- 締切済み
昔は
多摩ニュータウンは昔はほとんどが山でしたよね。 東京都の中にある○○市とつくところ(多摩ニュータウン地区以外の○○市とつくところ)も昔はほとんどが山だったときいたんですが、実際はどんな感じだったんでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
今の「市」は町村合併の結果が多いから、「市」でもど山のなかって結構ありますよね。あきる野市とか相模原市とか。 東京がいまのようになったのは比較的新しいようです。 今は宅地が造成されたり道路が均されたりしているからおまり気になりませんが市とは言わず区内でもかなり高低差のある地形です。ここに家がなく森や林ならモロに山ですよね。東村山・東大和・武蔵村山は当方子供の頃は『郡』でしたが、ここの一部は今でも昔の環境が保護されています。都内で昔の状態を見るのは困難ですが、等々力渓谷や飛鳥山 などに昔の面影を見ることもできます。 子供みたいです、メトロ丸ノ内線に乗って景色を見ていると東京の地形が見えて面白いです。今でも地形図を見ながら港区を散策すると山のヘリの名残の急斜面の雑木林があったりします。
山という言葉にどんなイメージをお持ちでしょうか。 長野県や山梨県の人に言わせれば山のうちには入らないでしょう。 東京の下町へ行けば高いところはみんな山です、隅田川沿いの待乳山も立派に山です。 上野公園も当然山です。 多摩ニュータウン一帯は丘陵地帯と言ったほうが適切かと思います。 起伏が沢山あり平地が少ない地形です。 開発される前は森林と段々畑がある農村地帯でした。 東京都の市部は国木田独歩の詩にありますように武蔵野と呼ばれる地域でした。 落葉樹が主体の雑木林と畑が広がっていました。 多摩ニュータウンと違うのは土地の隆起が極めて少ないということです。 埼玉県の狭山市や川越市の郊外へ車で行かれればイメージはつかめるかと思います。 昭和初期までは中央線の新宿以西は市部と同じように武蔵野の面影を留めていました。 川越がお芋で有名なように、東京の市部や埼玉県は田んぼとするのには水がすくなく、畑が主体でした。 皇居のお堀を一回りすると分かりますように丸の内の反対側は高くなっています。 九段坂で分かりますように海抜ゼロメートル地帯の下町の人間からすれば、高くて木が沢山生えるていますから山と言うことになります。 昔は山だったというのはこういう意味です。 いわゆる山岳地帯を削って宅地にした訳ではありません。 昔々の江戸時代には渋谷の宮益坂から道玄坂が見渡せその向うに多摩川が見えていました。 九段の靖国神社の前に大きな灯篭がありますが、江戸時代には東京湾で漁をする漁師さんの目印でした。 逆にいえば九段坂の上から東京湾が見えたということです。
お礼
山の見解が人によって違うわけですね。 ♯1さんのおばあ様は下町よりも高い土地を山だと仰っていたのかもしれませんね。 土地の高低差があり、その坂に木が覆い茂っていたら山や森に見えます(私から見たらですが)。 多摩市一体は山ではなく、丘陵地だったんですね(ぽんぽこでは全て山に見えたので勘違いしていました)。 それ以外の市は平坦な土地(起伏があまりない)ところに木が覆い茂っていたり、畑があったんですね。 とても勉強になりました。ありがとうございます。
- f272
- ベストアンサー率46% (8467/18127)
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/ymap.html?data=history これで昔の地図とか写真をみて想像してください。
補足
ありがとうございます。 私のスマホからでは見られなかったので、友人のパソコンから見させていただきます
- Misaki-27
- ベストアンサー率36% (365/1007)
質問の答えと言えるか分かりませんが、世田谷、渋谷も山だったはず。 谷って付いてるから谷って言うべきなのかな? その後、祖母の世代(大正時代?)に田園地帯が広がって、 東京オリンピックの時に一気に都市開発が進んだって聞いてる。 うちは切り崩した山の頂上に家を建てたらしい。 そこから東行くと長屋町。西に行くと村。小さな小屋が点々としてた。 北に行くと武家屋敷。 90過ぎの婆さんの話なので、時代とか誤差あるかも? 祖母の作り話だったらごめんなさい(;´д`)
お礼
ありがとうございます。 世田谷や渋谷は坂が多いですね。昔はそこに木が覆い茂っていれば、山に見えますね。 大正時代に木を切り開いて田畑にし、 オリンピック後に田畑を埋め立ててビルや住宅地を立てたのでしょうかね。
お礼
ありがとうございます。 昔は雑木林が結構あったんですね。 大阪でも豊中(千里ニュータウン)にたまに森が残っていますが、東京もそんな感じで一面広がっていたのでしょうかね。