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江戸時代の時間・時刻の表現
- 江戸時代の時間・時刻の表現について
- 「丑三ツ時」以外の時間の表現について
- 江戸時代における時刻表現の特徴
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「辰三ツ時」「卯二ツ時」などとして使用している実例は見つかりませんでした。 「辰三刻」「卯二刻」などとする例ならばあります。 それと江戸では「丑三ツ時」より「八つ時」というほうが一般的でした。
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- fumkum
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正刻で重要なことは、時の鐘の打つ時間が各辰刻の正刻=各辰刻の真ん中であることです。これは、日の出、日暮れ、正午、正子が正刻にあるためではないかと思います。ただ、鳴鐘により生活のリズムが形成され、特に明け六つは、商店・湯屋・芝居小屋の開始であり、木戸が開く時刻となっており、また職人が出勤準備し、おおよそ半刻後の辰の初刻(5ツ)に出勤します。逆に酉の初刻(六ツ)に職人は仕事じまいをし、半刻後の正酉の暮れ六つの鐘で、商店は店じまいをするなどです。 四分割 「一点」・「二点」・「三点」・「四点」と、一辰刻を30分ごとに四分割するものです。「午の一点」などと使います。この言い換えが、「一ツ(時)」「二ツ(時)」「三ツ(時)」「四ツ(時)」ですが、「点」は武家、「ツ」は庶民が使う傾向があります。 同じ四分割でも系統が異なるのが、「一刻」・「二刻」・「三刻」・「四刻」と四分割する方法です。これをさらに10分割し、一刻を「零分(歩)」から「九分(歩)」とします。ですから「一刻」が30分、「一分(歩)」が3分になります。ただし、この四分割法は定時法です。 九?分割法 各辰刻を初刻から始め、一刻、二刻…八刻と分けるものです。「午の初刻」、「午の一刻」などと呼称します。この時間の分割は定時法で、一日を100分割し、それを各辰刻にあてはめたもので、そのため端数が出るため、八刻だけ時間の長さを変えて、初刻~七刻の1/3の長さになります。そのため、初刻~七刻は14,4分間隔。八刻は4,8分となります。 計算は、1日=120分×12辰刻=1440分。1440分÷100分割=14,4分。14,4分÷3=4,8分。 14,4分×8×12辰刻=1382,4分。4,8分×12辰刻=57,6分。1382,4分+57,6分=1440分=1日 十分割法 各辰刻を一点~十点に均等に分ける時間の分割があります。記録によっては点ではなく分とするものもありますが、詳細は不明です。 時刻を十二支を用いて表示する方法で、各辰刻を分割する方法は何種類かあるわけですが、十二支を用いる場合、武家社会中心に用いられ、また定時法でも用いられるという基本的な性格があります。正確な時計がない時代ですので、時間を正確に分割することができませんので、半刻(六十分)、四半刻(三十分)で把握するのがせいぜいで、各辰刻を細分化する場合は、暦に関係し、定時法で用いられる場合が多いことになります。三分割法で、初刻・正刻・下刻の捉え方に混乱があったと書きましたが、これは逆に初刻・正刻・下刻の区分が用いられていたからで、それが実質二分割になったことは、半刻(六十分)単位での時間の把握が一般的であったことの裏返しで、さらに鳴鐘が正刻に撞かれたことも大きいように思います。 二分割法で落としましたが、時数法に一時の中間を「~半」、後半を「~さがり」という呼称があり、十二支、時数に限らず、二分割が実用的であったのではないでしょうか。 蛇足ですが、江戸の時の鐘は、寛永3年(1626)に始められます。それ以前にも江戸城中で行われていますが、江戸の町の発展に伴い、民間でも行われ、江戸の拡大に伴い鐘を撞く場所も増えます。また、江戸以外でも行われるようになり、鐘の数で時刻を表すことが、庶民を中心に広がり、武家社会にも浸透するようになります。 鐘を撞く場合、不定時法で撞くわけですが、この方法が始まったのは江戸時代ではなく、平安時代初期の『延喜式』に記載があり、平安時代には用いられていたと考えられています。また、時数表記は、文明16年(1428)の『御湯殿上日記』に記述があり、その時点まで遡ります。 江戸幕府の辞令について。 江戸幕府での役人の任命については、辞令ではなく、口頭で申し渡す形式が最後まで基本です。 辞令の例として挙げられているものについて、関連すると思われるのは、次の記録であろうと思います。 https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/677064ccb3e132fdecc1c9a71bc095a9 この広瀬寅五郎の「明細短冊」の中の次の部分です。 元治元子年 四月 講武所勤番被仰付候旨田安仮御殿於焼火之間替席若年寄衆出座諏訪因幡守殿被仰渡 同年 五月 講武所勤番組頭勤方見習被仰付候旨井上河内守殿以御書付被仰渡候段沢左近将監申渡 同年 八月(十七日) 箱館奉行支配定役被仰付候旨水野和泉守殿以御書付被仰渡候段赤松左衛門尉申渡候 「元治元子年 四月」については、直接の申し渡しのため、「若年寄衆出座。諏訪因幡守殿仰せ渡さる。」となっています。ところが、五月・八月については、直接の申し渡しが何らかの事情でできなかったために、「~殿、御書付を以って仰せ渡され候段、~申し渡され候」とし、「書付」があり、書付をもとに「申渡」されたことがわかります。この「書付」が、辞令とされたのではないかと思います。また、幕府の任免は、「書付」の有無にかかわらず「申渡」が原則だったことも確認できます。 江戸幕府の人事関係の文書については、知る限りでは二系統(種類)あり、一つが大目付から勘定奉行に至るもので、いま一つが右筆・目付に至る系統です。大目付から勘定奉行に至るものは「分限帳」とされることが多く、右筆・目付に至るものは「親類書」「由緒書」「奉公書」「明細短冊」とされることがあります。これは、分限帳が勘定奉行に関することで、俸禄に関することが主眼であり、右筆・目付は任免に関する監察、チェックに主眼が置かれることによるものだと思います。 「分限帳」 〔明良帯録 後篇〕 大目付 三千石高 芙 老支 懸りは分限方、服忌方、鉄砲改方、-以下略― 勘定奉行の分掌にも分限方があります。 「親類書」「由緒書」「奉公書」「明細短冊」 〔旧経録 礼〕御目付 奥右筆 兼役之次第 一御勘定所見廻 御目付二人 -中略- 一布衣以下御役人 親類書吟味 同 二人 -以下略― 〔旧経録 礼〕奥御右筆掛 一屋舗 初而御目見、家督御礼、一御鷹、養子、一縁組、官位、補任 但高官之分者、組頭取2扱之1、一御仕置、差扣御免、薬種志らべ、一家督、御女中様御取かわし、一隠居、訴状、一御馬、一御勝手御用○中略○御能役者、一参勤御暇、一火事場、一御目見、御番入、一騎射大的、一誓詞、-以下略― この分限帳は、各部署の責任者=所属長が配下の禄高、履歴を書き上げて、大目付に提出したもので、上記の箱館奉行所の広瀬寅五郎の「明細短冊」がもとになっています。明細短冊は各所属にまとめられています。 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/guide/a/bosho00093.htm 年貢町屋・町並地関連 町並地についてはほぼ決着が付き、現在は「町続地」の解明が行われています。江戸で言えば、墨引地は町奉行所の管轄地と言われますが、この墨引地の範囲内にも多くの「村」が存在します。これは墨引地が、町並地の最も遠隔地を結んだ線により構成されていることによります。そのため内部に村が存在することになり、これを「町続地」と言います。この町続地にも町屋が存在し、中には町並地と変わらない様相の村もあります。この町続地にも奉行所の支配の影があり、その状況についても調査・研究が行われている段階です。 大石学監修、東京学芸大学近世史研究会編『江戸周辺の社会史‐「江戸町続」論のこころみ』名著出版刊に現在の成果が記述されていますが、この書籍自体が大部である上に、途中経過ですので、町続地の広くさらなる調査・研究・解明が望まれる段階です。 外にいるので、きちんとした結論にならなく、申し訳ありません。資料はいろいろな以前の回答の時に使った資料をスキャンしたストックが基本ですので、貴兄の質問に合わないものや、追跡調査ができない部分があります。隔靴掻痒ですが、参考程度にお考え下さい。
お礼
詳細なご回答真にありがとうございます。 パソコンを3日間、修理に出しましたのでお礼が遅くなりましたことお詫びします。 私の疑問は二つで、一つは、「丑三ツ時」のように「十二支+□ツ時」の表現(例えば、「辰三ツ時」「卯二ツ時」)は他にありますか、というものです。 「丑三ツ時」以外、ほとんど無いようです。 モノ作りの現場では、30分刻みよりもっと厳しい時間管理を要する作業もあったでしょうが、庶民の日常生活では、30分刻みで物事を進めるようなことは少なかったのでしょう。 二つ目の疑問は、武士、町人に限らず、時鐘の数に“半”を付けて、(例えば八ツ半のように)表していたのが普通ですか、というものです。 これは、質問自体が「普通ですか」という問いかけで、曖昧なものでしたが、一つの結論を得ました。 江戸城中では「時鐘の数」を基に「数時」表示が広く使われていたようです。 幕府天文方は知識も深く、しかも精巧な時計を有していましたから理論上さまざまな時刻表現のモデルを示してきましたが、実際に広く世間で使われたのか、疑問でした。 そこで、幕府組織のトップである、老中部屋の記録である『江戸幕府日記』に目を付けました。 土圭間があって、しかも天文方は老中の下部組織です。 『江戸幕府日記』を見ていきますと、(読む力はありません)この日記には、時刻を表示している箇所は少ないですが、正月の記事では「巳上刻」「辰下刻」「辰后刻」等が頻出します。 儀式自体が定型化されているので、記事もそっけない定型文がほとんどです。 これを見たとき、幕府中枢では「干支」表示の時刻が圧倒的に多いと判断しました。 しかし、この判断は間違いだったようです。 時間・時刻の記事は、上様の場合は「干支」表示、上様以外は、圧倒的に「数時」表示が多く、意識的に書き分けていると思います。 上様の記録で「干支」表示が多いのは、それは前例踏襲による定型文だから、と思います。 ところが、思わぬ事態が発生した場合、例えば、宝永6年巳丑年正月十日の記事では、上様(綱吉)の様子に異変が起こったのですが、このときは「今朝五時前公方様御気分□…」と書いてあります。 多分、日常使っている言葉で記録したと思います。 同年正月22日の記事では、(詳細は読めませんが)明らかに書き分けています。 正月22日 一 今八時大納言様御焼香…為 一 酉上刻御出棺――戌上刻上野御本坊… 正月27日の記事では、諸大名、諸役人へ葬儀の参詣の日割と細々した服装を指示していますが、時間の指定は「数時」表示です。 侍従以上は四ツ時より九ツ時まで、万石以上は六ツ時より五ツ時まで、万石以下3千石以上は四ツ時より九ツ時までのように指定しています。 幕府の重要な儀式でも「数時」表示ということは、江戸城中の日常会話では「数時」だったのでは、と想像しています。 宝永6年以降の日記しか見ていませんが、他の年代の日記も同じ傾向です。 ところで、まとめとしては、ご回答にある「十二支、時数に限らず、二分割が実用的であったのではないでしょうか。」については、確かにそうだと実感しています。 「辞令」や「年貢町屋・町並地関連」についてのご説明には、まだ手を付けておりません。 後日、理解できるようゆっくりと向き合ってみます。 毎回、丁寧なご教示に感謝申し上げます。
- fumkum
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江戸時代の時間の呼称法については各種あり、まずはご存知のように十二支と、鐘の数・鐘数法の二種類があります。さらに十二支法では、一辰刻(とき)を二分割、三分割、四分割、十分割する方法があります。以下、説明の時の一辰刻は二時間=120分で記述します。 二分割 一辰刻を初刻と正刻に分ける方法で、初刻60分、正刻60分。平安時代以来、江戸初期までの約800年間用いられた宣明暦で用いられた。 三分割 上中下刻または、上正下刻とするものです。また、初刻・正刻・下刻とするものもあったとされます。ただし、江戸時代でも捉え方に混乱があり、上刻40分、正(中)刻40分、下刻40分と均等に分ける考え方と、辰刻の真ん中だけが正刻で、上刻(初刻)は前半の60分、下刻が後半の60分として、実質二分割である考え方もあります。 ここで重要なのが、この分割法の一部が現在でも使われている正午、午前、午後のもとになっていることです。午刻(うまのこく‐現在の11時~13時)の正刻を、「正午(しょううま・しょうご)」、または「午の正刻」と言ったことが正午の語源で、正午より前が午前、後ろが午後となります。これと対応するのが「正子(しょうね・しょうし)」、「子の正刻」で、0時(24時)で、ここから時法の上の一日の始まりになります。ただ、午前・午後については、明治6年の定時法の布告の文言が、実質的には最初であるとの説もあります。 続きを回答したいと思いますので、数日の猶予をお願いしたいと存じます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 全く急ぎませんので、時間の合間を見て、ゆっくりと回答を寄せて頂いて結構です。 昨年8月1日「江戸時代。貞享暦。」でfumkum様から詳しい回答を戴いていますので、時間・時刻に関してはある程度の知識は持っています。
補足
後で気づいたのですが、気になることがありますので、この欄を借りて連絡します。 質問の後半「武士、町人に限らず、時鐘の数に“半”を付けて、(例えば八ツ半のように)表していたのが普通ですか。」は、私の早トチリから出た質問でした。 私は、老中、奉行、代官等の任命の様子を知りたくてネットで『江戸幕府日記』を見ていたのですが、そのとき偶々、時刻を記した行事の記事を見つけました。 「今七半時」「今五半時」のように「ツ半時」の表現があったものですから、質問の後半に加えました。 ところが、この『日記』をその後、数多く読んでみますと、「酉后刻」「酉上刻」「戌上刻」等の表現も多数あり、「ツ時」と同様に両方使われていることを知りました。 同日の記事でありながら、「正月3日 今四時…略…今巳后刻」「同日 今七半時…略…酉后刻」の表現もあります。 「武士、町人に限らず、時鐘の数に“半”を付けて…」と書きましたが、いろんな表現があることを知りました。 後半の質問については私の早とちりでした。
>どんな状況で使われていたのですか 『大江戸まるわかり事典』ではありません。 塙保己一編『群書類従』にありました。 例えば、5行目に「寅四刻」、15行目に「午三刻」があります。 https://books.google.co.jp/books?id=2kKfCDV3IlwC&pg=RA3-PA39 とはいっても一般人が使っていたかどうか甚だ疑問があります。 なお、『群書類従』は国会図書館のサイトでも閲覧できます。
- 参考URL:
- http://dl.ndl.go.jp/
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 大変参考になりました。 「源氏物語奥入」は初耳なので調べてみたのですが、私の力では理解困難でした。 仁和2年(886年)12月14日の鷹狩の記事なのですね。 宮中では「寅四刻」のような細かい時間区分ができていたのでしょう。 漏刻もありましたから。 ただ、そこまで細かい時間を記録する理由が今一つ分かりません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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再度の訪問。 お江戸日本橋七つ発ちは:無論、お伊勢参りですね。お江戸の仲間が選出してくれて代表で団体を酌んでいくんですね。 浅草、浅草寺の境内に”暮れ六つ”という風情のある料理屋さんがありました。今は名前を変えていますが、同じような料理屋さんです。 江戸の風情が残っています。太宰が入水した桜上水の近くにも二合半(起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半)というお江戸の場末の風情のお店がありました。木株に腰掛け行灯で竹盃。吉祥寺だったか武蔵境だったか。まぁ上水の縁を歩いていきましたから。暮れ六つと似ているがまぁ素晴らしい。
お礼
「暮れ六つ」とは粋な名ですね。 私は、度々東京本社へ出張しましたが、いつも同じルートで往復しただけでした。 一度だけ、下町の風情を味わいたいと深川の木場で宿をとったことがあります。 大昔の話です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ご参考です。 鐘は上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か 端唄:お江戸日本橋七つ発ち・・・ 下の端唄集のURLは二番目のです。 https://search.yahoo.co.jp/video/search?ei=UTF-8&p=%E3%81%8A%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E4%B8%83%E3%81%A4%E7%AB%8B%E3%81%A1 お江戸の時刻: http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/03/kaisetsu1.html https://www.gimlet.jp/edotime/index.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 端唄「お江戸日本橋」の楽しいサイトの紹介、ありがとうございます。
- okvaio
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以下、参考にして下さい。 http://netwadai.com/blog/post-2017 https://matome.naver.jp/odai/2142167859778229301 「丑三ツ時」は、草木も眠るようですね。 では、「卯の刻」で草木も起きる、のかな?・・・笑
お礼
ご回答ありがとうございます。 「丑三ツ時」についてはよく分かりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「江戸では八ツ時というほうが一般的だった」のですね。 『大江戸まるわかり事典』に出ていますね。ネットでこの箇所は読むことができました。 我が意を得たりの感です。 講談・芝居では語調を整えたり、おどろおどろしい感を強調したりするために、「丑三ツ時」と言ったに違いないと思っていました。 「辰三刻」「卯二刻」の事例があるのですね。 大いに興味があります。 「辰三刻」「卯二刻」のように細かな時間・時刻を指定には、そこまで正確な時刻を知る手段があり、そして時刻を指定する必要性があったはずです。 どんな状況で使われていたのですか、教えていただけませんか。 『大江戸まるわかり事典』に出ているのであれば、図書館で調べてみます。