金に困っている人は、金持ちになる必要がない。
金に困っている人は、金持ちになる必要がない。
さてと、哲学カテゴリーで質問差し上げてます。
お金に困っている人って、現実的ならば出費を抑えるとかの他に、さらに有効なのは今より高度な計画性を獲得るように生活上の努力で自己改変するのが よかったりで金がないことを理由にむやみに他者にすがってはならないものだ。
そう言われても、なかなかうまくいかなくて、それが欲望が原因だとも言われる。
私は自我を核に社会や他者の影響などから、適応のための人格を各自が持つと考えている。
社会的な生命である人は同じ人とつながって人間となる。
そうすると、一番認識しやすいのは、精神に内包する心理学的な形容の客体が他者の意志となる。
欲望というのは、客体が起源である「誰か他者の望み」であって「自己の望み」ではないんだ。
そうすると無欲とは何かと言おうと「望がない事」ではない。
「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。
ところがどちらも人格内に収まっているので、多くの人は望と欲望の判別が出来ない。
その結果、確かな望みとそれに伴う意思決定以外に無駄な買い物をするから金がない。
こういう考え方だと、金がないのは欲望が原因。
または、十分うまくいっているけども、いつも金のことであくせくする。
そうなるのだろう。
そうやって、古い言葉で煩悩と言い、欲望は嫌われたけどの、世界中の習慣を公平に見ると、欲望を否定する社会的風習は少数派の模様だ。
それは、欲望が発生しても、心理学的な客体は、他者との共通項であり人間を成立させる尊い働きでもあるからだ。
実際にに私の思案したところでは、人格を豊かにするためには客体を内包する事を肯定したほうがいい。
弊害が起きないようにするだけだ。
これは客体と欲望の因果関係を考えると、あなたの周囲であなたを理解して密接な関係のある他者も、その心中にあなた自身の客体を宿すという点を見落としてはいけなくて、自分が強欲で、他者をそそのかして欲望を起こさせる人物ならば、その反射であなたも欲望がさらに深くなり、相互に宿る客体は弊害の大きい人間関係となりかねないだろう。
したがって、他者から欲望をもらわないためには、自分も他者に欲望を抱かないことが大切だ。
そういうと、哲学者には面白いヒントだろうけども、出来るわけがないとか考えるかもしれない。
やればできると言いたいところで、その場合に集約するのが「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。
そうするとどうなるかというと、自己の意志行為と言及の誠実さが、結局は周囲に影響を与えるが、それは大抵の場合で良い結果になる。
さて、奇人変人のたまり場である哲学カテゴリーで、自分で命題らしきものを土産物に作成しました。
研究を作に進めるために、なんらかのご回答をお願いします。
変人同士ですので、意味不明の喚き散らしも風物詩として歓迎いたします。