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終戦記念日の雑感

日本がやむを得ず開戦を決意しなければならなかったのは、 アメリカの、執拗かつ強引な経済制裁が誘因だったのでしょうか?

みんなの回答

  • ycan
  • ベストアンサー率22% (39/174)
回答No.10

基本的な要因は、中国市場の奪い合いでしょう。 日本は第一次世界大戦時の、21箇条要求から中国へのあからさまな進出を図っていました。もともと中国には欧米の租界や勢力圏があるので、その版図を変更する日本の行動は、欧米からすれば、「許すべからざる暴挙」であったと思います。 特に満州事変からの行動は武力をを伴うものであり、その勢いは中国のみならず東南アジアにも迫っていきました。こうした「現状変更」は体制を維持したい欧米からは、武力で鎮圧する相手となったと思います。 本当に「現状変更」をしたければ、中国に進出することではなく、欧米とアジア解放に関する対応をするべきだったと思います。

noname#225432
noname#225432
回答No.9

北朝鮮も同じような事を言っていますね。

  • pringlez
  • ベストアンサー率36% (598/1630)
回答No.8

アメリカは戦争したかった。しかし武力攻撃を受けているわけでもないのに開戦すれば世論の支持は得られない。だから日本に先に手を出してほしくて嫌がらせをしていた。 ここまでは事実でしょう。 しかし「開戦するしかなかった」ということはありません。無視していればよかったのです。それが無視できなかったのは日本が未熟だったからと言えると思います。 国内では「圧倒的な国力のアメリカには勝てないので開戦すべきではない」という現実的な勢力と、「国力の差など気合で埋められる」という精神力重視の勢力があり対立していました。海軍と陸軍です。 しかししだいに精神力重視の過激派陸軍がいら立ちを募らせ強硬に開戦を迫り、このままでは開戦反対派を殺害する陸軍によるテロが発生しかねなかったため、開戦に向かっていった、という流れがあります。 国力の差を計算できず、気合で勝てると本気で思っていた陸軍のうぬぼれが、多くの犠牲を出した最も大きな原因と言えると思います。 日本全体がアメリカに勝てると思っていたわけではないのです。きちんと国際情勢を見極め、勝利が難しいことをわかっていた軍人もいたということを覚えておいてほしいです。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。 GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、国民の1/4が 失業し、あちこちで暴動が発生していました。 ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は はっきりしません。 それでどうしても戦争をやる必要があったのです。 戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国 経済は見事な復活を遂げています。 これは私の偏見ではありません。 米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は 公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ 過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分 にされてしまいました。 31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に 引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。 彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。 マッカーサーは戦後、あの戦争は日本の自衛戦争であったと 米国議会で証言しています。 ハルノートのハルは、真珠湾攻撃を耳にして躍り上がって 喜んだ、という側近の証言が残っています。 「これで戦争ができる」 また、パル判事は、あのような要求を突きつけられたら モナコのような小国でも銃を持って立ち上がっただろう と述べています。 ●では、日本が米国に屈してハルノートを受け入れれば、戦争を避けられた でしょうか。 私はそうは思いません。イラク戦争を見て下さい。 ありもしない大量破壊兵器を口実に戦争を始めたのは 米国です。 その後、英国BBCは、911以前から米国はイラク、 アフガン戦争を計画していたことを暴露しました。 米国は何か罠を仕掛けて、戦争に持って行ったと思います。 1898年 2/15 ハバナ湾で、米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しました。 これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、 ということになり、あの米西戦争が始まっています。 後になって米国政府は、事故だと発表していますが 陰謀ではないか、という説が強いです。 ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。 1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の 哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した とされる事件です。 これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、 その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し 真実が明らかにされました。 湾岸戦争 1990年 では アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが イラクのクエート攻撃に対して 「介入するつもりはない」と発言しており これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、 米国軍等により撃退されています。 米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には 一切姿を見せなくなりました。 その他にも怪しいのはいくらでもあります。 以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.6

freedom12 さん、こんばんは。 そればかりではありません。1937年に日本は中華民国と戦争を始めました。最初か破竹の勢いでしたが、中華民国政府が奥地の重慶と言ところに本拠を置くと、たちまち、膠着化しました。また、フランスがドイツに占領されたのを機に仏印進駐を始めます。アメリカのフィリピン、イギリスのマレー半島とシンガポール、オランダのインドシナとは目と鼻の先です。こんな好戦的な国家に油や鉄を供給することは植民地を占領されかねないと、アメリカは考えたのでしょう。そこで対日貿易制裁として石油や鉄を売らなくなったのと同時にハルノートを突き付けたのでしょう。

回答No.5

欧米は次の植民地ターゲットを日本に定めた で 日本に「君たちも大人しく私たちの奴隷になりなさい」と迫った 当然日本はブチギレ  「白人のくせにえらそーにしてんじゃねーよ」って言って日本は立ち上がった

回答No.4

そのアメリカのちょっかいの口実を与えたのは、日本が中国に進出したことでした。 いま、中国が南沙でやってるのにアメリカが対抗しているのと似ているかと。 権益の取り合いをしていたのですから、報復が無いのも変な話かと。

  • OsatKaso
  • ベストアンサー率24% (43/178)
回答No.3

貴方の言うことは真っ当な考え方です。 ABCD包囲陣やハルノート。これらは明らかに日本を執拗に締め上げる政策です。 では、アメリカはなぜこんなことをしたのか? 「パールハーバーはルーズベルトの罠だった」 日本人はこんなことを知っていませんが、アメリカの専門家でも定説に近いのです。 なぜ罠をしかけたか?これは次のことです。 当時、ヨーロッパではナチスドイツの勢力が盛んで、西側諸国が壊滅になる、という状態でした。ルーズベルトとしては、ナチスドイツの天下になることは許せないので、ヨーロッパの戦争に参加したかったのですが、中立法なんて法律ができて、戦争に介入できませんでした。そこで外交音痴の日本を仕掛けて、窮鼠猫を噛む方法をしたのです。 ABCD包囲陣やハルノートで散々に締め上げたのは、こういうことなのです。 実は、ハルノートなんかは、東京裁判ですら、 「あんなことをされたら、モナコかルクセンブルクでも戦争を仕掛けてくる」 と批判されたくらいです。 「太平洋戦争は日本にとって自衛のための戦争であった」 マッカーサーがアメリカに帰った後、上院で演説した言葉です。 敵の大将ですらこんなことを言っているのです。 このことを考えるならば、太平洋戦争に対する見方が変わってくると思います。 戦後教育は、「日本が悪いことばかりした」となっているようですが、果たしてこれでいいのでしょうか?

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.2

そうですね。ABCD包囲網が非常に効いたといえると思います。 まず日本にほとんど開戦以外の選択肢をなくさせたのは、1940年9月の対日屑鉄輸出の全面禁止だったでしょうね。今ちょっと手元に資料がないのですが、1930年代に日本は鉄鋼の生産量を飛躍的に増大させました。それは国策として行われたのです。戦前の日本の主な産業は繊維業でした。しかし第一次世界大戦の終結と世界恐慌で繊維が全く売れなくなった。その一方でソ連が重工業国として力をつけてきて、日本軍とソ連軍の差がどんどんついていったのですね。その極め付けがノモンハン事件で、日本軍はソ連軍に大砲の性能でも、戦車の性能でも、トラックの数もお話にならないほど差がついたのです。 とにかく世界の軍事力が「鉄鋼」がモノをいう時代になっていたので、日本も軽工業国では国防が保てないということで重工業国になるべく、国策として鉄鋼生産量を増やそうとしたのです。しかし、日本にはその生産された鉄鋼を必要とする産業も市場もなかったのです。身近な鉄鋼を多く使う工業製品といえば自動車で、アメリカは世界一のモータリゼーションの国でしたが、イギリスもフランスもドイツも、ソ連までもが自動車の生産と普及に力を入れていたのですが、当時の日本人には車なんて目が飛び出るほどの高級品で、とても買えるものではなかったのです(ソ連は大規模農業で農業トラクターなどの需要がありました。日本は田畑が小さくて人間の数が多かったからトラクター使うより人海戦術で田植えをしたほうが安上がりでした)。だから、その鉄鋼で軍艦や戦車を作るというマッチポンプをしたのです。 鉄鋼を生産するためには、屑鉄が必要です。特に質のいい屑鉄です。ビルに使う鉄筋とか、橋げたに使ったやつとかです。しかし鉄橋もビルも少ない日本では、そういう屑鉄が出ない。だから屑鉄はアメリカからの輸入に頼るしかなかったのです。その輸入依存率は、100%。だからアメリカから屑鉄が入ってこないと「もう質のいい鉄が生産できない」ということになるのです。戦争中、日本軍の戦車や航空機の特にエンジンの信頼性が低かったのはそういう事情があったのです。 そして翌年の7月と8月に起きた在米資産凍結と石油禁輸で完全に詰んだ(他の選択肢はなくなった)といえるでしょうね。 日米戦の開戦までのアメリカの打った手を見ると、2003年のイラク戦争を思い出すのですよ。あのとき米英はイラクが大量破壊兵器があるといってそれを開戦の口実としました。それに対してイラクのフセイン大統領(当時)は「国連の査察を受け入れる」と表明しました。査察を受け入れるとなったのですから、イラク政府としてはこれ以上の妥協はありません。「お前、俺の財布を盗んだだろう?」とイチャモンつけられたから「疑うなら荷物検査も身体検査も好きにやってくれ」というのが一番です。ところが「なにおー!しらばっくれやがって!」といって侵攻に踏み切ったのです。後にCIAからも「そんなもんは存在しないよ」と開戦前に報告されていたことが判明しましたよね。そういうのを見ると、やる気になったアメリカは本当に恐ろしいと思いますよね。

  • gib45
  • ベストアンサー率26% (160/593)
回答No.1

当時の国際連名にて、黄色人種の国が参加出来た国は二つ。 そのうち独自の発言力があった国は日本だけでした。 ですが当時の日本(黄色人種)では発言力が低かった実情があります。 また、開国から間もない為に当時の国際情勢にも疎いもの でした。英国の「日本は外交を知らない」などの発言は有名ですね。 このために日本は日本独自の基準で外交に望みます。 つまり、外交の駆け引きが下手だった訳です。 買物で1000円で売ってる物を100円で売れと言われて譲歩するようなものですね。 譲歩すれば他国の要求は更に上がります。日本はそのうちに白人国家に不信感を 抱くようになります。「いくら譲歩しても通じない」と。 この経緯もあり不満を積もらせます。 そして、当時のマスコミ(新聞)が意を唱えます。 海外での外交記録を取材して、不満があったのかも知れません。 それらは過激な思想へと変化します。 その記事や噂話は軍内部にも不満を高めます。 ※当時の記者にソ連などの工作員関与という説もありますが、割愛します。 そして開戦派の意見を抑え切れなくなった。 その不満が破裂しそうなときに米国などの圧力で国際連名の脱退に繋がります。 孤立した日本に更なる米国の圧力。憤慨した新聞などが更に過激な発言に。 これに反応した軍人、世論は開戦派に傾倒し開戦へ。 前置きが長くなりましたが「人種軽視による経済制裁による日本人(黄色人種)への 挑発にのった」というのが私の見解です。 当時の白人社会の有識者が幾人か「日本が開戦したことに同情する」発言が当時の 実情を表してると思いますよ。 特ア以外のアジア諸国が当時、日本に共感したのも上記の理由ではないでしょうか。

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