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ペリー来航と日本の鎖国政策

現代史の観点で。 日本は、世界史の帝国主義の 被害者という史観はありえますか? つまり独自路線で身の丈サイズ、分相応の 国体制に成りえたという。

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

>日本は、世界史の帝国主義の被害者という史観はありえますか? 日本を中心に考えれば被害者という史観は難しいでしょう。 帝国主義に後から参加した、と考えるほうが自然でしょう。 追いつき追い越せとセッセとやって結局上手く行かずに負けたということです。 参加していますから被害者と言う訳にはいかないでしょう。 >独自路線で身の丈サイズ、分相応の国体制に成りえたという。 身の丈、分相応というのをどの辺におくのかということで変わってきます。 現在でも世界第三位の経済大国だ、とか言われていますが、これが身の丈に合っているのか分相応なのか、という問題と同じです。 明治維新以降追いつき追い越せでセッセと努力してどんどん追ついて、抜きつ抜かれつを繰り広げていましたから、この競争に参加するなど分不相応だ、と考えれば、余計なことはしないで他の形の国造りをしていれば良かった、という考えも成り立ちます。 蛇足 冒頭の現代史の観点というのが非常に曲者です。 敗戦直後にGHQが徹底的に日本ごときが欧米に挑戦したのは間違いだった、という教育しましたので、その影響が未だに残っていることは間違いがありません。 更に厄介なのが、1950年に起きた朝鮮戦争以降は、当時のソビエト連邦が社会主義思想を浸透させるべく、色々な施策を施していました。 この影響も未だに残っています。 過去の70年間の日本人の現代史の歴史観というのがどのように変わってきていて、現在もそれがどのような形で残っているのか、正確に理解する必要があります。 1950年代後半から1970年代にかけて、学生が国会に乱入して死者が出たり、反戦運動が激しく繰り広げられたりしていたことを御存知でしょうか。 大学が学生の手で破壊されたり封鎖された時代があることを御存知でしょうか。 ロシア民謡が学生の間で爆発的に流行していたことを御存知でしょうか。 一方で任侠映画が爆発的に流行していました。 世界第二の経済大国に上り詰め、金融会社へ入社した娘の初ボーナスがメーカー勤めの親父のボーナスより多かったという時代があったことは御存知ですか。 円が1弗80円以上の円高になったのは二度目のことだったということを御存知ですか。 これ等のあらゆることが現代の歴史観に色濃く残っています。 ご自身の歴史観がこれらの事柄のどの部分が影響していると思われるか一度考えてみて下さい。 尚、日本は中国の清王朝や朝鮮の李王朝のように鎖国はしていませんでした。 江戸幕府が交易権を独占していただけです。 ヨーロッパの政情も正確に把握していました。 今一度日本史をお調べ願います

fujisaway65
質問者

お礼

棄民された アメリカの理想は、明らかに 優性品の貿易世界です。ゆえに 現在、中国の台頭も許容します。日本も そうでした。イスラム圏との戦争は、明らかに 悪性との戦いで、文明化に伴う犠牲です。 害虫、益虫、虫けら、家来。茶毒蛾性皮膚炎? シーズンサヨナラ からの Lady Navigation。

その他の回答 (3)

  • eroero4649
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回答No.4

歴史観というのは、歴史を知ったうえでその人なりに咀嚼して解釈したものになりますから、質問者さんが調べて考察したうえでそういった結論に至ったなら誰に遠慮する必要もないのですよ。

fujisaway65
質問者

お礼

そうですね。 私の世界史と日本史は、 現在の姿と異なりますので、 私は人類とそぐわずに在りました。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.3

鎖国に至る歴史をみると、バテレンによる帝国主義からの国土防衛の意味があった。しかし秀吉が最初にバテレン(宣教師)禁止令を出したのは朝鮮征伐にバテレンが協力しなかったことが原因です。バテレンは禁止しても外国貿易は禁止していません。 江戸幕府になり、家康も表向きはバテレン禁止であるが、交易利益のためにバテレンを認めて、江戸に教会をつくることを許可している。また鎖国の目的は幕府が出島で貿易を独占することにあった。日本は統一国家ではなく、各大名が各地を支配し、その大名の中で一番大きい徳川家が軍事的に日本を支配していた。 開国で自由貿易になると各藩が勝手に貿易しても良いことになり、日本の金銀が外国に流出することになる。幕末に幕府が開国を拒んだ一番の理由です。各藩は攘夷を唱えるが、本当は開国が各藩にも貿易が出来て得なのです。薩摩藩はイギリスと交易して武器を輸入して倒幕に使ったのです。長州藩はその武器を米と交換したのです。それが薩長同盟です。 開国や鎖国はあまり重要なことではない。通商や攘夷も同様です。当時の知識人は鎖国は無理で開国が必要と考え、攘夷も不可能で通商しかないことは分っていたのです。次の体制をどうするのかが課題であったのです。幕府を強くして統一国家をつくるのか、幕府を倒し天皇中心の中央集権国家をつくるのかであったのです。 幕府を作りかえる統一国家では強い中央集権国家は作れないので、身の丈サイズの国家になっていたかもしれない。

fujisaway65
質問者

お礼

橋下徹っぽいですね。 原発誘致とか。経済特区とか。 香港化して、長期的な視野で、狙うは 中国に売国奴っすか? 獅子身中

  • hekiyu
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回答No.1

”ペリー来航と日本の鎖国政策 ”    ↑ 鎖国というのは正確ではありませんが、 これは列強の侵略を防ぐためでしたから 被害者といえるのではないですか。 ”現代史の観点で。 日本は、世界史の帝国主義の 被害者という史観はありえますか?” ↑ あり得ると思います。 高杉晋作などが中国に出掛け、そこで中国人が 欧米列強に奴隷のように扱われているのを 目にして、このままでは日本も危ないと 悟りました。 それが明治維新につながり、その後の日清日露戦争 さらには大東亜戦争に繋がったわけです。 幕末から明治へと、日本は何としても植民地にされまい、 とする歴史でした。 ”つまり独自路線で身の丈サイズ、分相応の 国体制に成りえたという。”    ↑ 意味がよく解りませんが、江戸時代が続いた、 その方が良かった、ということでしょうか。 ある英国人の手記があります。 こんなに素晴らしい国を、開国させる必要が あるのだろうか。

fujisaway65
質問者

お礼

戦死した徴兵の代わりに、 餓死自決した若者等が居たとします。 モハメド・アリの徴兵忌避「戦う理由がない」と 同じく。戦うなら、戦うべき相手は、自国の権力者だと 分かった上で、内戦も好まず。 匹で数えれば、一億でも高々。明治ブルガリア戦記。