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明治維新は何故できたのですか?

明治維新は何故できたのですか? 誰が最初に事を起こしたのですか?

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  • nekosuke16
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回答No.4

ペリーの来航により、外患を直接的に認識せざるを得ない状況が生まれ、その結果として国力の増強の必要が生まれた。 勝海舟や吉田松陰といった世界を見つめる先見を持つ者が登場し、以降の幕府軍と薩長連合の戦争などから新政府樹立に至る経過として明治維新がある。 切っ掛けと作ったのは吉田松陰。その切っ掛けのバトンを受け継いだのが高杉晋作、久坂玄瑞 、木戸孝允、伊藤博文らの長州勢。加えて西郷隆盛、大久保利通といった薩摩勢と土佐の坂本竜馬。 一方で幕府御家人として、その立ち位置を弁えながら、補佐的な役割を強力に演じたのが勝海舟。 吉田松陰なくして、明治維新はなかったのでは?

その他の回答 (8)

  • IXTYS
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回答No.9

こんにちは。 とても意味のある良い質問だと思いました。 明治維新は起るべくして起きた世界的な大きな波の一つに過ぎません。 18世紀後半に今のイギリスと発端とする産業革命が起り、鉱工業の飛躍的な発展が起り、同じく18世紀末にフランスで市民革命が起ります。 この二つを通して一般市民の中に強大な力を持つ資本家がヨーロッパの各国に生まれます。 彼らを中心に植民地開発の波が19世紀の中盤に盛んになります。  その時、日本ではどうだったのでしょうか? 長崎の出島に各藩から数多くの留学生が派遣され、世界最新の技術の摂取に励んでいました。 最も熱心だったのが九州、四国の外様であった薩摩、肥前佐賀、土佐の各藩です。 これに比べ幕府は距離的にも遠いこともあり、近隣の諸藩に比べ学習意欲に差があったのも事実です。  ですから1853年、ペルリ提督率いる四隻の黒船が来航しますが、それ以前に九州の各藩では同じような蒸気船の建造をやっています。 黒船も来航の前年、琉球王国の那覇に滞在し、燃料を補給しており、この情報は薩摩藩を通じて幕府には伝わっています。 19世紀に入ると薩摩を始めとする九州、中国の諸藩はそれまでの農業中心の産業構造を少しずつ貿易を中心とする重商主義に移して行きます。 薩摩藩は琉球を経由する三角貿易で莫大な富を蓄え、実質的には徳川幕府を越える経済力を備えるまでに発展し、長州藩も瀬戸内海の早瀬で訓練した漁師を中心にした軍団で中国や朝鮮半島と密貿易をして財を蓄積しています。 幕府も田沼意次の時代に一時海外貿易を奨励し、経済力の拡大を図りますが、後に続きませんでした。 松平定信(寛政の改革)、水野忠邦(天保の改革)は倹約令を敷いて力を持ち始めた商人階級を弾圧しただけのこと。 世界の大きな波に逆行してしまいます。 重農主義を頑なに堅持しようとする徳川幕府と重商主義に軸足を移していた中国、四国、九州の外様の諸藩。 黒船が来る前に既に勝負は付いていたとも言えます。 石高では800万石の幕府と70万石の薩摩藩、29万石の長州藩でしたが、実際の経済力は大きく違っていたのです。

  • fujic-1990
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回答No.8

 昨日、明治維新はなぜ「おきたの」かについての長い回答を書いてから、「何故できたのか」というご質問であることに気がついて消したのですが、ご質問は「なぜできたのか」つまり「なぜ可能だったのか」「なぜ成功したのか」というご趣旨ですよね?  (いまさら、書き間違いだとかは・・・ (T-T) )  私は主要点は3つあると思います。 (1)天皇がいたこと。正確には、天皇制があったこと、かな。  おかげで、幕府は素直に倒れることができ、倒幕後に倒幕派が分裂することもナシに済みました。  勝った後に反政府勢力が、主導権を争って戦い合うのは人の世の常ですからねぇ。 (2)倒幕派には大変都合の良い、これ以上はないというタイミングで、孝明天皇が崩御されたこと。ついでに言うと、お若い睦仁殿下が即位されたこと。  様々な本によると、孝明天皇はガチガチの攘夷派で、一番の徳川支持者でいらしたようです。ご存命の時に大政奉還を受けたところで、再び徳川(松平か)に政治を委任され、攘夷を命令されただろうと考えるのは難しいことではないでしょう。  倒幕派には、平然と勅書を偽造するような貴族もいたことだし・・・ 。この「天皇に従う」のではなく、天皇・天皇大権を利用する者の流れがやがては2・26事件や関東軍などにつながっていった気がします。が、それは後の世のこと。 (3)佐幕派・倒幕派それぞれに、勝海舟と西郷隆盛がいたこと。  ともに世界を見る視野を持ち、英仏の支援の申し出を断るだけの才覚、度胸を持っていました。西郷隆盛は「まっこと有り難きお申し出ながら、日本のこつは日本人がケリを付けもす」と(鹿児島弁はあってますか?)言ったとか。  この点だけで、この二人を英雄と呼びたいですね。例え後日、江戸が火の海になったとしても、英雄だと。  国内紛争に勝つために、外国勢力を引き入れて、外国人どうしを戦わせて「漁夫の利」を得ようとした国がどうなったか、は歴史の教えるところです。  ちなみに、勝海舟のおじいさん(曾祖父だったかな)は越後人であることは、越後人の誇りとすべき点です。 > 誰が最初に事を起こしたのですか?  倒幕の戦闘は「明治維新」ではないですよね?、どの事を言っていらっしゃるのか分かりませんでした。  「明治維新」というのは、一連の歴史の流れです。学説としてさえ、明治維新の始期と終期について定説というものがありません。「諸説ある」とのことです。  含まれるものが多すぎて。「大政奉還」なら徳川慶喜でしょうね。勝海舟あたりの忠告などもあったかもしれません。「王政復古の大号令」なら西郷とか大久保とか。  ご質問がどのことなのか分からないので、このあたりで。

  • hekiyu
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回答No.7

ワタシも#6さんの意見に賛成です。 地方分権体制であった幕藩体制では、欧米列強に 対抗できない、と日本の指導層がそう考えたから だと思います。 だから中央集権体制にしたいが、今の幕府では 軍事的にも経済的にも無理みたい。 だから、財政改革に成功した薩長が中心となって維新を起こ すことになったのでしょう。 かつて、白村江の戦いでボロ負けした日本は、やはり 中央集権体制の必要に迫られ、それが壬申の乱に 繋がりました。 誰が最初に事を起こしたのですか?    ↑ こういう大変革は誰かが意図的に起こせるような ものではありません。  

  • eroero4649
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回答No.6

歴史に残る事件は、ほとんどは突然起っているわけではなく、ちゃんと伏線があってからそういう事件に至っているのです。明治維新もきっかけは黒船来航とよくいわれますが、ペリーが最初に来航してから戊辰戦争が終わって事実上新政府にとって代わられるまでに16年もかかっています。 誰が最初に起こした、といわれると多くの場合きっかけは黒船来航とされますが、じゃあペリーが来るまでは外国船はまったく来なかったのかというとそうではなく、主にロシアから何度も開国を求める外国船は来ていたのです。ただ、江戸幕府はそれをひたすらに隠していただけなのです。 ではなぜ明治維新が起きたのかというと、つまるところ江戸幕府というシステムがもう時代に合わなくなってきたからだと思います。世界は変わりますが、幕府のシステムは変わらない。世界の潮流に江戸幕府のシステムでは対応できなくなったのだと思います。 難しくいうと地方分権と中央集権ということになりますが、江戸幕府のシステムは基本的に地方分権のシステム。だけど帝国主義の世界の中では、中央集権国家にしないと植民地にされてしまうという事情もありました。2016年の現代は、むしろ地方分権をいかに上手にやるか、という中央集権システムの欠点が目立つ世の中になってますよね。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.5

長州が暴走して暴走して暴走しまくって滅亡寸前になったところで、薩摩がこのままの幕府政治じゃ諸藩も日本も終わりだと悟り長州を矢面に立たせつつ倒幕を成功させた感じです。

  • oska2
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回答No.3

>明治維新は何故できたのですか? 井伊直弼によって、鎖国体制(鎖国と言う名称は、明治になってから)が終了しましたよね。 突然準備もなく海外との交易を行ったので、国内では「インフレ」が発生したのです。 庶民だけでなく、武士や皇族も生活に苦しんだのです。 「政治が悪い」となるのは(今も昔も同じ)火を見るより明らかですよね。 政治=幕府が悪いとね。 始めは、「幕府と一緒に対策を考えよう」という基本原則があったのですが・・・。 >誰が最初に事を起こしたのですか? 長州の過激派が、暴走したのですね。 「皇居に火を放って、帝(天皇)を誘拐して長州に連れて行く。そこで、勅命を出して倒幕する」 これが、蛤御門の変です。 長州の敗戦後。7卿が長州に落ち延びる時には、祐宮(後明治天皇)を人質にして逃れましたからね。 長州藩も、実は「天皇・朝廷は、意のままに」との考えだったのです。^^; 結局、孝明天皇の謀殺・暗殺で倒幕派重しが無くなりました。 ※孝明天皇は、京都守護職・所司代・幕府と事を構える事は望んでいなかった。 ※天誅組の乱でも、首謀者(中山忠光を首領とする)面々を「朝敵・逆賊」として幕府に対して「追討令」を出しています。 ところが、鳥羽伏見の戦いで「長州藩に偽物の錦の御旗があがった」ので「幕府軍は、朝敵」に代わりました。 今まで、孝明天皇の命に従っていたと思っていた幕府軍にとっては晴天の霹靂。 長州藩が討幕軍になり、攘夷だけでなく「尊王」が誕生したのです。 尊王思想が強い水戸藩出身の慶喜も、朝廷に弓を弾く事は望みません。 結局、幕府は瓦解します。 最初に事を起こしたのは、明治天皇の叔父である中山忠光を大将とする「天誅組」でしようね。 孝明天皇から「逆賊」「追討令」を受けても、維新後には明治天皇から名誉回復が行われました。 または、安政の大獄で処刑された方々が先かも知れませんが・・・。

noname#235638
noname#235638
回答No.2

やっぱり 吉田松陰とその松下村塾門下生 じゃないですかね。 世界に追いつけ追い越せ!・・・的な目的のため。

回答No.1

よく、薩長の尊皇攘夷と江戸幕府(こちらが鎖国主義と誤解されることが多い)の対立だと思われているのですが、実はどちらも”開国”で意見が一致していました。 なので、『天皇を中心とした新しい国家(にして開国)』と『幕府を中心とした国家のまま開国』との対立というのが本当のようです。で、内戦を避けるために形としては幕府側が折れて前者となったのですが、徳川側としては新国家に移行しても実権は自分たち徳川家(や今までの大名たち)が握り国を支配していこうと考えたのです。が、これが見事に失敗して新政府が薩長たちに握られてしまったようです。 それはともかく明治維新が出来たのは、当時の日本人の多くが『開国しなきゃダメだ』という意見の一致を見たからです。 # と知ったかぶりましたが、おそらく詳しい方からの回答があると思います

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