に太 安万侶という人物が死去した」ということは、1300年近く昔の歴史的な事実(史実)として認めるべきでしょう。 これは1200年以上昔の古代に作られた文献史料である続日本紀(もちろん現存するのは原本ではなく写本ですが)の記述が、現代に発掘された考古学上の資料(墓誌)で(死去日の1日の差はありますが)裏付けられた貴重(稀有)な事例です。墓誌の発見以前には太安万侶に関しては架空の人物ではないかとする「非実在説」さえありました。 これも疑ってかかれば、「それでも太安万侶は架空の人物であり、人骨や墓誌はこれにあわせた後世の人の捏造」という主張もあり得るもしれません。イギリスのピルトダウン人や日本の旧石器時代の遺物などそうした捏造の事例も皆無ではありませんので、文字史料と同じく考古学上の発見も鵜呑みにしない姿勢は必要ですが、この太安万侶の事例に関しては、発見の経緯なども含め総合的に見て、墓誌などが後世の偽造であると判断される合理的な証拠はなく、奈良時代のものだと考えられます。 なお当時日本で使用されていた和暦が、当時の西暦(ユリウス暦)でいつに当たるかについては詳細な研究があり、天文学などの力も借りて(日食・月食などで検証する)決められています。養老7年の7月は西暦(ユリウス暦)では723年にあたります。 歴史を研究するということは、過去になればなるほど失われたピースが多い巨大なジクソーパズルについて、何が描かれた絵なのかを、限られたピースを組み合わせて何とか復元しようと試みるようなものです。ピースが全部揃っていなければパズルはできないと考えたのでは、そもそも歴史の研究など不可能です。 史料の数は今から過去に遡るほど少なくなりますので、史料が限定されていることは承知の上で、その史料の性質を熟知して「この史料から確実にいえることは何か」を考える必要があります。そうすれば、「○○年(場合によっては月日まで)に□□が起きた」と確実に言えるレベルのことから、「○○年に□□が起きたと想定される」程度には言えること、さらには「○○年ころ(場合によってはもっと広く△△世紀)に□□が起きた可能性もある」位にとどめるべきことの区別もできるかと思います。 良心的な歴史に関する著作ではこのあたりはきちんと書き分けています。その点に意を用いず、何でもかんでも同じように「○○年に△△が起きた」と断定的に書いている書物は、歴史書とは呼べないと考えます。
- oska2
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>そんな正確に「この出来事があった!」なんてわかるものなんですか? 奈良平安以降は、為政者の都合若しくは寺院の記録で事件の詳細が分かります。 もちろん、記録した者の立場で内容は異なりますがね。 そこで、歴史学者は「複数の記録を比較調査して、正解を求める」のです。 例えば、フィクションの忠臣蔵。 史実では、あくまで「赤穂事件」に過ぎません。 そんなに、有名な事件ではありませんでした。 名古屋城畳奉行の私的な日誌でも、数行書かれているだけです。 「泉岳寺へ凱旋する赤穂一団は、江戸庶民の喝さいをあびた!」は、大嘘です。 史実では、あくまで「死闘」「テロ行為」ですからね。 苺パンツの本能寺の変。 これも、色んな説が流布していますよね。 先のNHK大河では、秩序を守る為に光秀は信長を討った!との説を採用しています。 が、当時の寺院の記録では「光秀は、謀反を起こした」と批判的です。 未だ、本能寺の変から3日後の記録です。 朱子学・儒教を採用した江戸時代ならともかく、謀反人扱いです。 興福寺の記録では、「光秀の首と導体は結ばれて本能寺に晒された!」とあります。 フロイスなどの記録では、「光秀は、残酷性を持っていて野望の塊だ」と本国へ報告しています。 ※比叡山の焼き討ちでも、非戦闘員の婦女子・老人子供も皆殺し! ※秀吉は、僧兵以外は逃しています。 つまり、天下を狙っていたのでしようね と、色々な古文書・記録を調査して整合性を求めれば過去の出来事は分かるのです。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
1。そんな正確に「この出来事があった!」なんてわかるものなんですか? それは、記録により、正確なものもあるでしょうが、誰がいつ、どのような環境で書いたかで、不正確なことも、全くデタラメのこともあると思います。 2。ある程度までは放射性炭素による定年法がああり、ワシントン州のケネウィックで、発見された人骨が、この方法で、今から9,000年前、誤差は前後数百年とされています。 3。さらに古くは DNA による測定法がありまsが、これは人種間の親近度はわかりますが、何年前かはわかりません。
- y-y-y
- ベストアンサー率44% (3067/6902)
有力貴族の記録・日記や、地方の豪族・名家・庄屋・古刹(古いお寺)・神社などが記録した遠隔地のうわさ・大事件(争いなど)・大事故(地震・津波など)の記録(いわゆる古文書)などや、日記などから、解読・推測するのです。 いわゆる古文書は。たいてい、「和暦」と「太陰暦(旧暦)」で書かれています。 現在、世界中で一番つかわれている「太陽暦(西暦)」と、「和暦/太陰暦(旧暦)」との変換表は、解読されて変換も出来ているので、日本の歴史は「太陽暦(西暦)」でも表示が出来るのです。 --------------------- 現在も、未発見の、いわゆる古文書が見つかって、解読・推測によってては、日本の歴史が変わる事ちあります。 例えば、聖徳太子は「厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)」で、そんな名前ではいなかったのではないか、肖像画も違うのではないか・・・ いま、小中学校の歴史では、聖徳太子が消えて、「厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)」になっている様ですね。
- taikobowmeido20
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元々は、古文書や文書のやり取りがあった。ということから推測する のですが、「なんでも鑑定団」などで新発見のものが見つかると、 歴史が変わってくることもあります。 江戸時代に水戸光圀が「大日本史」という歴史書を作り、そこから 大衆向けに歴史書が広まった。と言われています。 甲陽軍鑑というのは、武田信玄の戦略書ですが、これも江戸中期に 武士の心得として広まったんですね。 そうなると、だいたい江戸時代辺りから歴史に関しての定説が固ま ったと言えます。 明治維新後でも、坂本龍馬の存在や高杉晋作などの維新の英雄に関 しても、昭和に作家が題材として書かなければ庶民には知らされて いなかったのです。 ですから、創作や改変は当たり前になってしまったのが、現在の 大河ドラマなどの歴史物のテレビ番組なのですね。