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縄文人の会話を聞いても理解できませんか
昔東北地方を旅行した時、現地の人が交わしている会話が全く分からなかったという記憶がありますが、縄文人の会話を聴けてもまず何もわからないでしょうね。
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ゴメンナサイ。 あなたの縄文人に対するロマンを否定している訳ではありません。 今はどうか分かりませんが、昔の学校の教え方では縄文人は狩猟採集をしての暮らしだったので、大規模な集落を形成しないで定住はしていなかったみたいなことを言っていました。そして、弥生人(弥生式土器の時代の人たち)は稲作農業をすることで定住して生活するようになったと。そこから、性質というか性格みたいな話も出てきていました。 まあ、言葉の発達と生活スタイルがどう関わるのかは分かりませんが、日本語の基礎がどの時代に作られたのかはそんなに簡単に決めつけることはできません。 原日本人が縄文人なのか、縄文人を駆逐した弥生人なのか、はたまた混血なのかは断定できません。 おそらくは、それらのミックスのような状態の時期が何世紀も続いたのでしょう。 ですから、縄文人の会話に原日本人の会話のロマンを見るのは決して全部は間違いではないはずです。 漢字を使っての日本語の記述ということにしても、「古事記」「日本書紀」がヤマト言葉を文字にしたは言い難く、「万葉集」をもって始めてヤマト言葉を文字に移したと言えると思うのです。 そうすると、当時の日本語としての日常会話はこんなものでしたと言うことの困難さにぶつかります。 考古学的には、頭蓋骨が発掘されれば、どのような声で話していたかは推測可能でしょうが、そこからどのような会話をしていたかは無理でしょうね。 縄文時代に、日本の国を平定して、神武天皇が即位したという「日本書紀」の記述を史実だと考える人たちは、縄文時代には「日本」はあり、「日本人」が住んでいたというのかもしれませんが、それは考古学的にも見ても不可能な話です。 観光地としている遺跡には、面白おかしく説明している所もありますが、史実と神話はきちんと区別しなければなりません。また、ロマンと史実もきちんと整理する必要があります。 僕が言いたかったのはそのことです。
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- kappa1zoku
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皆さんの回答に感心をしながらも、ちょっとした疑義が生まれています。 縄文人が果たして原日本人なのかという問題です。 「奈良時代の直前には、古墳文化の時代があるが、古墳文化をさかのぼった時期が、いわゆる弥生式時代である。はじめて稲を作る農業を行い、機織の技術を取り入れ、鉄器を使用し、青銅器の剣や矛や、銅鐸を持っていた弥生式時代は、長い縄文式時代の文化を一変させて、採集経済の生活から農業集落の生活へと日本を進めた。その起源が南朝鮮からの刺激であることは、今日もはや疑いない。北九州はその新文化の取り入れ口であり、新文化は南へ、東へと進展拡大されていった。それは大体、西暦紀元前300年の頃であったと、今日の考古学者は考えている。つまり奈良時代(八世紀)をさかのぼること一千年の昔である」(『日本語の起源』大野晋著) あなたは縄文人の言葉が分かるだろうかと質問をしています。 縄文人というのは何度も言いますが、時代区分であって、地域的な方言とは訳が違います。 つまり、縄文人がどこまで古代日本人として考えられるかという疑問が最初に出て来るのです。 そこをスル―してしまうと、みそもくそも一緒に議論をする羽目になります。 大野晋氏は、著名な日本語学者ですが、日本語の成立を未だ解明できずに亡くなられています。 万葉集の研究からは、奈良時代には八つの母音が一般の人々によって言い分けられ、聞き分けられていたと確認されていますが、それが縄文人までさかのぼるという話は聞いたことがありません。 縄文人の間に存在する弥生時代の人間を簡単に省いて論じているからです。 万葉集においても、有名な話としては、東国の人たちの方言であります。特徴的なのは、助詞「が」の使い方で、それまでになかったのですが、武士勢力の勢力拡大とともに、それが普通に使われるようになったと書かれています。 言葉が進化・変化する問題は別な話です。
お礼
質問が、せめて弥生時代だったらよかったのでしょうね。弥生時代あたりに日本列島に大陸から多数の人が移住してきて先住の人の言葉を大きく変えたとすれば縄文時代の言葉は一掃されていたのかもしれませんね。
- marisuka
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「ゆるるかにみてゆきたまぴよ」 奈良時代ごろの文献をもとに作られた、縄文時代の発音です。語彙も違うし、まず発音が現代とは違います。初めて聞けば、まず理解できないでしょうね。 平安時代でさえ、「父には合わず、母には二度合うものは何?」というクイズがあったとか。答えは「唇」。なぜかというと、平安時代は「は」の発音が「ぱ」とか「ふぁ」に近いものだったからだとか。 最初の会話文は「ゆっくりと見ていきたまえよ」という意味だそうで。兵庫県加古郡播磨町の、大仲遺跡資料館で聞くことができます。
お礼
そういう研究もされているのですね。驚きました。
- SPROCKETER
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縄文人は地域によって言葉が違っていたでしょうから、会話を理解するのは難しかったでしょうね。 縄文人と言っても多言語社会で、日本の各地域によって全く異なる言語文化を持っていたと考えられています。その名残が方言です。共通語は明治時代に言語文化の違いを克服する為に作られたもので、それ以前は日本は多くの国に分かれた連邦国家であり、多言語社会であったと考えなければなりません。 縄文人同士でも、言語文化の違いで言葉が通じなかったのが現実でしょうね。
お礼
方言の意味が現在とは大きく違っていたということですね。江戸時代でも全国の大名が会話に使ったのは謡の言葉だったと聞いたことがあります。当時の共通の教養だったから通じたということですね。
- kappa1zoku
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縄文人というくくりですが、時代的な区分で、地域的な区分ではないですよね。 しかも、青森県の三内丸山遺跡にあるような縄文時代でもそれなりの集落を築いていたのであれば、他の地域に集落との交流・交易をしていた可能性もありますでの、共通の用語とかを編み出していたかも知れません。 最初は、数ですよね。この品物とその品物の交換率を決めなくてはならないでしょいから、数の概念は生まれたと思います。あとは今度はいつ交流・交易するかが話題になると思います。また、婚姻の問題も出てきたかも知れません。 言語は必要に応じて生まれると考えられます。 現代人の僕らだって、縄文人の生活スタイルが分かり、そこで生活をすれば、交流のための言語は少しづつ理解できるかもしれません。 東北地方でのことですが、あなたがそこで一カ月でも生活をしていれば、理解できるようになるはずです。 言語とはそのようなものです。 外国語の同時通訳みたいに相手の言語が分かるというのは、言葉が分かったという事ではないと思います。
お礼
言語も道具であると考えればそれを使って何をやっていくのかということになるのでしょうか。若者の言葉だ毛でなく現在だtってわからないことがあります。こだわるなんてとても使えません。いつの間にかパンツが下着でなくなっているがこれも使えません。お礼がずれてしまいました。
- Radish_Boyaboya
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15000年~5000年くらい前の日本に方言があったのか?て、質問ですか? たぶん、あったんじゃないですか? 標準語はなかったでしょうし。
お礼
仰るとおりですね。
- nagata2017
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初めからここに住んでいた人たちではないので 言語は違うと思います。
お礼
仰る通りですね。語彙でも共通なものはほとんどないかもしれませんね。
お礼
資料がないい以上本当のことは分かりませんね。