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両論併記について質問。ナチスはダメが一般論ですが、
両論併記について質問。ナチスはダメが一般論ですが、イイと言う意見もあるので、両論併記すべきだ。一方は書けて、一方は書いたらダメは言論の自由の弾圧だ、と言う意見がありますが、どう思いますか。 殺人はダメな事が法的倫理的にもメジャーですが、殺人はイイ事と言ってもいいではないか、マイナーな意見も尊重すべき、両論併記すべき、と云う論理は正しいのでしょうか。 差別はしてもいいししなくてもいいは、教科書や法令や裁判の判決に、両論併記すべきなのでしょうか。 どう思いますか。
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両論を併記した方が良いのは、ある事柄について賛否両論あって、そのどちらにも相当な社会的な妥当性があって、どちらか一方だけを書くことによって公平さを欠く場合です。 ナチスが行ったこと(たとえばユダヤ人に対して行ったこと)や一般的な殺人を肯定することについてはあてはまりません。またそもそも「差別」は「してもいいししなくてもいい」ものではありません。 マイナーな意見も尊重すべきだというのはその通りで、少数派の権利を多数派が「数の力で」侵害すべきではありません。また現在の社会体制や常識に対する、平和的な異議申し立てを行う権利も勿論認められるべきですが、偏見に基づく不当な差別や殺人などの暴力的な行為、テロリズムまで「両論の一方」に入れることまではやはり許容されません。
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- g27anato
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「存在」の認知を目的として、両論併記は有効です。 その場合、 数的比較も含めた論理的解析を加えて、是非判断の材料を示す必要があります。 一方の正当性だけを示し、他方の存在を無視することは、 現代のデジタル思考に支配された世の中では、「100%」対「0%」であるかのような誤解を与える可能性が高くなります。 一方が「0%」であるとする誤解は「想定しない」ことに繋がり、緊急事態を招く可能性が非常に高くなります。 法治に関する裁定は、 その過程において両論の是非判断が繰り返されます。 その結果として「一方を『是である』と判定した」と結論するものです。 判決は論争を目的としません。 両論検討の結果として裁決、最終的な「断を下す」ものです。 教科書は両論の存在と論争の事実、経緯から結果を示すのが最善です。 既に結果が出ている事例について、新たな論争を目的とはしません。
- human21
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ナチスや殺人をいいと書くのを両論併記と言うのは、詭弁です。 差別も同じですが、これらの内容は「論」に当たりません。 法律や道理に反する言動を一つの「論」と考えるのは、まともな社会では 受け入れられないでしょう。 異常な社会、異常者が率いる国、異常な時代などでしか通用しないと思います。
- roadhead
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その理論はマスコミだけに対するものです。 教科書、法令等は確定した1つの事実のみ記載しなければいけません、 判決も同様で確定したものだけで無ければ判例にはなりません。 世の中には様々な理論があるのは当然ですが理不尽なものや自己中心、身勝手な意見が圧倒的に多いものです。 ものの見方は多元的であるべきですが確定したものは常に1つで無ければ世の中が混乱するだけになります。 真実は常に1つです。
- SPS700
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1。一方は書けて、一方は書いたらダメは言論の自由の弾圧だ、と言う意見がありますが、どう思いますか。 書く場所によると思います。当時国務長官だったクリント夫人を女だからと消した写真は保守ユダヤ系の記事なら掲載され男女同権という立場からは問題でしょう。 2。差別はしてもいいししなくてもいいは、教科書や法令や裁判の判決に、両論併記すべきなのでしょうか。 公正な報道をしている場所なら、甲意見が何%で、反対意見の乙が何%以上ならかくと言った基準があると思います。 要は客観的に意見の広がりを述べる場所ではすべての意見を書き、自分達の意見を述べる場所では一つの見方を書けばいいと思います。