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「公平」な裁判がなぜ被害者の遺族の側に寄る

懲役9年以上13年以下が軽いと裁判の関係者を批判する書き込みが多いです。 ですが第三者判断を冷静に行うのが第三者として裁判に呼び出された人間の使命ではないんですか。 また、新聞やテレビで事件を知った人も無関係の人間なんだからその立場で意見や考えを述べるべきではないんですか。 立場がどこかで意見が変わるのは役割の違いであって、善悪の問題ではないと思います。 なぜ被害者の遺族でも友人知人でも関係者でもない人間が遺族の気持ちに寄り添って事件判断をしなければならない空気が生まれたんでしょうか。

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回答No.7

鋭い質問だと思い回答いたします。 日本では懲役(禁固)刑の位置付けが、「悪いことした人間は苦しめる」と言う懲らしめの運用になっており、再犯防止や矯正や経済的自立を目的とした運用になっていません。 従って、悪いことをした人間に苦しみを与えるのが日本社会の刑罰ですから、被害者の遺族に寄り添う判決はどうしても感情的に重罰に傾倒し易いのです。 又、司法が世論に迎合している面もあるでしょう。 最後に日本の裁判員裁判が異質である点をあげて終わりにします。 米国の陪審員は有罪か無罪かだけを決めて、量刑はプロの裁判官が決めます。 又、日本の裁判員制度は裁判員の中にプロの裁判官が入り進行を誘導してしまします。 その裁判官は、人事権を持っている上級裁判所の意向に迎合しやすいのです。 (最高裁や法務省の意向に逆らって袴田で冤罪であると確信した最高裁判事の熊本弁護士のその後を見ればよく分かりますね。正義より保身、昇進です。)

その他の回答 (6)

  • fujic-1990
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回答No.6

 まず、 > 「公平」な裁判がなぜ  加害者と被害者は、もともと「公平ではない」のです。  殴ったら、殴られる。殺したら、殺される。「目には目を歯には歯を」これで公平です。殺した側と殺された側がどうして公平でしょうか?  殴り殺された人は最高の「命」を奪われ、殴り殺した方は国から部屋を与えられ飯代を払わずに飯を与えられて「数年の懲役」で済む、あとは大手を振って社会復帰できるとしたら、それが公平でしょうか?  公平でナイものは、公平でなく裁く。  というわけで、とりあえず、刑事裁判が「公平であるべきだ」か、裁判とは公平なものだというようなことは忘れて欲しいです(適正手続きの保証は重要だが)。 > 遺族の気持ちに寄り添って事件判断をしなければならない空気が生まれたんでしょうか。  もともとの、本来の、人間本能に拠っていた時代の姿にもどりつつあるのです。  大昔は、殺されたら(遺族や遺臣にその力があれば)殺した相手を殺したんです。「仇討ち」などと言います。復讐する力がなければ、泣き寝入りでした。  理由を説明していると長くなりますし本題ではないので省略しますが、国家が犯罪者に対しそれなりの罰を与えるのを条件に、遺族・遺臣が加害者に対して仇討ちなどをするのを禁止したのです。  つまり、最初は、遺族・遺臣等をなだめる方便が国家による科刑でした。刑罰の本質を「応報刑」と捉える考え方です。  時代が進むと、「応報刑はよくない、殺人者のために殺さない教育を施すのが刑罰だ」というような、殺した側に甘い「教育刑」の考えが出てきたり、殺した側のプライバシーは大切だが殺された側のプライバシーはどうでもいい(発表する)というようなやり方のマスコミが登場してきました。  最近、マスコミなどの手で、少年法などの知識が広まりました。  それを盾にした(自分は未成年だから死刑はナイ的な)犯罪が注目されるにつけ、従来の裁判・判決では、遺族側の怒りや不満が抑えきれないことが多くなってきました。  このままでは、遺族側による、自力での復讐が復活しかねません。  極論ではありますが(あり得ないことではない)、死刑廃止にでもなれば、死刑になることを心配せずに人殺しができますし、逆に言うと安心して復讐ができます。  復讐に対する再復讐も起きるかもしれない。  それらを抑えるにはどうしたらいいだろうか、と考えた結果、  被害者側の怒りや苦しみ、処罰が軽いことに対する不満などなどが治まるように、『遺族の気持ちに寄り添って事件判断を』するのが最善だろう、と無意識の内に考えたのであろうと思います。  遺族側を思いやった裁判をすれば、苦しみは消えないでしょうが、加害者に対する怒りや裁判制度に対する不満は消えますからね。  そういうものが消えれば、復讐行動にはならないでしょう。人を行動へと突き動かすのは、怒りや不満であって、悲しみなどではないですから。  というわけで、遺族の気持ちに寄り添って事件判断をしなければならない空気が生まれたんでしょう。

  • hekiyu
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回答No.5

第三者判断を冷静に行うのが第三者として 裁判に呼び出された人間の使命ではないんですか。   ↑ 意味がよく解りません。 裁判員のことでしょうか。 我が国の刑事訴訟は、当事者主義という 構造を採っています。 これは、検察は原告の立場から、弁護士被告人は 被告の立場から、主張し、その双方の主張を 第三者である裁判所が、冷静に判断する という構造の訴訟です。 人間には良いところと悪いところがあります。 検察は悪いところを重点的に、 弁護士、被告は良いところを重点的に主張します。 どっちの主張に理があるか、第三者である裁判官が判断する。 こうう方法が真実発見に役に立つだろう、という ことです。 なぜ被害者の遺族でも友人知人でも関係者でもない人間が遺族の 気持ちに寄り添って事件判断をしなければならない空気が生まれたんでしょうか。    ↑ 一般市民は、被害者になることはあるけど 加害者になることは無い、と思っているからです。 だから、被害者側から見ます。

回答No.4

テレビであれだけ「被害者は善意の人」「加害者は悪意の人」として善悪二元論での雑な報道をして、それを見た人であればそのような感情になって当然でしょう。 それに日本の裁判は裁判の体をなしていませんからね~。 検察が起訴すれば有罪率99%ですので裁判官など不要の存在。しかも痴漢のような立証困難な事象でも有罪率99%以上。 マスコミもそれを知っても平然としている訳ですから日本って国は北朝鮮をバカにできない国です。 おまけに裁判員制度もむちゃくちゃで、日常と関わりのあるような事件事故の裁判は参加不可、で凶悪犯罪だけに借り出して刑を決めろとやる訳ですから、一般人が裁判に関わる必要性を0にしています。

  • mimazoku_2
  • ベストアンサー率20% (1908/9135)
回答No.3

それだけ、事件の悪質性が高いからですよ。 また、今までは、少年審判について何も情報が出てこなかったが、最近になってようやく知られるようになった。 つまり、人々の関心度が高まった、そして、多くの人が少年犯罪について、考えるようになった。 いじめによって怪我をした・・・そんなレベルではありません。 その事件については、相手が抵抗しないことを良いことに『いびり殺した』のですから、悪質性・凶悪性は少年審判のレベルを超えています。 今までは、秘匿されていたので、誰もが知らなかったのです。 何についてもそうですが、自分の立場に置き換えて考えれば良く理解できるものです。 なので、それでも理解を超えた事件であると言えますので、多くの人が反応しているのです。 それだけ、多くの人が感心をもっている。

  • sukotinx
  • ベストアンサー率24% (56/232)
回答No.2

1、この手の裁判の結果が公平とはとうてい思えないから。(加害者有利) 2、加害者の立場や心情にはなれないが被害者の立場に立って考えるのは容易だから。 3、第三者は中立で考えろなどという法律は存在しないから。(むしろ一般的な市民感覚になると自然な流れ) 4、基本的に裁判や刑罰は、善人をどうこうする話ではなく、悪人をどうしようかという前提。善人、被害者を守るためのシステム。 5、再犯率が高く、過去の犯罪者が更正しているとは思えないから。 以上、おおまかにこのような観点から、まだまだ加害者に有利な判決が殆どだというのが普通の市民感覚です。

回答No.1

それは日本の司法判断(判決)が前例によって決められるからじゃない? 殺人とか前例をもとに判決を下すでしょ?(例えば永山基準とか) そうじゃなくて事件ごとにちゃんと個別に判断して前例を気にせず判決を下すなりすれば良いと思う そういう風潮が蔓延してるからだと思います

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