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お花見の花は、なぜ梅から桜になったのですか?
お花見の歴史を遡っていくと、桜ではなくはじめは梅だったみたいですね。 なぜ、梅から桜になったのでしょうか?
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これまでの回答にないことを思いつくままに…。参考になれば幸いです。まず、歴史的な流れとして、「大昔は花見といえば梅(だけ)だったが、ある時期から以降、花見は桜(だけ)になってしまった」というものではなさそうです。 例えば奈良時代に作られた万葉集巻5には天平二年正月十三日(西暦758年2月25日)に大宰府の大伴旅人の邸宅で観梅の宴が開かれた際の歌32首が収められています。邸宅で梅を愛でる酒宴を開いたことが分かりますが、これはまさに古代の「梅の花見」でしょう。毎年(としのは)に春の来らば斯くしこそ梅を挿頭(かざ)して楽しく飲まめ(833大令史野氏宿奈麿) この半世紀あまりのち、平安時代初めの弘仁三年二月十二日(西暦812年3月28日)には「嵯峨天皇が神泉苑に行幸し花樹を見、文人たちに詩を賦させた」(「幸神泉苑。覧花樹。命文人賦詩。賜綿有差。花宴之節始於此矣。」)と「日本後紀」にあり、時期から「桜の花見」だと考えられます。梅・桜どちらの花見も非常に古くから行われていたことが分かります。 ところで「梅」の名所といえば水戸の偕楽園が有名ですが、昭和40年代まで梅の木の下にござを敷いて弁当を食べたり酒を飲んだりする「梅の花見」が行われていたそうです。(現在は梅の樹を保護するためにそのようなことはできませんが)「梅の花見」も健在です。ただし21世紀の現在では「花見」と言えば「桜」(それもほとんどソメイヨシノ)ということになっているのも事実です。 この理由を歴史的に振り返りますと、「花見」をひとまず置いて、「和歌に詠まれた花」で言えば、よく知られているように奈良時代の「万葉集」では梅>桜だった和歌の数が、平安時代初めの古今和歌集では桜>梅と逆転しています。のちには「花」といっただけで「桜」を意味するようになりました。 ここで万葉集の「梅」(119首)と「桜」(44首)の歌を詳しく見ると、数の多寡だけでなく梅の歌には「妹が家」「わが宿」「わが園」などの言葉を伴う歌が比較的多いのに対し、桜の歌には少ない(4首しかない)という違いがあることがわかります。これは両者の由来の違いを考えれば理由は明らかで、弥生時代以降に大陸から伝わったと見られる梅は栽培品種であったのに対し、万葉集の時代の桜はヤマザクラで山野に自生するものが主だったからです。もちろん邸宅の庭に桜を植えて楽しむことはあったでしょうけれど、奈良時代には江戸時代のように植木屋という商売があったとは思えないので、近くの山などから持ってくる必要があったと考えられます。 「梅」が舶来の花として珍重されたのに対し、「桜」は山野に自生していただけにかえってありがたく思われず、梅ほどには採りあげられなかったということでしょう。これが古今集になると逆転するのは、梅が外来の植物であるという意識が次第に薄れ、花本来の美しさが評価されるようになったからではないかと回答者は考えます。 とはいうものの、厳しい寒さの中で花を咲かせる梅は実がなるという利点もあるため果実用の品種も・観賞用の品種も栽培が盛んに行われ、日本の絵画や文芸の題材であり続けましたし、観梅の行事も盛んでした。各地にある「梅が丘」や「梅屋敷」などの地名や駅名はこのことを示しています。 回答者は現代の日本で「花見といえば桜」という意識になっている最大の要因は、江戸時代の終わりに作られたソメイヨシノが、明治以降広く全国に植えられたことにあるのではないかと考えます。現在のような「屋外の満開の花樹の下で飲食をする」形式の花見は江戸時代には広く行われていたようで、「飲まぬやつ 弁当食うと 花にあき」という有名な川柳がありますが、ソメイヨシノの、花付きがよい、木が大きく早く育つ、一斉に開花するなどの性質はこの花見のためには理想的です。 これ以前の時代では、たとえばヤマザクラはソメイヨシノほどには一斉に咲いて一斉に散るものではなく、また開花期が異なる品種が混植されている場合はさらに花の密集度が低くなるため、遠くから眺めることには適していますが、樹の下での花見にはいささか寂しいでしょう。 季節の行事で長続きしているものは日が決まっているものがほとんどです。ソメイヨシノの花見は観梅に比べれば可能な時期が限定され、また近い場所では時期も近くなります。気象台で観測しているソメイヨシノの開花日は東京と横浜では同じ日か違っても2,3日ですが、ウメは今年は7日、去年は18日も違いました。年ごとのばらつきも桜と比べて大です。こうしたことも「花見といえば桜」となった要因の一つかもしれません。
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- chiha2525_
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日本では、はじめから桜です。梅は中国です。 当時の先進国である中国を真似て梅を春の花として見ようなどというのは平安期の初めころに少しあって、菅原道真なんかは中国かぶれで梅梅言ってたようなやつだったのですが、気候的にも日本には合わなかったようで、他の人たちはやっぱ桜だよなって事になりました(たぶんw)。
お礼
外国文化が好きなのも、昔からなんですねー。 回答ありがとうございました。
- kitsunetoneko
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『万葉集』によると,桜に関する歌も,けっこう詠まれているようですし,ツツジなどの,初夏に咲く花の歌も,あるようですので,日本人は,古来より,梅,桜,ツツジ,卯の花 など,様々な花を,愛でていたようです..『万葉集』には,梅の花が咲き終わった後には,桜の花が咲くのが楽しめるみたいな歌もあるようで,古代の日本では,桜の木は,稲の神様;サが,サクラの読みの頭につくように,稲作文化のある日本では,正に,御神木のような神聖な木で,古代の日本では,年季の入った桜の木の皮を用いて,焼いて?,鹿の角(骨)での占いなどをしていたとか‥‥特に,山村地域の農業従事者などは,桜の咲いた木の下に,神様が宿るとして,酒盃や団子などを,まず備えてから,その供え物を,食したりしていたとかで,そういった,本来,神事的な習慣などが,発展して,日本人の花見の習慣などになって行ったようですね‥梅の花も,平安時代には,太宰府に左遷された菅原道真氏が,京の都を去るときに,自宅などに植わっている,梅の木を名残惜しんで,東風吹かば ‥‥‥ 主な忘れそと,歌を歌っているように,菅原道真氏は,梅が,好きだったそうですが,春の訪れ=梅という印象もありますし,鎌倉幕府第三代将軍の源実朝氏も,鶴岡八幡宮に参詣する前などに,自分が,暗殺されることを予見していたのか,自宅の梅の木に,春を忘れるなと言って,出掛けたとかで,梅の木や,花に対する愛情も,日本人には,多いようにも思いますが,平安時代の中・後期などの和歌には・桜の花に関する歌が,圧倒的なようで,百人一首の伊勢大輔の歌にも,古の 奈良の都の八重桜 今日 九重に 匂いぬるかな などとあるように,平安貴族達には,桜が,人気だったようですね‥桜の花の刹那的な感じが,日本人の繊細な心情などに,合っているのかもしれませんし,桜やツツジの花は,乙女や,処女性などの,清らかさの象徴などでもあったようです..江戸時代に入って,桜を含めて,植物の品種開発や品種改良などが進み,ソメイヨシノなどの桜が人気になり,現在の日本の花見の,メインの桜などになっているようですが,昔の万葉集時代の桜は,奈良の吉野の山桜などだったようです..太平洋戦争中は,『桜花』という,訳のわからない特攻兵器なども作られ,ほとんど,アメリカ軍との戦では,役に立たなかったようですが‥少し Web上で調べたことなどから,回答しました m(__)m 。
お礼
梅や桜に限らず、花を愛でる文化は大事にしたいですね。 その中で桜が格別なのは、もう国民性認定してもいいかもしれません。 回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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梅は貴族など 上流階級の花 桜は庶民など 中流・下級階級の花 江戸時代までは武士の世だったので花見は梅 明治維新で庶民の時代になったので必然的にお花見も桜になったのです 今でも皇族や華族は梅でお花見をします
お礼
梅のそばで、確かにどんちゃん騒いでいるイメージはないですね。桜は庶民の花なんですねー。 回答ありがとうございました。
- tak7171
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桜は日本に自生していますが、梅は自生しておらず中国から輸入されました。平安以前に梅がもてはやされたのは、花の美しさや実の薬効等もありましたが、当時最先端だった中国伝来の貴重なものだったためでしょうね。だからこそ上流階級に尊ばれたし、その花を眺めて楽しんだのだと思います。因みにその頃でも桜を愛でる風はあり、記紀や万葉集に記述が残されています。さて、その後平安時代になり、遣唐使が廃止されて国風文化が興隆するのとほぼ時期を同じくして桜がクローズアップされてきます。自国の文化が確立されてくると、自国にある桜を貴ぶようになるのは自然なことでしょうね。また、人の手によって植樹されなければ増えにくい梅にくらべ、桜は全国に自生していましたし、梅に比べて樹も花も大きく、突然変異によって奈良八重のような品種が生まれやすいのも喜ばれた一因だったことでしょう。更に平安以降に流行した諸行無常の思想を、パッと咲いてパッと散る桜になぞらえて詩歌に託す風もありました。以上のことから、貴族をはじめとする上流階級に桜が強く根付くことになったかと思います。 因みに徳川吉宗の時代になるまで、今で言う花見は庶民には許されていませんでした。秀吉による醍醐の花見は特異な例です。江戸時代も吉宗以前は江戸城内や墨堤に、大和の吉野や常陸の桜川から桜を取り寄せて植えていましたが、そこでの花見は庶民には許されていません。吉宗は飛鳥山・御殿山・玉川上水等に吉野や桜川から桜を取り寄せて植え、桜の名所として庶民に花見を許しましたが、享保の改革で贅沢を戒め罰したことで庶民に不満が溜まったため、それを発散させる意味もあったという説もあります。
お礼
桜の花の咲き方というか、そういうのも好みにあっていたんでしょうね。上流階級のものから庶民へ広まっていくのも仕方がないくらい、なのかも。 回答ありがとうございました。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11082/34531)
庶民が花見を楽しむようになったのは、江戸時代からです。上野の寛永寺が桜の名所として人気になり、あまりに人が集まりすぎるということで、今の飛鳥山公園の場所に桜が植えられて一般公開されました。吉宗の頃の話です。 それから江戸庶民の間で「春は花見」というのが定番になったのですが、当時の江戸っていうのは今の東京と同じで文化の発信地でもあったのです。地方から江戸に単身赴任してきた地方藩の武士ってのが江戸には大勢いましたので、彼らが帰国すると「江戸じゃあこんなのが流行ってね・・・」なんて話したのです。 しかし日本全国に桜が普及するのは、戦後になってからです。戦争で日本中は焼野原になったのですが、その復興のシンボルとして人気になったのがソメイヨシノだったのです。 それで、日本中いたるところにソメイヨシノが植えられました。現代の異常なまでのソメイヨシノ人気は戦後になってからです。
お礼
文化の広まりというのは、順を追うと楽しいですね。でも、良いから広まるんですよね。 回答ありがとうございました。
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
お花見の習慣の源流は二つあったとされています。 一つは朝廷を中心とした貴族(公家)層のものと、もう一つは庶民と言いますか農民の年中行事です。 これが武士層の発達とともに一つとなりました。 大規模なものとして有名なのが秀吉が開催した醍醐の花見です。 公家・農民を問わず都市住民にも広がって現代のようになったのは江戸時代です。 梅は縄文時代には痕跡がなく弥生時代以降に認められています。 この点から稲作文化と同時に中国大陸から渡来したものと考えられています。 桜の原種も中国にありますが、中国人が梅を主体としたのはおそらく中国人特有の実利主義が影響しているのでしょう。 梅の実はそのまま食料とされるだけではなく保存食(梅干し)にも利用できます。 桜の実であるサクランボも食用にはなりますが保存食には不向きです。 しかも原種のサクランボは現在の半分ほどの大きさで梅に比べると果肉の少ないものでした。 同じ身近に植えるのであれば文字通り花も実もある梅ということになったのでしょう。 同じように春に花が咲き実も収穫できるものに桃があります。 桃も桃源郷という言葉がありますように中国では豊穣を象徴するものとされていました。 中国ではさくらはどうも分が悪いようです。 貴族(公家)層でお花見に桜が用いられるようになったのは平安時代です。 それ以前の奈良時代には中国文化が主流でした。 この影響で梅が珍重されていたとされています。 京都御所の左近の桜も当初は梅でした。 嵯峨天皇が桜を好んだのが公家層に桜が広まった始めとされています。 嵯峨天皇は平安時代の公家文化の基礎を作った人とされています。 お花見も公家の年中行事の一つとして定着しました。 桜の開花時期は冬が終わり農耕が開始される次期と一致しています。 梅の開花時期はまだ寒さが続いています。 五穀豊穣を司る神を春に里へ招くという神事が古くからありました。 「さくら」も耕作や神霊を意味する「さ」と神の座を意味する「くら」からきたと言われています。 このこともありさくらはこの五穀豊穣を司る神の依り代とされて耕作地の周辺に植えられました。 厳しい農耕が始まる前のひと時を神事の意味も兼ねて咲いた桜の下で飲食するようになりました。 神様とともに食事をするというのはお正月のお節料理にもこの意味があります。 天皇が即位した際の大嘗祭でも天皇が神と食事をする儀式があります。 以上の二つの習慣がお花見の源流ですが、なぜ日本人は桜が好きで花見を続けるのかということになりすと良く分かりません。 好きなものは好きだ、という程度です。
お礼
文化は紐解くと、色々と面白いですね。花は変わっても、愛でる気持ちは同じというところが、人間の面白いところですね。 回答ありがとうございました。
- oteramairisuki
- ベストアンサー率34% (511/1475)
https://www.hanamonogatari.com/blog/1201/ ここに詳しく書いてます。 もともと花といえば梅だったわけですが、それが桜に変わったのは平安時代だそうです。 花見の始まりは奈良時代からで当時は梅の花見でした。桜はあまりにも神聖すぎたそうです。観るのではなく、祀る対象だったそうです。 梅は遣隋使遣唐使で中国から渡ってきて、それが根付いて花=梅となりました。 が、894年に菅原道真が遣唐使を廃止してからは、もともと日本に土着していた桜を愛でるようになったそうです。 詳しくはサイトを御覧ください。
お礼
神様の宿る木の根元では、お花見は恐れ多いですよね。少しは今の人も慎まないと。 回答ありがとうございました。
- wam_f756
- ベストアンサー率8% (114/1333)
梅は まだ 寒いもん。
お礼
寒い中でのお花見は、確かに辛いですよね。 回答ありがとうございました。
お礼
文化や生活に関係して、花見が続いてきたんだなと思うと、お花見文化が続いていて良かったなと思います。 この時期じゃないと!という緊迫感(?)も確かに桜にはありますね。 回答ありがとうございました。