• 締切済み

教師にウンザリ。みなさんが思う教育とは?

すみません、ただの愚痴になってしまいそうなのですが…みなさんの「教育とはこうあるべき」についてご意見お願いします。(多分、私は共感と同意が欲しいだけなのだと思いますが…) 教員です。担任も持っています。 私が思う教育とは、ある意味では「理想を追う」ものだと思っています。みんなが笑って明るく暮らせる社会の実現が最終目的と思っています。 人の生まれや育ちはそれぞれだし、能力にだって色々な種類があり、人それぞれだと思います。 家庭が貧しくて進学する金銭的な余裕の無い子どもだっています。だけどそれでも、その子が、周りの人間や自分を支えてくれる存在を大事にしながら自立していける道を一緒に探してあげて、色んな選択肢を示してあげるのが教師の仕事と思います。 「勉強しろ」とは言います。でもそれは、進学するだけが目的ではありません。勉強を通して「思考するという行為に慣れさせる」ことで、よく考える人間に育ち、忍耐力も養われるからです。もしその結果、学力も向上し、社会に対しても色々と考えるようになる生徒がいたならば、その子には「いっぱい勉強して偉くなれ」と進学を勧めます。 教育とは、未来の社会がより平和で、より明るくなるように、一人ひとりの人間が自分の人生を活き活きと生きていけるようになるために、ある種の「理想」を求めるものではないのですか? 他者を傷つけたり、人の迷惑になる行動をした生徒には生徒指導をする。悪いことは止めるよう躾をする。その一環としての道徳教育。 私はそう考えながら日々の業務に当たっています。 しかし一方で、進学率にのみ意識を傾け「勉強しろ」の一点張りで進学を強要する態度の教員、生徒の個別の事情を加味することなく一方的に抑圧するような指導をする教員、そのような教員が絶えないことに、酷い憤りを感じています…。 教員は、勉強ができない人間は負け犬「という現実」ではなく、自分と周りの人間を大切にして生きていくことが大事で、そのために自分が何をしたらいいのか「という現実」と向き合わせるべき職業だと思います。 自分自身の型にはまった価値観を他人に押し付ける人間がいることは理解もしています。しかし、表面上はそれを受け入れるようにしながらも、芯の部分では、その「理想」を持ち続けてこその教育だと思ってしまいます。 みなさんは、教育とはどうあるべきだと思いますか?

みんなの回答

noname#246720
noname#246720
回答No.12

補足などありがとうございました。 再度失礼します。 ご自身が「見た目そうでもないけど中身は熱い」と言うならば、他の教員もそうである、とも言えるんですよ。 それと学校の様子が微妙によくわからないのですが、学級崩壊という感じなのでしょうか? しかも殺人にまで至りそうな生徒がいる… 単なる例えだとしても過激ですよね。 どうもこの辺り、変な誇張と思い込みが入っているような気がするのですが… あと私が感じたのは、教育理念云々というよりは単純に職場全体への不満かな、と。 どう考えても今対処しなければどうにかなってしまいそうな生徒がいるというなら確かに問題にすべきだと思うのですが、どうもご質問文ではそういうことではなく、ご自身を正当化したいために生徒の現状を書いているだけという感じがします。 (自分がいじめられちゃう、とか…) 別に質問者さんを貶めたいわけではありません。 私も別に大層な人間という訳ではないですし。 ただ私がこう感じたということは、同じように感じている生徒もいるかもしれませんよね。 生徒への距離感にも気を付けているということ、わかりますよ。 アンケートなども…やってるだろうなあと思いました。 ただ、もうそういう気遣い含めて「勘弁してくれ」と思う人もいるということです。 放っておいてくれよと。勉強だけ教えてくれればいいよと。気遣いが重い。むしろこっちが気を遣っちゃうよ、と。 顔には出さないけど思っている生徒も…いるんです。 だから色んな先生がいていいと思うんです。 ただ、重篤な問題が起きる気配があるなら教師として対処して下さい。 自分の不満が、ではなくて、生徒の問題が、です。 共感が欲しいだけと仰っているのに反論ばかりですみません。 質問者さんの教育理念はそのままでいいと思います。 でも職場の不満を生徒に伝染させないように気を付けて下さい。 例えば、質問者さんを信頼している生徒が「cheese16先生があの先生のこと嫌いみたいだから、私も嫌い」というふうにならないように。

cheese16
質問者

お礼

はい、ですから、「見た目そうでもないけれど中身は熱い」先生と、「ただ熱く押し付けがましいだけで中身のない」先生ではどちらがよいでしょうか、ということもまた、私が述べていることと思っているのですが…?質問の内容としてはこのようなことが書かれてはいませんでしたか?個別の事例に偏りすぎて、逸れているように感じました。 また、実際に、学級崩壊に近い荒れ方(他クラス)、自傷行為の多発(他クラス)、自己愛の強い生徒からの周到な嫌がらせ(私が遭った被害)、トイレに糞を撒き散らす異常行為(他クラス)、盗難(他クラス)のような出来事は起きています。 そしてそれらのことが起きる中で感じたことに、学校生活を送る中で生徒たちが潜在的に抱えている心の問題に対し、一切の解決をできていない教員の実態でしたよ。家庭の教育の問題でもありますが、本当に、全く一切学校が関与することは、本当に不可能なのでしょうか? また、これは、私のいる学校だけでなく、全ての学校において一定数起こり得る問題です。 色々な教員がいて然るべきですが、それぞれがバラバラで他を省みず協力していけなければ、そういった問題にも組織として対応していけないですよね?だからやはり、教員一人ひとりのカウンセリングマインド(生徒に対してだけでなく、教員間においても)と認知行動に対する正しい知識が必要であって、教員の勉強不足が否めないと述べているのです。 つまり、「教育問題に対応する努力ができてないよね?」というのが、たった一言、私が述べたいことなのです。 能力的に個々が持つものが違ったとしても、その違いを理解し、組織全体として人材をきちんと活用する方向へと尊重し合わなければいけないとは思いませんか?ではなぜ協力できないかといえば、自分と違う価値観を受け入れられないからと、見識が充分でないからです。 また、授業アンケートの目的は「私はあなたたちのためにこんなに頑張ってるよ」アピールのためではないですよ?私は「私の授業の方向性を決める指標が必要だから、アンケートに協力をしてください」という伝え方をしています。それと同時に、「私はこういった点を教科の評価とします」と明確にし、生徒たちが評価観点をハッキリ理解できるようにしているのです。それ以上のことは言いません。 要するに、そういった努力も無しにどこに向かわせてるのかもわからない教員に対する憤りです。 ありがとうございました。

cheese16
質問者

補足

すみません、お礼欄に書き切れなかったため、補足欄で失礼致します。 個々の教員を尊重することも大事と思います。 しかしそれは、教員個々人がきちんと一定の教員としての資質を有してこそはじめて言えることなのではないでしょうか? 教員としての資質・能力があまり充分でないと思われる教員を掬ってばかりいては、生徒への指導どころではないような気がします。 だからこそ、そんな感情的なものばかりが渦巻いていてどうしようもない状況だからこそ、 再度、教育の理想って何だっけ?ということを見つめ直して、私自身が自己強化をしたかったのです。 でなければ、ご回答者様に仰っていただいた通り、私を尊敬してくれている生徒が「この先生が嫌っている先生、私も嫌い」となってしまうからです。 私自身が揺らがず、貫き通す強さがありさえすれば、それでも少しでも、やれることは増える。そうは思いませんか? ご回答者様の生徒目線のご意見、とても有り難かったです。 今後の自分の方向性を持ち続けるための一助としたいと思います。ありがとうございました。

noname#246720
noname#246720
回答No.11

質問者さんの現場を見たわけではないので何とも言えない部分はありますが。 でも「人の生まれや育ちはそれぞれだし、能力にだって色々な種類があり、人それぞれだと思います。」とご自身で仰ることが、そのまま教師にも言えるのではないかと感じました。 質問者さんの教育理念は、それはそれで尊敬に値するものと思います。 共感してついてくる生徒が多いだろうとも感じます。 ただ、ここで難しいのは「生徒にも色々ある」ということです。 声を上げるタイプの生徒が「この学校の先生はダメ」的なことを言ったからといって、その他全員が同じことを思っているとは限らないのです。 実際私が中高生だった時のことを思うと、質問者さんタイプの先生、質問者さんが嫌悪しているタイプの先生、その他、色々いました。 その中で私が苦手意識が強かったのが質問者さんタイプの先生です。 逆に、成績至上主義タイプの先生に救われたと思うことが多々ありました。 (でも一番好きな先生はどちらのタイプでもありませんでした) この背景は色々あって説明しきれないので省きますが、あまり理想を持ちすぎるオーラのある人を苦手とする私のような人もいるということです。 だからと言って質問者さんタイプの先生がいなくなってほしいとは思いません。 成績至上主義の先生ばかりになってほしいとも思いません。 要はバランスで、人間の心など一定の温度に保たれることなど不可能で、好きと思う対象が変わることなんてよくあるんですよ。 誰か一人に入れ込む必要はないんです。 色々な人がいるということを学べるのも学校の良いところだと思います。 質問者さんが苦手とするその教師が、生徒や保護者、誰が見ても「先生に相応しくない」と思うのであれば問題とする必要はあるかもしれません。 ただ、普通に教員として続いているなら(目に見える顕著な問題が起きないなら)、質問者さんの知らないところで、質問者さんが注目していない生徒がその先生に救われている可能性は充分にあるんですよ。 例え少数派でも、一人であっても、その先生に出会えてよかったと思う生徒がいるとしたら、その教師の理念を否定する絶対的な理由にはならないと思います。 そして同じ生徒が質問者さんに救われるというシーンも、もちろんあるはずです。 一度その先生と腹を割って話せる機会があるといいですね。 現場を知らない人と話すよりも得るものは大きいと思いますよ。 似てはいても一人として同じ生徒はおらず、学校や教室もそれぞれ全く違うものですから。 ただ、気持ちはわかりますよ。 苦手なタイプの同業者ってどうしても否定したくなりますから。

cheese16
質問者

お礼

ご返答ありがとうございます。 矛盾しているのですが、私もそう思います。でも、我慢にも限界はあります。 「人はそれぞれ」は他の教員が私に対しても言えることだと思います。 私にも、業務上の立場や、取り組んでいる仕事の都合上、身体は一つなのだからできることにも限りがあるのに、事情も訊かず、また、チームのリーダーでもないのに、「普通こうだよね」「何であんたがやらないの?」といった態度を取り、自分の中の杓子定規な価値観で判断して周りの首を絞めます。 確かに一部の生徒にとってはそういった教員でも価値はあるだろうし、意味もあります。 けれど、全体を見ずして一部だけで判断して大きく問題視して騒いだり、実情を知らないのにわかったつもりになって介入してきたりすると、全体の志気も下がるし、それが生徒にも伝わって全体に嫌な雰囲気になり、荒れはじめます。酷い場合は実際に生徒が板挟みになり、苦しむことにもなるのです。そして生徒が教員の方を向かなくなります。言うことを聞かなくなります。 いくら何を伝えても自分の都合のよいようにしか解釈しない。自分が責められるのが嫌だから、うまい具合に他の教員に責任をなすりつける。 そういうことが起こっている以上、生徒にも必ず嫌な雰囲気は伝わり、悪影響になります。 果たしてそれが、「平和で明るい社会」を理想とする学校のあり方でよいのか…。 そういう教員は、たいてい「私は違う」「私はちゃんとやっている」と自分に言い聞かせるだけで、己を省みようとはしません。 学習指導をきちんと行っている先生は立派です。部活動指導を精一杯頑張っている先生も立派です。 でも、自分を省みず胡座をかき「自分悪くない」と自己保身に走り成長しない人間が…教師?とやはり思ってしまいます。 それでも我慢して、それでも受け入れて、「一つの学校=チーム」という気持ちで頑張りますが、やはり疲れます。 その歪みが、物言えぬ苛立ちや憤りとなって人の心に積もっていく末に、犯罪や殺人があると思います。 だからこそ、きちんと「分かり合う努力」をしてほしいのに、そういう教員は、思い込んだら最後、抜け出せないのです。プライドが高いですから。 それでよいのか、本当に気持ちが沈みます。だからこそ、理想の教育についてみなさんのご意見がほしくなりました。 すみません。 ありがとうございました。

cheese16
質問者

補足

補足させていただきたいことが一つあります。文面を読ませていただく限りでは、どうも「熱い先生」と誤解されているのではないかと思いました。確かに、理念の部分、心の中には熱いものを秘めています。しかし私は、それを誰かにぶつけるよりも、授業内容に学問として盛り込むことで昇華をしたり、自分の授業実践の中で、生徒アンケートなどを通してしっかり理論的にも構築していく形を採っています。人柄については直接お会いしているわけではないので伝わらなくて当然とは思いますが、ただ、ご理解いただきたいのは、常に、「今は話しかける時かな?そっとしておいた方がいいかな?」「まぁあの子は多分自分でちゃんと考えられているだろう」「とりあえずは自分の力でやるところまでやってみないとね」など、距離感を図ることには意識を払っています。自分の力でやり遂げたい生徒なら、それを尊重するのもまた教師の役目です。真に理念に厚いからこそ、関わり方のコントロールにまで意識を払えるとも思います。

回答No.10

学校など数十年前になりますが、今にして思うのは「変な理想を持つよりもきっちり『学習することの楽しさ』を教えてくれ」ってこと。知らなかったことを知る、できなかったことができるようになる、それは本来とても面白いことなんだって。 「いろんな選択肢をしめす」ってのは「勉強以外にやることもある」のも確かだけど、教師としてできるのは勉強を教えること。英語が得意なら国際的に活躍できるかもしれないし、数字が強いなら経済分野で活躍できるかもしれない。物理化学などは工業で重要だし、国語に強いなら文筆関係の仕事ができるかもしれない。様々な科目で「勉強ができる」のはすなわち「選択肢を広げる」ということ。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 まさに仰る通りです。学問というのは、世の中の面白さに気づく機会です。 だから、単にテストでいい点を取るだけの勉強だけでなく、その中に「なるほど」「何で?」「そうか…そういうことだったのか」と、後々にだったとしても(というよりおそらく後々思えるものの方が望ましい)思える材料を散りばめた学問を織り交ぜた方がよいと思います。 しかしそういった教材研究を行わず、教科書に書いてあることをそのまま伝えるに留まる教員が、教える方法を追究しないまま「勉強しろ」の一点張りは… 単なる根性論の押し付けでしょうか? 私も個人的には、個人の教育観や教育の理想を熱く語るよりも、学問を通してその先に広がる世界の壮大さを感じさせる教員の方がよいと思いますね。身近な知識から専門的な知識まであらゆるベクトルに繋がっていく知識と情報を散りばめた授業です。そういった教員はやはり「この先生はすごい」と生徒に思わせることができるでしょうね。 そういった教員の「勉強しなさい」ならば、当然響くと思います。 深く共感致しますし、実際、その授業をするべく努めています。生徒のニーズを満たせているかはわかりませんが…。(だから授業アンケートが必要なのです。) 教育理念は教員個人の考えであって、「出し方」は直接的でない方がよい場合は多々ありますよ。 建設的なご意見をありがとうございました。

cheese16
質問者

補足

段々と少し誤解が生じてきたようなので補足を致します。私が述べているのは「勉強しろ」の一点張りで、生徒が学ぶことが楽しいと思えない授業を行っている教員に対しての意見です。学習指導が学校教育の第一であることは当然と思っていますので、一部分だけを過大解釈することは避けていただけるとありがたいです。

  • Dr_Hyper
  • ベストアンサー率41% (2483/6032)
回答No.9

どこの教員か分かりませんでしたのあなたが中学生以降の教員だとして, 同じ教師を志し,それでもバックグラウンドが異なる中で,あなたが憤りを覚えるほどの理想の違いはどこからきているのでしょうか? あなたに必要なのは「教育」ってこうですよね?という同意を求めることではなく,どうして教師である彼は,彼女は,あなたの理解できない信念で仕事を続けているのだろうか?という事だと思います。 そこにあなたの弱点があり,それを分析しきれなければ盲目的に自分は正しいですよね?と言うしかなくなっているように見受けられました。ここに寄せられた「理念・理想」をああ,そうですか。と読むだけではなく,なぜそうゆう結論に至ったのかを想像したり分析したりする事こそが大事ではないかと思うわけです。 例えば, 明らかに進学率だけ気にして授業をしている先生は,どうしてそこに行き着いたのでしょうか? 産まれながらに,それが正しいと思っていたのでしょうか?これまでどんな学生に巡り会い,その結果導かれたのか? それとも教頭先生になりたいから?ではなぜ教育者で出世を望んだのか。分析しても自分の知識能力が低ければろくな選択肢はでてきません。それでも性善説が必ずしもいい思考パターンではありませんが,最初は教育者と目指す人達においては一度はこの観点からあなたの疑問点を分析する必要があるのではないかと思います。これはあなたが先生になりたいと思った原点に返ることも同じです。 その上で,あきらかに間違っている。訂正すべきところが見えて初めて,あなたは教育の理想を生徒に向けられるのではないですか? 例外だらけの教育において,先生が受け入れる視野が狭ければ子供は自然と切り捨てられているとの同じです。 例えばあなたの文面からは,事情があれば進学をあきらめないといけない場合もあるということが読み取れます。 一方強権的にみんな進学。難しい人は私のところに来て下さい。学生ローンでもなんでもいいから進学しなさいというひとがいたときに。 私はどちらが最終的に素晴らしい教育なのか分からないと思いますよ。 親と先生のあいだに挟まれてかわいそうと思う人もいれば,むちゃだと思っていたけどあきらめなかったら博士を取ることができた。 ってこともあります。進学率だけを気にするひとのなかにそのような例外をあなたはどれだけ認識しているのでしょうか? 同僚の考えを深く考え分析できないのに未熟なとてつもない発想力のある生徒達をあなたは理想に導けるのでしょうか? どんなに生徒は思考が未熟でも,尊敬する先生を選ぶ権利はやはり生徒にあります。 担任は選べなくても,中学であれば十数名の先生とは授業等でふれあうわけですし,あなた自身も記憶にあるとおもいますが,良い先生。嫌いな先生いるとおもいます。そんななかで,この先生は変なところもあるけれど自分の本当の気持ちを分かってくれる。 そんな先生に生徒は卒業しても何十年も年賀状を送り続けるものだと思いますよ。 あなたが人間として広く人の思いや理想や感情を理解する姿勢を示すことこそ,あなたの理想に近づく一歩だと感じました。 的外れ名回答ではありますが,ご参考になれば幸いです。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 仰ることは全てわかりますし、お答えしようと思えば全て答える自信もあります。 ただ、個々の例は細かすぎます。 一つだけ明確であるのは、数多ある選択肢の中から、生徒は選択する権利があり、いかに生徒自身が自分自身の「今」と「未来」について考える材料を教師が与えられるかは決め手になるということです。 私が定期的に、一定のタイプの生徒たちから嘆かれるのは、「他の先生に質問してもまともに答えてもらえない」「自分ではわからないから質問してるのに、質問してもいい答えがもらえなくて、結局自分(学校外)で探すしかない」「自分一人で至った結論だと『こういう見方もあったのか』っていう盲点があった時にすごく落ち込みそう。誰かが相談に乗ってくれれば、ある程度これで良かったって納得して進めそうだから先生方に相談したいのに、でも先生に相談してもろくな回答を得られないからガッカリしてる」という内容です。 私は、信念や理想の所在の話をしているのではなく、信念や理想の欠落を是として、深い考えもなくバカの一つ覚えで教育に従事している教員の批判をしているのです。そういう教員こそ「板挟み」を起こします。 正しい生徒理解のためには、思考や認知についての緻密な分析と正確な知識も必要です。例えば、フロイトが述べた防衛規制が、どのような心理状態の時にどのように人の心理に作用するか、などの心理学的な知識を含めてです。 私から見ると、私が批判している教員多くには、カウンセリングマインドの欠落と、認知行動学に対する知識の欠落が如実です。 しかし、大学で教員免許を取得する際に、必ず授業で子どもの発達段階と教育心理学は勉強するはずです。 つまり、教員になって以降の実務経験の中から、本来必要であるはずの知識が抜け落ちている状況です。それは一言で言えば、「その教員個人の勉強不足」に他なりません。 実務も忙しく、研修などで学校を空けることが難しい教員という職種において、教員全員に有効な研修を行うことも難しい現状があります。 それでも研究と修養を積むのが教員だろう、と単純に私が思うだけです。 個々の生徒の好き嫌いはともかくとして、多くの生徒が「この学校の先生はさ~」と口にするような学校の教員全体をどのように思いますか? 今の私にはそのように返させていただくしかありません。 ありがとうございました。

  • Chibi-kko
  • ベストアンサー率39% (93/237)
回答No.8

幸せになる方法を教える、求めることが教育だといいなぁと思っています。 東大を目指して勉強して、いざ入ったら人生の目標を達成してしまったために意欲がなくなり、大学に通わなくなった人の話を聞いたことがあります。 自分を高めるための勉強はするべきだと思います。学校に通っている以内に関わらず、人生を豊かにすると思うので。でも、勉強のために生きることのは、「勉強が好きで好きで仕様がない」と言うのならともかく、違う気がします。 確かに勉強をすることで開ける道もありますが、適材適所という物もありますしね。 でも、学校の評価が「卒業生がどんな人生をその後歩むか」ではなく「就職率」や「進学率」で見られてしまうから、「勉強しろ」と一点張りの先生も出てきてしまうんでしょうね。分かり易い指標ではありますが、そうやって評価する周囲にも問題がありますよね。 私は帰国子女で、英語が堪能でしたが、大学は英語を専攻せずに心理学を学びました。そのため高校の先生方には「もったいない」「お前ならどんな外大でも目指せたのに」と言われ、1月には大学を決めていたのに「センターの英語だけは受けてこい」と言われました。私は英語を勉強するつもりはなかったし、自分の意欲とは関係なしに学歴だけを考えて学部を選びたいとも思っていませんでした。そんな中「英語を活かすために生きようとしなくていい。やりたいことの中で英語を活かしなさい。」と背中を押し、味方になってくれた母にとても感謝しています。 母の最終学歴は商業高校ですが、当時の高校の先生方より、余程出来た考えで私を導いてくれたと思っています。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 情けないことですね…。 私自身も同じような経験があります。 なぜ学校の教員の多くが、学力のみを資質・能力の指標にするのでしょうね…。 「挑戦したいこと」「他に自分を生かせると感じる何か」があるのなら、背中を押してあげられる、そんな教員でいたいです。 卒業していく生徒たちが、自分の選択によって少しでも幸せな自己実現ができるように努力したいと思います。 ありがとうございました。

noname#252159
noname#252159
回答No.7

 社会への適応を考えた上で、個に応じてあげることと思います。  進学・偏差値偏重に悩みを感じておられるようですが、一方で、部活での勝利至上主義が横行している私立学校は勿論、公立学校も珍しくありません。「勉強しろ! 勉強しろ!」が 「勝て! 勝て! 負けるなバカ野郎!」と単語を入れ換えただけの決まり文句で。勉強で将来食べていくか? スポーツで将来食べていくか? どちらも脱線は許されない恐怖経営かもしれませんね。  教育は百年の大計に立つべしと言います。  時代は変わるし、教育課程も変わる、生徒の家庭環境も変わる。教師はその点、そもそも無力なのです。勉強を強制してもらうことを切に願っている保護者とそうでない保護者。勉強しなかったために保護者に経済的負担をしいることもある。  教育は綱引きのようなものとも言います。  良い理想社会の実現を目指し、みんなが『よいしょ! よいしょ!』と綱を引く。力持ちの生徒も、力の弱い生徒も心を一つにして汗を流す。たとえば、算数・数学が苦手な生徒がいたとしても勉強を頑張れば文化社会の底上げになる。でも、これも理想というよりは観念的ですね。  雑感になりますが、Beethoven なんかどうなんでしょうね? 私達はBeethoven の父親にどう意見すべきだったのでしょうか? 私がBeethoven の父親にどんな意見、教育的配慮を要請したところで「『鉄は熱いうちに打て!』に決まっているだろうが!」と耳を貸すことはないでしょう。  確かに言えることは「生徒は教師の背中を見て育つ」ものであり、どの背中に共感を感じるかはつまるところ生徒一人一人なのかもしれません。  どこの学校であっても、管理職をはじめとして各々の教師が教員を志望した動機も多種多様であり、教育観も千差万別の教師集団だと思います。  Cheese16様、理想を堅持され、未来のある若い一人一人の生徒の為にご尽力されることを切に願っております。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 その通りと思います。社会への適応なくして自立は成し遂げられません。 一つ思うことは、向き合う生徒が一人ひとり違うからこそ、教師たるもの、広い価値観を理解するよう努める姿勢は必要不可欠だということです。 教師とて、性格、気質は千差万別ですが、「自分が何を一番大事にしているか」というのは別にして、「自分が一番大事にしていることしかやらない」「それしか方法を知らない」というのはいかがなものでしょうか。 やはりその教師は生徒に「適応」は教えられないでしょう。 教員だって人間ですから、生徒との相性の良し悪しはあります。しかし願わくば、その生徒が「この先生とは合う」と判断した教員から、本当の意味でその生徒のためにはならない偏ったアドバイスを受けないようであってほしい…。 まずは教員同士が「私がダメならあの先生にお願いしよう」と思えるように、一人ひとりの教員に見識を高めてもらいたいものですね…。現状ではそれがとても適いません…。 長い目で見て…やれることをやるしかないのでしょうね。 ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11072/34514)
回答No.6

確かに質問者さんのようなスタンスの教師が本来の「教師」であると思います。しかし現実はどうでしょうか。学校を卒業して社会人となればそんな綺麗ごとは通用しません。社会人では頑張ったかどうかのプロセスはどうでもよく、「売上」などの結果がすべてでそれだけで判断されます。それで出世が決まってしまいます。 「結果でしか自分を見てくれない人が世の中にはいる」ということをあらかじめ学生のうちに知っておくのは充分意義があると思います。歌詞を引用すれば「いいやつばかりじゃないけど、悪いやつらばかりでもない」のが世の中です。学生のうちに理不尽な経験をしておくのも大切なことですよ。だってさ、働いてても「あの理不尽な先生よりマシだ」と思えりゃそれはそれで意義があるじゃないですか。 「ゆとり世代」と呼ばれる子たちがいます。あの子たち、可哀想だと思いませんか。学生時代は小さいときからずっと「結果を求めない」って教育を受けて、いざ社会に出ると突然に「結果がすべて。四の五のいわずに結果を出せ」といわれるのです。それでカルチャーショックに耐えられなくて会社を辞める子が続出しています。 学校というのは社会の縮図でなければならないのですよ。現実社会に理不尽なことがあるのならば、学校にも理不尽は必要なのです。いずれ子供たちは理不尽な社会を生きていかなければならないのですから。 理想を求めるばかりで、現実で生きる術を知らなければ、そういう人たちが共〇党員になってしまうのではないかと思いますよ・笑。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かにそうです。 しかし、社会の構造そのものにも問題はありますし、ではその社会構造を変えるのは誰かと問われれば、それは国民です。じゃあその国民をどこが教育しているのか、ということになります。 労働時間の割合に対しての生産性の低い今の社会構造をどう思いますか?お金をかける箇所を間違えていると思うことはありませんか? 一部の優秀な生徒たちには、世の中の理不尽を理解した上で、それを超越するには「励まし合える仲間が大事」と伝え、送り出します。 今の日本社会は「現実」があまりに劣悪です。 だからこそ教育が重要。だからこそ、一人ひとりの生徒を丁寧に、強く、逞しく、優しく育てなければならない。 私はそう思います。 理不尽な現実に迎合するしか手段を持たず、望ましい方向へ変えていくことができない社会は、破綻します。 破綻させないための教育を、本当に教師が行えているのか、甚だ疑問です。

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (839/4401)
回答No.5

私もぼやいていいですか? >進学率にのみ意識を傾け「勉強しろ」の一点張りで進学を強要する態度の教員、生徒の個別の事情を加味することなく一方的に抑圧するような指導をする教員、そのような教員が絶えないことに、酷い憤りを感じています…。 感じただけですか?寂しいですね。感じたら、とことん話し合って もっと良い教育をするにはどうしたらよいかを見出すべきではないのですか? 中国や韓国、北朝鮮となんで仲良くなれないのですか? 話し合いをしていないからでしょ?あっちはあっち、こっちはこっち。 武力をぶつけて壊そうとしているだけじゃん。 「勉強しなさい」とは私もよく言われました。素直な私は「はい」と言いました。 勉強していればいいんだと思いました。 小中高、どこでも勉強あるのみでした。専門学校もそうでした。 就職したら仕事を覚えるように言われました。 そして私は40歳。遊んでこなかった私は友達もなく、 ましてや配偶者などというものはあるわけもなく。 学校時代、遊び放題だった子たちは結婚し、子供ができ、 私はひとりぼっち。。。この先どうしたらいいの?誰かおしえて。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます…ごめんなさい。 頑張ります。 まだ若手で、先輩の先生方に充分な意見も言えない、変えられない…。「生意気だ」といじめられるからです。 言い訳になってしまいますが、それでも自分の授業の中でだけは、生徒に寄り添い、「今は全部のことを大事にしろ」と、生徒とたちとつくり上げていく生活を大事にしています。 嘆くだけじゃなく、理想を語るなら、どこまでもその理想を現実にできるように努力してこそ立派な教員、ですよね…。 負けちゃいけない。真面目に大人の言うことを聞いていた子どもが将来過去を悔やむような結果にさせてはいけない。 職務の重要性を理解し、周りをも変革できるだけの力をつけなくて何になる。 そう思いました。 弱音なんか吐いてちゃいけませんよね。それでも強く、進んでいく教師だからこそ「理想の教育」を実現できるんですよね…。 甘えていてごめんなさい。渇を入れていただいてありがとうございます。

  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (131/637)
回答No.4

教師は教育理念に基づいて教育するべきだと最近よく思います。 サービス業的側面が強調されすぎている気がするので。 親のニーズや社会のニーズに流されず、 子供の光と影に向き合っていくものだと思います。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 その通りです。 教育はサービスではなく、人と人との通い合いと、そのための手段を教えるものです。 生徒に対して「サービス」を提供してしまったら、その生徒たちは、自分では何もできない、他人にやってもらうのが当たり前の人間になってしまいます。 それでは「自立」とは程遠いです。 サービスではなく本当の教育を多くの方に支持していただけるように、頑張らなければなりませんね…。 ありがとうございます!

回答No.3

おっしゃるように教育とは、生徒がそれぞれの人生を豊かに生きられるような途を探す手助けになるのが理想だと思います。 ですが、それは現実を見ていないとも思います。 学校経営は進学率で決まるものと考えても良いでしょうし、それならば生徒に「進学しろ」と勧めるのも極当たり前の事と思います。 なので、いち教師は立場的に矛盾を強いられて悶々とされるでしょうね、仕方ないです。

cheese16
質問者

お礼

ありがとうございます。 その通りです。 しかし…実際のところは、私のような教員の方が、国公立への合格者を出しており、「勉強しろ」の一点張り教員の方が「一人ひとり」への対応も手薄なため、進学実績も残せないのが事実です。 そのような非合理かつよい結果を生まない教員の存在を、どのように受け流せばよいのでしょうか…。 悲しくなります。 現実の問題は現実のものとして向き合います。やる気がある子には勉強させ、進学実績も伸ばすのが学校のあるべき姿! 要するに私は、「あなた、何もしてないよね?」と、その教員たちに言いたいだけなのだと思います。 愚痴になってしまってすみません…。 ありがとうございました。

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