こんにちは。 とても意味のある良い質問だと思いました。
明治維新は起るべくして起きた世界的な大きな波の一つに過ぎません。
18世紀後半に今のイギリスと発端とする産業革命が起り、鉱工業の飛躍的な発展が起り、同じく18世紀末にフランスで市民革命が起ります。 この二つを通して一般市民の中に強大な力を持つ資本家がヨーロッパの各国に生まれます。 彼らを中心に植民地開発の波が19世紀の中盤に盛んになります。
その時、日本ではどうだったのでしょうか? 長崎の出島に各藩から数多くの留学生が派遣され、世界最新の技術の摂取に励んでいました。 最も熱心だったのが九州、四国の外様であった薩摩、肥前佐賀、土佐の各藩です。 これに比べ幕府は距離的にも遠いこともあり、近隣の諸藩に比べ学習意欲に差があったのも事実です。
ですから1853年、ペルリ提督率いる四隻の黒船が来航しますが、それ以前に九州の各藩では同じような蒸気船の建造をやっています。 黒船も来航の前年、琉球王国の那覇に滞在し、燃料を補給しており、この情報は薩摩藩を通じて幕府には伝わっています。
19世紀に入ると薩摩を始めとする九州、中国の諸藩はそれまでの農業中心の産業構造を少しずつ貿易を中心とする重商主義に移して行きます。 薩摩藩は琉球を経由する三角貿易で莫大な富を蓄え、実質的には徳川幕府を越える経済力を備えるまでに発展し、長州藩も瀬戸内海の早瀬で訓練した漁師を中心にした軍団で中国や朝鮮半島と密貿易をして財を蓄積しています。
幕府も田沼意次の時代に一時海外貿易を奨励し、経済力の拡大を図りますが、後に続きませんでした。 松平定信(寛政の改革)、水野忠邦(天保の改革)は倹約令を敷いて力を持ち始めた商人階級を弾圧しただけのこと。 世界の大きな波に逆行してしまいます。
重農主義を頑なに堅持しようとする徳川幕府と重商主義に軸足を移していた中国、四国、九州の外様の諸藩。 黒船が来る前に既に勝負は付いていたとも言えます。 石高では800万石の幕府と70万石の薩摩藩、29万石の長州藩でしたが、実際の経済力は大きく違っていたのです。