>これは本当ですか?
本当か嘘(間違い)か、と言うよりも、そのような考え方もある、ということです。
飛鳥寺も四天王寺も造営が始まったといいますか決まった年はほぼ同じで593年と考えられています。
これを創建の年とするのか、全てが整った時期を創建の時期とするのかで数年の差が出てきます。
このことが、どっちが古いのか、というご質問の発端になったのかと思います。
これもお寺として建てらた建物の最初はどちらが古いか、という問題です。
お寺としてどっちが古いのかということになりますと飛鳥寺の方が古いだろうと思います。
飛鳥寺が厄介なのが、法興寺あるいは元興寺という別名を持っていて、それについての伝承があります。
(四天王寺も前身のお寺があって現在の場所に移転したという説があります)
飛鳥寺の前身と言われておりますのが、百済から仏像とお経が朝廷にもたらされた際に蘇我氏が預かって、仏像を安置しました。
この安置した建物がお寺としての機能の初めと考えることができます。
当時は後に尼僧と看做される女性が守っていましたが、元興寺を創った際に男性の僧侶が主体となりました。
どちらも蘇我氏の氏寺ですが、ここで厄介なのが尼寺として継承したとされるお寺が別にあるということです。
とは言え、蘇我氏の邸内のお寺を元興寺が継承したことは間違いはないと思いますので、お寺としては飛鳥寺の方が古いと考えています。
>あと四天王寺の今の建物は、いつくらいに建てられた物ですか?
1576年に創建以来の建物が織田信長の焼き討ちによって焼失してしまいました。
その後も大阪の陣などの戦火や災害で再建と破壊が繰り返されました。
現在の姿はあちらの建物は何時こちらは何時とバラバラです。
五重塔の改修が平成27年9月8日~平成28年6月末日の間に行われる予定です。
参考
豊浦寺 - 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部
www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga08_2.html
抜粋
仏教公伝をめぐる『日本書紀』の記述から、向原にあった稲目の邸宅を寺にしたことが知られる。その後の変転は『元典寺緑起』に詳しい。敏達天皇11年(582)には、向原殿の寺を桜井道場とし、翌12年(583)には司馬達等(しめだちと)の娘、善信尼とその弟子2人を桜井道場に住まわせている。この3人の尼は、崇峻天皇元年〈588)に百済に留学し、崇峻天皇3年〈590)に帰国し、前のように桜井寺(桜井道場)の住持となった。こうして桜井寺という尼寺が整備されると、僧寺の必要性が高まってくる。そこで飛鳥寺建立が発願され、桜井寺の中に現場事務所が崇峻元年に開設される。推古天皇元年(593)には豊浦の宮を寺とし桜井寺の機能を移すことになり、豊浦寺が史上に登場する。
飛鳥寺 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥寺
抜粋
この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。
蛇足
お寺として飛鳥寺が一番古いか、というとこれにも異論があります。
仏教が日本に伝わったのは何時かという問題と関係してきます。
参考
仏教公伝 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/仏教公伝
抜粋
古代の倭へは、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の出身者であった。彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたと思われる。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や経典はもたらされていたようである。522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)などはその好例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある
お礼
ありがとうございました。 大変参考になりました。