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信長の遺言?
織田信長は本能寺の変の前日の6月1日、本能寺で千宋易(利休)と会って話していますが その時信長は「今後は秀吉の為の茶を点てよ、そうすればそち(宋易)の茶は天下の茶となろう」と 言ったそうですが これは暗に自分が近い将来何らかの形で死ぬことを悟っていた その後の天下は秀吉のものとなる と予期していたのでしょうか?
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1582年の段階では明智より秀吉の方がラジカルに信長には見えたかもしれませんね。 その時点では筆頭家老たる立場は確かに光秀でしょう。 ですが10年経過したらどうでしょう? 信長・秀吉・光秀の3人が自分の老い先や隠居を考える年齢になったとき(まあ信長は形式的な家督相続はすませてますが)、引き立てるべきは秀吉秀勝ラインなのか、光秀とその子なのかとなると、当然に秀勝になりますよね。そういった話を暗に利休に話していたのだと思います。秀吉に己の立場を遠まわしに伝えたかったのでしょう。
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- jkpawapuro
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回答No.1
秀吉は信長から養子を跡取りにもらってる身ですので、いずれは明智を抜き筆頭家老になることが確実視されていた立場です。べつに秀吉が天下人という意味ではなくても秀吉が筆頭家老として一番出世する(させる)くらいの意味合いだったのではと思います。
質問者
お礼
ところがですよ 信長が最も信頼してた家臣は明智光秀だったのです 信長との話で家康が「信長様が最も信頼されているのは羽柴様でも信忠殿でも無く 明智様なのですね…」と語っています
お礼
ありがとうございます 確かに信長の先見の明であれば そうだと思います