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武田兵庫
新撰組の寺井主税は元旗本の武田兵庫の家来との事ですが、武田兵庫と言うのは、本名は武田なんて方になるのですか?
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武田兵庫の「兵庫」は「仮名(けみょう)」の一種で、「百官名(ひゃっかんめい)」と言います。「仮名」は簡単に言えば通称のことで、例えば「源-九郎―義経」であれば、「義経」は「諱(いみな)」と言い、本当の名ですが、本当の名を言われると、言った人に支配されるとの考えがあり、親とか目上の者しか知らない、言わない名です。そのため、通常に呼ばれる名が、「九郎」のような仮名=通称として名付けられ、用いられました。 「百官名」は、仮名=通称に律令の官職風の名称を用いる事、その官職風の名称を言います。例えば、「兵庫(ひょうご)」ですが、武器・儀仗(用具)の管理を扱った兵庫寮の事です。また、兵庫寮の長官である「兵庫頭(ひょうごのかみ)」、次官である「兵庫介(すけ)」などの、「寮」・「頭」・「介」の部分を除き、官職風にしたものです。ただ、先祖・親・本人が、「兵庫頭」や「兵庫介」などに任官したことがある場合などに用いることができ、官職風とはいっても慣例があり、自由に名乗れるものでもないのです。 さて、武田兵庫を名乗る家は、一軒しかありません。戦国時代の甲斐の戦国大名の武田信玄(晴信)の弟の武田兵庫頭信実の直系の子孫の家になります。武田兵庫頭信実は、甲斐国の中の河(川)窪村を領地としたことから、名字を「河(川)窪」として「河(川)窪兵庫頭信実」と名乗ります。長篠の戦の中の「鳶ノ巣砦(とびのすとりで)の戦」で、酒井忠次率いる徳川軍に奇襲されて討ち死にした人物です。その子の「河(川)窪信俊」は、戦国大名の武田勝頼の滅亡後、徳川家康に召し抱えられ、知行1610石(寛政重修諸家譜による)の徳川の旗本となります。その後、信俊-信雄-信貞と継承します。寛文4年(1664)12月29日に、将軍徳川家綱の仰せにより、「河(川)窪」から本姓の「武田」復し、由緒ある先祖の官名である「兵庫頭」に任官し、「武田兵庫頭信貞」と名乗ります。この信貞以降、信貞-信令-信喜―信胤-信村-信親と継承し、知行5310(5318とも)石の旗本の家として存続しますが、『寛政重修諸家譜』の記述では、「兵庫頭」への任官、「兵庫」の仮名を用いた人物はいませんでした。しかし、『寛政重修諸家譜』では、信親の子の「信徳」の仮名に「専之助」「兵庫」があり、「信徳」が仮名に兵庫を用い、武田兵庫を名乗ります。『寛政重修諸家譜』の記述はここまでなのですが、これ以降の武田兵庫家の人物を調べると、次の人物が上がります。 武田兵庫信徳、和泉守に任官して武田和泉守信徳 天保13(1842)年死去 武田兵庫信禄、父は武田和泉守との記述あり。弘化5(1848)年死去 武田兵庫信敬 慶応2(1866)年の史料に記載あり。上記2名との関係は不明ですが、安政2(1855)の史料(この時の名乗りは武田弘之助)に、禄高5318石、屋敷が青山新屋敷とあり、上記2人の禄高、屋敷地と同じなので、武田兵庫信禄の後を継いだ人物と思われます。 寺井主税の生年、事績がわからないので断定はできませんが、仕えた「武田兵庫」は、「武田兵庫信禄」か「武田兵庫信敬」のいずれか、もしくは両者と考えられます。
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- ithi
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access-freeさん、こんにちは。 どうやら河窪信実という武田信玄の遠縁にあたる人のようです。河窪氏は二代経てから武田氏に姓を変えました。 武田兵庫 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%B2%9E 河窪信実 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AA%AA%E4%BF%A1%E5%AE%9F
お礼
回答ありがとうございます。 寺井主税が武田兵庫の家来と有るので、どちらか系統の家来となると思われますが、その方の名前がわからないです。
お礼
とても詳しい回答ありがとうございました。