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人生は互いにひとしい価値の交換ではないのでは?
- 人と人とのまじはり。商行為の以前に 先輩後輩の関係・あるいは同僚や仲間のあいだのつき合いといった人間関係がくりひろげられる。けっきょくすべてわれわれは 変な結果なのかも知れないが 誰もが相手に負い目を負う位置にいる。のではないだろうか?
- 人間関係のあいだにあたかも価値の交換がおこなわれるとしたときには つねにじつは不等価交換であって われわれは誰もが相手や社会からわれわれ自身にあたいするもの以上のものをもらって来ている。のではないだろうか?
- これが めぐみである。か? 恩恵とは こういうことか?
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人の価値というのは、平等です。命の価値は。「生きている」ことそのものに、価値や可能性や夢があります。 一人の人が生きるために、大勢の人が働いている。会ったこともない人が作ったものが、いつでも買える。だから、感謝の気持ちで生きるんです。「生かされている」。今時点で、充分恵まれている。 人の価値は、数値では表せないんです。「あの人と会うと、元気が出るんだよなあ」とか、「人に優しくされちゃった!」など。 人との違いって、ある程度までいくと、ほとんど知識と経験と思慮深さの程度、体力や精神力などの違いだけになります。みんな、似たり寄ったりですから。
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- kohichiro
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NO・2 です。 >この《めぐまれ》の地点を出発点とするのもよいのではないか。でした。 力点は 最初のものとしては 過去への感慨であり そのありがたみを感じることにあります。 負い目という言葉を使ったことも どうもマチガイであったようで ありがたさであり めぐまれの問題で した。 > あるいは その時々の持ち出しも 考えてみればそれら以上のものを 社会からあたえられているといった 思いもあるわけです。 帳尻は合っているゆえに めぐまれです。 私も個人的にはこういう考えは好きです。理屈はどうあれ、そうあらねばならないと思います。日々感謝の気持ちを普遍へ持っていくべきだと思います。それによってどれほど社会がすみやすくなることか、と思います。 現実を見てみれば、私の近辺でも傲慢不遜、あらゆる既得権益を最大限に自分のものとしてむさぼっている醜悪な老人たちが如何に多いことか。しかも口だけは美辞麗句をひたすら広言している。むかむかします。 何も取り立てて悪いところもないのに1割負担で病院をサロン代わりにして毎日通っているくそ老婦人の群れ。ぴんぴんして毎日散歩している、自転車に乗っている老夫婦が介護2級を得て何十万円も補助を貰って自家を改造する、週二回の介護士が来る前に体裁が悪いと部屋を綺麗に掃除している。こんな老人どものために医療費40兆円が、消費税がむだに浪費されているのですね。もー吐き気がします。生活保護不正よりも全体ではずっと多いと思いますよ。そういった人間の目をこの思想で開かせねばならないと思います。 ブラジュロンさんの思想をこの腐りきった日本でもりたてていきたいですね。どうしたら彼らを納得させられるでしょうか。 なかなかポランテアのなり手はいないんですよ。リタイアして無為に食べていけるということのありがたさを感じない人間はくずだと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そして ご賛同いただけて うれしいです。 ちょっと今回は いつも以上に先輩風をふかします。: ★ むかむかします。 ★ もー吐き気がします。 ★ リタイアして無為に食べていけるということのありがたさを感じない人間はくずだと思います。 ☆ わたしも このような憤慨から出発しました。特に若いときですね。 ★ どうしたら彼らを納得させられるでしょうか。 ☆ まぁ ここでは わたしは何も言うますまい。 こういちろうさんたちが しっかりと考えて行ってくれると思っています。 わたしだって 多少はやわらかな思想になって来たんですから。 といったところでしょうか。 もう少し開いています。
- kohichiro
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恵みという考え方は、本来大地の恵み、太陽からの恵みなどなど、この自然全体から人間が受け取っているものに対して言われるもので、これすらも見直しが進んでいるのが巨大な力を得てむさぼりすぎた今の文明です。自然全体から見ればローカルな人間関係の中でそいういう考え方をするのは新鮮ではありますすが、ちょっと違うのかな、とも思ったりします。 もちろんそのひたすら謙虚な思想が普遍化されれば、人間世界はどれほど住みやすくなることかと思いますが、人間は傲慢、自分主義的なな生き物であり、これは一朝一夕ではなおりませんし、多くの別の考え方があるので、それが一般になる可能性は少ないでしょう。 経済行為は少なくとも、持ち出しの一方では成り立ちません。交換、あるいは贈与という概念から始まったのですから、基本的にプラスマイナスゼロでなくては成りません。その後貨幣が導入されて、バーチャルな利益主義に毒されてどんどん全体が無駄に膨らんできた、その辺りに問題があるのだろうと私は睨んでいます。 自分が常に負い目を感じて、ひたすら他者への貢献を考えるのは、一見素晴らしい考えですが、やはり実践的ではなくマイナーで収縮的なな宗教でしかないでしょう。もっと普遍へ戻って胸を張り、自信を持って合理的に始めなければ多数の賛同は得られないのではないでしょうか。
お礼
こういちろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ふうーむ。なるほど。わたしの側から言えば 誤解をあたえる書き方をしていたと いま思います。 つまり 問題は――言おうとしたことは―― ひとえに《振り返ってみてわが人生は めぐまれていたんだなぁと思い返すことが多い。あるいは 多少はある》ということであり そのあと この《めぐまれ》の地点を出発点とするのもよいのではないか。でした。 力点は 最初のものとしては 過去への感慨であり そのありがたみを感じることにあります。 負い目という言葉を使ったことも どうもマチガイであったようで ありがたさであり めぐまれの問題でした。 あるいは その時々の持ち出しも 考えてみればそれら以上のものを 社会からあたえられているといった思いもあるわけです。 帳尻は合っているゆえに めぐまれです。 ですから 《謙虚主義》でもなければ まして《犠牲志向》ではないと考えます。 もっと言えば: ★ その後貨幣が導入されて、バーチャルな利益主義に毒されてどんどん全体が無駄に膨らんできた ☆ というその世界にわれわれも位置しているし そのおこぼれをさえもらって棲息しているのかも分からないわけです。 つまり そのような大きなツナミをまぬかれるすべは 一人ひとりの人間にはほぼ無いと考えられましょう。 言うなれば こういった或る意味で不可抗力の世界の流れの前に・その中にいて わざわざ: ★ 自分が常に負い目を感じて、ひたすら他者への貢献を考える ☆ という一見すると殊勝に見える行き方をとるというのではないのです。 ただし・もっとも そのとき: ★ もっと普遍へ戻って胸を張り、自信を持って合理的に始めなければ多数の賛同は得られないのではないでしょうか。 ☆ という考えについては こう思います。: つまり この場合の《普遍》が 人生におけるわづかのことであってもその《めぐまれ・ありがたさ》に思いをめぐらせるような気持ちにこそ――それこそ 《非合理的に》――ある。のではないか。とも考えています。 気持ちのほうが 普遍的な基礎となるのではないか。 そういう資本主義論です。 ★ 人間は傲慢、自分主義的なな生き物であり、これは一朝一夕ではなおりませんし ☆ わたしのこういった思い上がった心の側面 そして人びとの同じくこの《よくもわるくも とにもかくにも強く生きようとする心》の側面について これらをわが《めぐまれとありがたさ》の内にそうっとつつみ込んで互いに胸を張れるホモ・エコノミクスにまで揚げてふるい自分たちは棄てて行こう。という路線です。 《むさぼり》が無くなるとは思っていません。少しは良質のホモ・ムサボリクスになれればと考えます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 全面的に賛同いたします。 ★ 「生かされている」。今時点で、充分恵まれている。 ☆ おっしゃるとおりであると考えます。 ここから出発するのではないかと思います。 もう少し開いています。