• 締切済み

春画や遊女について

春画と遊女の歴史についての本を読んでいると気になる内容の春画があったのですが、その本は春画の内容についてはあまり触れておらず、検索してもよく分かりませんでした。 ご存知の方がおりましたら、ご回答をお願いします。 ・男一人:女複数の春画。 ハーレム(総揚げ)の春画なのですが、よく太夫様や天神さんのような高妓は馴染み客になれないと遊べない(正確な事はよく分からないらしいですが)とか、お客は馴染みになった遊女ができると他の遊女への浮気は御法度だと言われていますが、高妓の総揚げだと、馴染みの遊女以外は初会になりますが、お金を積めば、太夫総揚げなどの派手な遊び方もできたのでしょうか? ・男複数:女一人の春画。 遊女が一晩に何部屋も回るのではなく、一度に複数の男性の相手をしている(輪姦?)春画(画像の春画はどんな場面なのか参照が書いていないので、遊廓なのかは分かりませんが)。 総揚げなら、お客が遊女×人数分の揚代も払えるだけの財力があれば出来そうな想像ができますが、遊女一人に男性複数の場合だと、男性は折半したりで一人当たりの揚代が安くすみそうですが、それでは女郎屋は儲からないのでは?と思いました。 端女郎や夜鷹といった位の低い遊女さんはそういった事もあったのでしょうか? 高妓はなさそうな気もしますが、高妓でもあるのでしょうか? ・お客の付き添い お客の中には付き添い(用心棒、弟子、店の若衆?、息子?など)を連れてくる方もいるそうですが、主人が遊女と床入りしている最中はお付きの方はどうしているのでしょうか? 先に帰宅して、また翌朝に迎えに?それとも、別部屋で待機?まさか、同室で待機?

この投稿のマルチメディアは削除されているためご覧いただけません。

みんなの回答

回答No.1

>男一人:女複数の春画 どのような絵なのか分かりませんが春画の舞台が妓楼とは限りません。 江戸や京都にかぎらず私娼は全国にいました。 江戸や大阪などには出会い茶屋という現代でいうラブホテルがいくらでもありました。 宿場町の旅籠には飯盛り女という私娼がいました。 妾奉公という言葉がありますように、収入が安定してくると別宅を所有したり借りてお妾さんを雇うということはよくありました。 絵によっては、私娼の居る遊女屋や旅籠、妾宅、出会い茶屋ということもあり得ます。 一つの画面に複数の女性が描かれているものは沢山あります。 有名な物語や寓話の光景を春画としてパロディー化したものもあります。 鈴木春信などがよく描いています。 総揚げというのは、妓楼全体を借り上げて他の客を入れさせないということですので、別段複数の女性を相手にする必要はありません。相手は馴染みの花魁だけでも差支えはありません。 妓楼の全員の飲食代を負担した上で通常の売り上げも全額負担しますので相当な額だったでしょう。 有名なのが紀伊国屋文左衛門の吉原総揚げです。 吉原の街全部を借り上げました。一日千両の金が落ちるといわれていた街です。 遊女だけで三千人前後いましたので千両ではきかなかったでしょう。 男複数:女一人の春画。 吉原や島原などの公娼の妓楼ではさすがに難しいでしょう。 この手のことは現代でも合コンなどでやって警察沙汰になってお灸をすえられる事件は毎年のように起きています。 昔も今も変わりはありません。 「男性は折半したりで一人当たりの揚代が安くすみそうですが」こういう銭勘定でやっているわけではありません。 >端女郎や夜鷹といった位の低い遊女さんはそういった事もあったのでしょうか? 合意の上であれば無かったとは言い切れないでしょう。 私娼の客引きは身の安全を確保する意味で複数でいるのが普通です。 必ずヤクザ者などが背後にいますから強要すれば袋叩きになるでしょう。 >お客の中には付き添い(用心棒、弟子、店の若衆?、息子?など)を連れてくる方もいるそうですが、主人が遊女と床入りしている最中はお付きの方はどうしているのでしょうか? 吉原でお付きというのはこの手の人間のことではありません。 オレが勘定を持つから付き合えと言われて付いてくる連中です。 さそわれた方も、今日はお付きだから安い新造でいいよ、などということになります。ボサと待っている訳ではありません。 「店の若衆?、息子?」・・・こんな者を連れていたら後でひと騒動起きます。 女郎買いというのはなんであれ女性の顰蹙を買います。 自分のおかみさんに知れたら修羅場を覚悟する必要があります。 「用心棒、弟子」・・・揚げ代も持たない主人ではみすかされてしまいます。 伊達騒動など大名が見受けをした話が沢山伝わっていますが、いかにお忍びとは言え警護の武士が付いていたでしょうから、殿様に万一のことがあれば切腹ということになりますので別室で待機していた可能性はあります。 大門の中は身分が無い完全平等な世界とされていました。 刀は大門で預けて入ることになっていました。 身分を象徴する大名籠からも降ろされました。 結果として脇差だけでの警護ということになっていたでしょう。 蛇足 春画というものは興味本位のもだけではなく、婚礼の際に花嫁への贈り物として使われていました。 上流の武家や豪商では娘の躾が厳しかったことと、花嫁が若いというか幼かったことから性教育の教本の意味がありました。 贈り物ですので、著名な絵師に描かせ装丁も立派なものでした。 結果として芸術性が高く現在も沢山残されています。 著名な絵師がほぼ全員春画を描いていたのはこのためです。 吉原の遊女の平均寿命は22才でした。平均年齢ではありません。死亡年齢です。 病気になっても商品にならないということで布団部屋へ放り込まれていました。 遊女として売られると人別張から削除されました。 この世には居ないこととされました。 死ねば、引き取り手も埋葬するお寺もありませんでした。 遺体は付近のお寺に掘られた穴へ生ごみのように捨てられました。 投げ込み寺と呼ばれていました。全国の遊郭の近くに必ずありました。 吉原の投げ込み寺は、浄閑寺というお寺で現在もあります。 遊女の最後を憐れんだ住職が名前と年齢を記録して供養していました。 この記録から22才という寿命がわりだされました。 生きるも地獄死んでも地獄の世界でした。

関連するQ&A