広く世界を見つつの哲学を
1. 日本という社会を基礎として誰もが自由に日本語で語り合う場を《井戸端会議》と言うとすれば――まづは これを目指しているのですが―― でもそこから 日本の歴史と文化に根差した《土俵》という場を持つだけではなく よその人びとの場である《リングやスタヂアム》をも われわれ自分たちの場とせねばならないのではないか?
2. 日本人の哲学の徒は 生活日本語をもちいてそれを基礎としてほかの国のリングにも上らねばなるまい。そのとき アヱーであってはならない。
3. これが 問いです。
4. さらにここで説明をおぎないますが 問うべきことは 《土俵としての井戸端会議だけに終わるようなウンドウ――《土俵》だけに終わってよいとするウンドウ――は 麦のあいだに生えてくる毒麦ではないか?》 これです。哲学カテは 《仲良しクラブ》であればよいといった風潮をつくりあげるウゴキ これについて疑問を挟み その是非を問います。
5. 言いかえると 真面目に哲学をまなび問い求めるのは ワールドカップのピッチに立つためである。また すでに立っているということでなくてはならない。もし 仲間内のあいだにちぢこまるようなウゴキがあるとすれば これは もってのほかではないか?
6. われわれは 世界の味を自由に受け容れしかもこれらを日本の味にして来ている。けれども 哲学・思想そして宗教については 勉強はするものの・いえいえ きわめて精力的に余すところなくというほど研究を伸ばして来てはいるものの 世界の料理を取り扱っているほどには 消化して来ていない。のではないか。訳語ひとつを取っても おぼつかない状態にさえある。
7. 聖書やその神ひとつを取っても 成っていない。ではないか?
ここでは それでもよいという風潮を取り上げ これを批判し切っておきたいというねらいです。
お礼
みなさん回答ありがとうございます