- 締切済み
思っている事を書いてみました。感想をおきかせ下さい
こんにちは。 耳のない人が大声を上げて他人に暴力を振るいながら自己主張をするのをよく見ます。 耳のない人に主張されている人が何の観察もせず、何の質問もせず、つまり何も耳を貸さずに「あの人には耳がない」と言って結局自らにも耳が無い姿を露呈しているのをよく見ます。 「対話」がなければほぼ何もできない成立しないと思うのですが、言う方も聞く方も対話スキルが著しく欠けている昨今の日本の惨状でしょうか。 結局耳がついてなければどれだけ学力(学歴)があっても暴力しか使えない。 脳も筋肉でできているとバカにされるおバカと大した差がない。というか違いは分からない。 聖人。 耳と口の王たる人とはよく書いたものだと思います。 みなさんの周囲にも色々ないざこざがあると思いますが、対話が十分に行われた上で起きている争いはありますか? 十分にされていないならなぜその人たちは争うという行動を起こせるのでしょう。 ほぼ確実に相手の事を分かっていないのに。 結局力のシーソーゲームしかできないのでしょうか。 それでは猿山となんら変わらない。 小動物や猿あたりからもういちどやりなおしてから人間を名乗った方が良いのではないだろうか。。。 自分の都合の悪い事を隠し、相手の都合の悪いところをつき、人として持つべき隣人愛をみじんも発揮せず、だいぶ安い人間に成り下がっている可能性を考えもしない。 彼が使えるのは暴力だけ。 暴力には暴力が返ってくる。 彼も同じ事を言う。 しかし彼は自らの暴力に自覚がない。 個人主義、自由の権利、etcあらゆる良いものを彼らは歪め腐らせ荒廃させる。 私は道を探しています。 人として生きる道、隣人を人として保つ事のできる道を。
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宗教とか倫理、道徳云々も自由なんですが、「今回どんなことが隣人とあったの?」これが本題ですね。 言い分をぶつけるのは直接当事者が良いかと。一般に「問題はあるがお互い多少我慢」「大きな問題なら行政、警察 、訴訟」・・になります。
- guess_manager
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こんにちは。以下感想となります。ここは質問サイトですので、なるべく質問形式にしたほうが削除されにくくなりますよ。 ・耳のない人、という比喩は身体障害者差別である、と受け取る人もいる ・前置きが長い ・「よく見ます」という文章を見た瞬間に、「この人は客観的な思考ができない人間である」という疑いを持つ ・「日本の惨状」という表現を見た瞬間に、「この人は世界をどれだけ知った上で文章を書いているだろう」という疑いを持つ ・「脳も筋肉」という陳腐なフレーズ。中身が無い。 ・他人を馬鹿と言い切れれる蛮勇 ・小動物からやり直す、というキツイ言い方。中学生がするような言い回し ・いざこざ自体を忌避しているので冷静な議論ができない人なのだなという印象 ・あるいは、議論といざこざ(争い)を混同する短絡 ・「人として持つべき隣人愛」という押し付けがましさ ・「個人主義、自由の権利、etcあらゆる良いもの」という決め付け ・オカルト、カルトに騙されやすそうな人 以上となります♪
お礼
いやあ。 参ったな… 甘んじて受け止めるべき点もいくつかありはしましたが、あなたもなりふりかまいませんね… 姿勢を変えられないなら次は結構ですよ。 私はどうしようもない人が言うことでもそれが的をいていると思えることなら耳を傾けることにしているので、上記いくつかの点はありがたく受け取っておきます。 ありがとうございます。 では。
- hekiyu
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”みなさんの周囲にも色々ないざこざがあると思いますが、 対話が十分に行われた上で起きている争いはありますか? 十分にされていないならなぜその人たちは争うという行動を起こせるのでしょう。” ↑ 争う対象によると思います。 自由や個人主義が良いモノかどうかなどは 対話、議論することにより争いを防げるかも しれません。 しかし、これは俺のモノか、あんたのモノか、という 争いは、幾ら対話しても争いを防ぐことは難しい 場合が多い、と思います。 まして、法秩序が確立されていない国際関係にあっては です。 ちなみに、同一民族的、同質的な日本人は、話せば 解る、と考える傾向が強いそうです。 しかし、多人種的、不均一的な諸国では、話して 解るはずがない、と考える傾向が強いそうです。 だから、紛争は仕方がない。 その代わり、紛争が起きた場合のルールを予め 決めておこう、と考えます。 ”個人主義、自由の権利、etcあらゆる良いものを彼らは歪め腐らせ荒廃させる。” ↑ 欧米の個人主義は、神との約束さえ守っていれば 他人の目など気にする必要はない、という意味の 個人主義です。 しかし、日本にはキリストのような神はおりません。 そんな日本で、安易に個人主義、自由を認めたら、それは 我欲の為に自由を濫用することになりがちです。 どんなに素晴らしい思想でも、現実の世界に当てはめて 上手く行かない思想は、悪い思想なのです。 それは社会主義で立証されていると思います。 社会主義が産んだのは、独裁と貧困と、自国民の大虐殺 でした。
お礼
こんにちは。 >争う対象によると思います。 そうですね。 ここでは「もっと話せる事があるのにしていなくない?」というものに焦点を絞っています。 これは俺のモノかあんたのモノかという争いは難しいかもしれませんが、できる事があるかないかをお互いに対話する事自体は可能です。 結局答えに至れなかったとしても対話した意味は生じるでしょう。 「隠れた大切な要素として対話の内容そのものもそうですが、対話に望もうとする姿勢の話し」でもあります。 世界中のどこにいっても宗教はあり、哲学はあり、それらは結構似ています。 もし正義なんか糞食らえ、モラルなんか欲望の前には何の意味もない等という人間性を欠いてしまっている様な人相手であれば多民族国家であっても単一民族国家であっても辛そうですが、最低限良識を保っている、あるいは保とうとしている人であれば、結構話せる部分はあると思いますが。 私にもヨーロッパ、アメリカ、アジア、オセアニア、各地に友人が居ますが、何も意識合わせをする事なく「モラル」は一致していますし。 プライド、生活の事情、etc。 これらを隣人との良好な関係よりも重んじる人であったらもちろん話し合いなんか成立しません。 彼らは隣人との良好な関係、即ち社会秩序の安定よりも自分の都合の方が大切だと考えるのですから、対話なんか成立する訳がありません。耳がついてないでしょうから。 耳がなければ言葉は聞こえません。 >我欲のために自由を濫用することになりがちです。 現状がまさにそれではありませんか? その現状を指して「歪め腐らせ荒廃させる」と表現しています。 その濫用によって生じるいざこざに対する修正力を持っているのが「対話」ではなかろうかと考えています。故に対話できる種類の事にすら対話しない者を見下げています。 >どんなに素晴らしい思想でも~ まあここが痛いところですね。 多数決主義の人たちには何が良かれかなどどうでもいい事ですものね。 でも、現実には高過ぎる理想が失敗を過去に示したなら、かといって低レベルに合わせるととんでもない事になるのは現在の日本が証明していないでしょうか。 そして、過去の高過ぎる理想とやらは本当に理想だったのでしょうか。 それが本当に高過ぎる理想であり、それを通そうとする手段も許容範囲内であり、して失敗したのならまあ受け止められますが、高過ぎる理想を名乗っていただけの「まこと安き者」が失敗しただけならそれは「現実に当てはめて上手くいかない思想は悪」と断じるのも難しいかなと私なんかは思います。 いかがですか? この思想は自堕落傾向の人に喜ばれます。 現実に当てはめて上手くいく様なものでないと確かに辛い。 でも、過去のまるで別物を引っ張りだして来て失敗例として挙げ、ほらダメだったろうと言い、それを理由に大手を振って自堕落に走る人をまあ見かけます。 あなたがそんな「まこと安き者」だとは思っていませんが、「まこと安き者」の中にも口だけはよく動く者も居り、そんな人たちとの区別がイマイチつきません。 ※決して皮肉をいっている訳ではありません。本音を素直に語っているだけです。
お礼
こんにちは。 特に具体的に何があったという訳ではありません。 ただ倫理や道徳に興味もない、だから深く真理を掴もうと探求もしない、故に安いと言わざるを得ない努力感ゼロの正義を掲げて、あるいは正義なんて興味ないよと言いながら生活する。 それでよく自分が誠実に扱われると思えるなと思っているだけです。 倫理であるとか、道徳であるとかとは何であるかも考えた事もないのでしょう。 自分がそれらを無視し軽視し生きている事によってそれが即ち何をしていると言う事かを考えない。 自覚をしようともしない。 こういう人は倫理、道徳、即ち「他人や自分自身」といって差し支えないであろうものを軽んじて蔑ろにしているのだから、軽んじ、蔑ろにされているこちらも相手を粉砕したところで自業自得であろうと考えているだけです。 身に降り掛かる火の粉は祓わなければなりませんからね。 私は正義の味方でありたいが、私も一人の限界のある人間で、ストレスが溜まりきれば溢れる。 こうして言葉にして発散させているだけでも移りたくない実行動に移らずに済む道具として使えますし、実際質問でもある。 それだけです。