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「お蚕さんのおかげで、(高等)女学校に行けた」
祖母が、生前よく言っていた言葉があります。 「お蚕さんのおかげで、女学校に行かせてもらえた」 祖母は大正10年だか13年だかの生まれです。 女学校へ進学するころといったら、昭和10年前後。 祖母の親が、養蚕業の工場で労働者として働いて、羽振りがよくて女学校に進学させれたということなのでしょうか。 でも、養蚕業の工場といえば「野菊の墓」で象徴されるように、13~18歳の少女が労働していたイメージがあります。 まさか、祖母の姉妹が養蚕工場で働いて、そのお給金で祖母が女学校に・・・? 祖母のいう「お蚕さんのおかげで女学校にいけた」とは、どういうことなのでしょう 一応、祖母の実家は、もともとは武家だったらしいのですが、上級だったのか下級だったのかまでは聞いていません。
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- japaneseman5963
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現金収入の少ない時代でしたから繭の売却代金は貴重だったと思います。 わたしの母は進学していますが兄弟6人ほどいて一人だけ バーチャンの実家は農家ですが蚕は「オゴサマ」という敬称的な言い方を します。その実、製糸工程では繭の中のさなぎを煮て殺すのが初工程 ナンダカナー?
- ?橋 昌也(@fudousin)
- ベストアンサー率21% (138/631)
あまりに情報が少なくて想像するしかない>< おそらく工場労働者ではないでしょうねぇ。根拠は「お蚕さん」という言葉です。製糸工場であれば、繭玉、生糸などというのが自然です。農家ではないですか?実際に、蚕に桑をあたえて繭玉を作らせる養蚕農家では「お蚕さま」とよく言います。戦前までは日本中にありましたので。 それ以外だと、生糸の販売とか、問屋とか、下請けで絹製品製作とか、絹関連のなにかとかですが、もひとつしっくりしないですね。
- chiychiy
- ベストアンサー率60% (18537/30887)
こんにちは 蚕産業がよかったのは明治のころまでの話なので 親なのかしまいなのかはわかりませんが 一等工女と呼ばれるスキルの高い女性になると 歩合給で他の人よりもお給料が高かったそうです。 それは本人のおかげではなく「御蚕様」と言われていた ようですが・・・。 他の方も書いてますが「野菊の墓」は親戚の家に奉公に出されていた 女性とその家の子の悲恋を描いたものですので 「ああ、野麦峠」だと思います。 女工は決して楽なものではなく、重労働でしたが 先ほども言った通り、一等工女になると破格の賃金で 家族を食べさせることができました。 https://rekishichips.web.fc2.com/okaiko1.htm https://www.katakura.co.jp/silk/study/museum/column1.html
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34517)
詳しくはお祖母さんに聞いてみないと分からないことですが、明治から昭和初期にかけての日本の主要産業は、繊維業でした。主に生糸の生産だったのです。おそらくお祖母さんの実家はその繊維業に関わる仕事をしていて、そのおかげで現金収入を得ることができたということだと思います。 「野菊の墓」は繊維業は関係ない(確か醤油屋の話だったはず)のですが、質問者さんがいいたいのは「あゝ野麦峠」のことでしょうか。女工哀史ですよね。 「あゝ野麦峠」は、今の長野県を舞台にした紡績工場で過酷な労働を強いられる女工たちを描いた作品です。ただ、この話というのは「ブラック企業でこき使われた可哀想な労働者」と単純に言えない面もあるのです。 当時の長野県というのは、とんでもなく貧しい地域でした。なにしろ寒いでございましょ。おまけに川の少ない盆地なので、稲作に向かないのです。今でも信州といえばリンゴや蕎麦の名産地として知られていますが、蕎麦の名産地っていうのは、その現実は「米が作れない貧しい地域」でもあるんです。米が作れないから、しょうがないので蕎麦を作っているのです。リンゴが農家のまともな収入源になれるようになったのは早くても昭和、たぶん戦後になってからだと思うのですが、これも話し始めると長くなるので割愛。長野も青森も非常に貧しい地域なのですよ。 で、そういう貧しい地域の跡取りではない立場に生まれてしまうと、それでなくとも食うや食わずの地域なわけですからはっきりいって生きてるだけでも迷惑な存在となってしまいます。だもんですから、昔の信州で三男とか四男とか、次女三女やそれ以降なんて立場に生まれてしまうと、一生厄介者扱いされたのです。かといって他に仕事もないので、実家の部屋住みとして農作業の手伝いをしながら生きていきますが、結婚なんてそんなものは辞書には載っていないどころか、飯を食わせてもらっているだけでありがたいと思えと言われながら家の中で小さくなって生涯を終えるしかなかったのです。 誰だったかな、その実態を調査した人がいましてね、人生に生きる希望も何もないわけですから、それこそ「やりたいことはなんですか」と聞いても「実現するわけがないから、やりたいと思うことさえないです」なんて答えが返ってくる有様で。人間こんな環境にいると生きる気力もなくなるものなのかと書き残したほどなのです。 そういう場所に、紡績工場が来たのです。それで仕事と役割を与えられて、しかも(それが僅かであっても)給料がもらえたのです。彼女らにしてみれば「一生お小遣いなんて貰えないと思っていたら、自分の自由になるお金がある」わけですから夢のような生活です。それこそ部屋住みで小さくなって生涯を終える人たちからすると「憧れの仕事」だったんですよ。 ただお祖母さんの世代を考えると、昭和10年頃だと昭和恐慌の直後くらいです。なので日本経済的にはお祖母さんが幼少期には歴史に残る大不景気の時代ではあったはずだというのはありますね。 ちなみに昭和恐慌の後は、日本政府は軍事費にお金をかけることで重工業を発展させようとした時代でもあります。それまでは日本は軽工業国だったので、重工業が発達していなかったのです。その国策のために、それまでの日本経済の根幹を成していた繊維業が圧迫されてしまったという一面もありました。だからお祖母さんの言葉には歴史的には少し矛盾がある面もあります。なので、お祖母さんの実家がどうであったのかはそれを調べみないと分からないところはありますね。
- yuki_n_y
- ベストアンサー率58% (921/1571)
No1さんの様に蚕を育て繭玉で出荷します 月1回 年3回から4回、規模にも寄りますが 昔の(昔風)住宅の12帖二間で飼育した場合、一回の収入が50万円ぐらい 三回飼育した場合150万位収入(鐘紡)、餌の桑も育てなければならないので まあどの位か儲けたか(昭和30年頃、家が蚕室、蚕様様で人間は片隅へ) 私の母も同じ年代、飼育管理はうるさかったですが 私が裕福に過ごすことが出来ました 今現在は、日本製絹が手間をかけると高くなり海外から輸入 機械・オートメーション化もやりましたが、利益が薄く途絶えています 野菊の墓より 大竹しのぶの、あゝ野麦峠をこよなく見ています (片倉・岡谷・高山が見える) 繭玉をほぐして糸にする工場
- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
養蚕は個人経営で、「工場」と呼ぶほど規模の大きなものは有りません。 工場が有ったのは絹糸を生産する「製糸会社」のほうです。 「養蚕」というのは「蚕」という蛾の幼虫を育てて、 その蚕が作る「繭」という「絹糸」の原料を生産した、 工場ではなく「蚕を育てる」専門の職業です。 当時世界中で人気の高級な「絹」の原料を生産していたので、儲かっていたのは確かです。 蚕を育てることで資産を築いて裕福だったので、 その蚕に敬意を払って「お蚕さん」のおかげと言っていたものです。 要約すると、 「蚕を育てる養蚕業で儲かっていたので、金の苦労はしなかった」 …という事です。
- terepoisi
- ベストアンサー率44% (4090/9254)
>養蚕業の工場といえば「野菊の墓」で象徴されるように、13~18歳の少女が労働していたイメージがあります ご家族の誰かが女工として働いていたのではなく、家業か副業として自家養蚕なさっていたのではありませんか。 蚕糸や絹織物はそのまま現金収入になっていましたし、戦前までは輸出品として重要な産物でした。
- meitoku
- ベストアンサー率22% (2258/10048)
繭(まゆ)を作る農家。養蚕を行ったのでしょう。 荒れた農地でも桑(くわ)が育てば養蚕を行えます。 春 夏 晩秋 番晩秋と年複数回繭を作り業者に引き渡し出来ます。 収入が安定すると言う事ではないでしょうか? 祖父が村に養蚕を広めて女性の就学を推進させたと記録にあります。
- f272
- ベストアンサー率46% (8469/18131)
本当のところはわかりませんが,家で蚕を育てていて生糸を出荷していたのではないでしょうか。蚕のえさになる桑も自分の土地で育てます。
- Pochi67
- ベストアンサー率34% (582/1706)
製糸工場じゃなくて、蚕を育てて繭を出荷することで生計を立てていたのでは?