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道徳教育
ある女性の教育関係者がパラオ大統領から、戦前の日本の教育はすばらしかったが、戦後のアメリカの教育のため子供の道徳が駄目になってしまたので戦前の道徳の教科書を貸してくれないかと申し入れがあり、しかし入手できなかったので、彼女自身で15項目の要点を纏めた本を作成して送ったそうです。日本でも利用出来るのではないかと思い、文部省に利用してくれないかと相談にいくと、このような強制的ことは教える事は出来ないと断られたそうです。例えば親に孝行しましょう、とか 弱い者苛めはやめよう、など強制になることは教えられないそうです。 子供には権利があり自発的に行う事に手助けさせるのが教育であるそうです。日本の子供は生まれながらにして人間として出来上がっていてとして教育しているらしい。昔は子供は教育しなければ動物とおなじで教育されて始めて一人前の大人に育っていくとされたのが、ここまで変わっていたとは知りませんでした、これでは苛めはなくならないのが当たり前です。そこで皆さんに質問です、パラオ大統領が戦前の日本の道徳教育を評価しているのだから、教育委員で検討し強制的でも遣るべきだと思われませんか。
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- 津田 正顕(@nextbaron)
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失礼致します。 kodanさんが求めておられる結論は既に提出されているようですが、追加意見として記入致します。 ・強制が必要な子供は小学5年生くらいまで。 先生の教える能力・地域の子供を教育する能力等に応じて高校3年 生まで延長あり。 ・教育とは最も健全な社会を作るための「洗脳」である。 洗脳と言えば良いイメージを持っていない人が多いと思いますが、 「挨拶をしましょう」「友達を大切にしましょう」と子供に伝え、 継続的に納得させ、あたかも自分が昔から考えていたように思わせ れば、それは洗脳です。ただし、専門的な意味の洗脳は、過程に 物理的暴力と精神的圧迫が入るため、健全な手段とは言えません が。 教育はそもそも強制力の塊です。自発性・自主性を育てるために、 最低限のマナーを教えそのマナーが身につくまで強制が必要です。 歌舞伎の「守・離・破」という言葉が教育に対して最も参考になる 言葉と思います。 ・文部科学省や類する機関では健全な施策は展開できない。 エリート官僚は減点主義に左右されている、ある意味で非常に弱い 人々です。加点主義に変更できない現状では、彼らに新しい施策を 期待することは、いじめを受けて弱っている子供が勉強することを 期待するようなものです。 私の意見は以上です。
現在、子どもの道徳心の低下は確かに眼につくものがあると思います。 公共の場でのルールを無視したり、いじめが大人の目に見えない形になってきていることは事実だと思います。 しかし、あくまで一個人としての意見ですが、私は戦前の道徳教育「修身」に戻したいとは思っていません。 「親孝行」という概念が本当に浸透していたならば、「戦争に行って親より先に死ぬ」なんて親不孝なことはできないのではないかな、と素人考えで思います。 「修身」は結局国家にとっていかに利用できる人材を育て上げるか、が重要であって、個人の考えや価値観をないがしろにしているように思われるのです。 「弱いものいじめは卑怯だからしない」という精神は確かに必要ですが、それが「修身」で身についたのかは私には一概に言えないと思います。 戦前の日本人が朝鮮人や中国人に差別を意識をもっていたことは周知されていますが、自分より格下だと思っている人々を差別することが「弱いものいじめは卑怯だからしない」という精神にのっとっているとは思えません。 日本国内でも障害を持っていたり、病弱だったために軍役につけない人は厄介者扱いされたり、いじめられたりしていたようです。 戦前の道徳教育「修身」が問題視されるのは、このような「国家のための道徳」が問題だと考えられているのだと思います。 また、現在の道徳は確かに至らないところもあるのでしょうが、「強制」では道徳性は身につかないだろうと思います。 「親孝行」では「親だから大切にしろ」といったら、自分が虐待されていても親だから大切にしなきゃいけないと思うかもしれません。 そうではなく、自分の親が自分のためにどれだけ愛情を注いでくれたか、経済的にも支えてくれたかなどを知ることによって、「ああ、親を大切にしなきゃな」と理解するように導く教育が現在の道徳だと思います。 長々と、素人考えでどうもすみません。 あくまで一個人の、参考として、このように考える人間もいるのだと思っていただけると幸いです。
- Ama430
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>戦前の教育のどこが悪くて何を変えようとして、現在のような滅茶苦茶な教育になったのですか。 戦前の教育の最大の問題点は、国家(天皇)に奉仕する国民をつくるための教育がメインであったことです。 戦後は、個人の「人格の完成」を目的とする教育に転換させました。 しかし、アメリカ自身の都合で、朝鮮戦争のあたりから、次第に「また国家のための教育にしたいね」という流れが始まります。 経済界の要請もあり、テストの点数で人間にレッテルをはる「受験教育」が拡大していきます。 「もっと個人の眠っている力を引き出すような教育を」という世論と、軍事的・経済的な「臣民教育復活」の流れとのせめぎ合いの中で、様々な「教育改革」が行われてきました。 現在は、財政破綻を福祉・教育・医療の切り下げで乗り越えようとして「構造改革路線」が進められています。 その中で、学校の内外での子ども達のストレスは、国際水準から見て異常なほどに深刻化し(国連から「過度に競争的」と指摘され続けています)、いじめ・不登校・校内暴力などの背景になっていると思います。 表れも、原因も、対策も、御指摘のような単純なお話では無いということを繰り返し申し上げておきたいと思います。
教えてますよ、今でも。全ての子供が受けてるはずの小、中学校ではそういう「人のいやがることはしない」だの「お年寄りに親切に」だの公共のマナーを守ろうということで、さらに今風に「携帯のマナー」も取り上げられます。 でも、なぜ、全ての子供に定着してないか。それは結局家庭の教育力に違いがあるからです。戦前の道徳を受けた人たちの間でもいじめや犯罪があったのは、その人達が置かれた環境(家庭、地域)にその人をまっとうに育てる力がなかったからだと思います。今も同じです。「家庭の教育力、地域の教育力」と言われています。教育委員会が強制したからってどれだけ効果があるかわからないって言うのが文部科学省の方の考えだったのではないでしょうか。 ちなみに少年犯罪が最も多かったのは終戦後すぐです(戦前教育を受けてるのにね)。今はすぐ明るみに出て問題視されてるから多いように思いますが、悪質ないじめやそれによって命を落とした子も戦前でもいたそうです(体験談を聞いてます)。
- Ama430
- ベストアンサー率38% (586/1527)
No.1です。 限られたわずかな文字数では、現代への教育の流れをおおまかにでも振り返ることは難しいと思います。 それでも、少なくとも、武士道を教えられていた人たちがきわめて少数派であったということは確実です。 そして、200年間積み上げた主流の教育理論というものはないと思います。 さらに付け加えるならば、急激な教育環境の変化に対応して、すべての場面で解決策を提示する教育理論も、存在していません。 教育改革の失敗を肯定していると誤解されているのでしょうか。 前レスでは、そういうことについてはコメントしていません。 子ども達には発達段階に応じた課題が必ずあります。 それが何かは意見の分かれる部分もあるでしょう。 経験的にわかっていることは、それを乗り越えようとする過程で、失敗することも多々あるということです。 ここからは個人的な確信を述べますが、それらを否定的にとらえて過保護に先回りせず、失敗体験から子ども達が教訓を学ぶというスタンスがきわめて重要であることを御理解いただきたいと思います。 大人の仕事は、危険性の高い失敗をさせないことであり、一定の管理は必要です。 しかし、そのことと、封建的家父長制を前面に押し出した教育勅語のような徳目注入は全く別の問題です。 不登校や校内暴力の別の顔である現代的ないじめ問題は、それほど単純なものではありません。 しかし、教育再生会議は(教育の専門家がほとんどいないので)質問者の方の御意見に近い路線を打ち出してきています。 教育理論に限らず、すべての科学は、事実から出発し、事実に影響力を与えられるかどうかで検証されます。 教育再生会議の提言こそ、思いつきの施策で子どもを実験に使うような扱いであることを大変残念に思っています。
- Kitami
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「自発的」「自主性」・・・とても聞こえが良い言葉です。しかし、自発性や自主性を発揮するには価値判断する力が十分にない者には難しいことです。小学生以下(個人差有り)の子どもは情緒を豊かに育む重要な時期で、「空が青いね」「山が綺麗だね」「△△して○○ちゃんは優しいねー」「きつかったろう、でもよく頑張ったね」「あいさつを元気にしようね」「ごめんなさいはどうしたの」などかなり感覚的なことを含めて「教え込み」、「しつけ」をして行動面を強化しています。これらのことを否定して、やれ「個性」「自主性」「自発性」を重視といって、保育園の行き過ぎた自由保育、子どもの言うままにして我慢=ストレスとして対応するやり方などはやはり間違っていると思います。小中学生でも「弱い者いじめは卑怯だからしてはいけない」「思いやりをもとう」このようなことを教えていかなければ、いじめなどは絶対なくならないと思います。教育にはある程度の強制力があります。誰もが認める価値観は絶対に伝えないといけないと思います。「人をいじめたらだめ」という価値観はあなたの自由ですよなんてことはありえません。戦前の修身の授業のことがあり、どうしても戦前の教育はすべて間違っていたとする一部の団体、政党、マスコミ等の運動ため、否定する必要がない価値観までも否定されてしまっています。(もちろん修身の中には問題となる価値観も多いのですが。)このように考えますが、いかがでしょう?
お礼
御回答有難う御座います。子供が自殺する報道を聞くにつれ、悲しくなり、対処療法では解決出来ない問題と考えています。かての日本の教育は武士道が基本になっていたはずです。昔の子供に苛め自殺が無いと判っているのに好いことが何故出来ないのか理解できません。
- iia_aij
- ベストアンサー率7% (1/13)
思います。 戦後、占領軍が指示した米国式教育が「生活単元学習」というものです。 かつて米国では、知識は教えられて頭に蓄えるものではなく、子どもたちが自ら考え問題を解決していく過程で習得するものだという教育論が主流でした。 しかしこの非管理教育、子ども中心主義は限界があり、これをベースとした方式は失敗しました。 このツケは大きく、何十年も立ち直れませんでした。 教育荒廃の流れを変えたのはレーガン大統領でした。 日本本来の教育に学び、生徒に時間厳守、規則遵守、静粛などを日常生活に定着させていくことで、主体性・価値観を育てたのです。 占領軍の影響で日本は教育勅語を捨てさり、師範学校を廃止しました。 しかし、代わりに与えられたこれら(自主性尊重(生徒主役)の教育、強制・管理・抑圧の否定、平等主義…)美辞麗句は、生徒に大好評で、先生からも「指導をしなくてもいいからラクだ」と歓迎されました。 その結果、秩序の崩壊、モラルの低下を招くことになったのです。 管理指導なしで独自に得た主体性のまま大量消費文化に放り出されると、簡単に拝金主義や享楽主義に染まってしまいます。 社会が是としている共通の価値観やモラルを強制的に教え込む。 努力や忍耐を認識させ、克己禁欲によって自己を相対化させる中で主体性を形成させる。 こういうのが必要だと考えます。
お礼
御回答有るが問う御座います。教育勅語の復活も出来ずに経済に事のみに関わってきた保守党の責任が大きいと考えています。かって子供に教えてきた「弱い者苛めは卑怯だ、卑怯は恥だ」「義お見てせざるは勇なき也」武士道を何故教えることが出来ないのか、嘆かわしいことです。
- Ama430
- ベストアンサー率38% (586/1527)
思いません。 徳目の教え込み不足でいじめが多発しているわけではないのです。 むしろ、「徳目教え込み型」の学校で、不登校・いじめが多いということを御理解下さい。 「子供は教育しなければ動物とおなじで教育されて始めて一人前の大人に育っていく」は今でも変わらない真理でしょう。 しかし、教育の方法はきわめて様々です。 文部官僚の受け答えは「自発性」のとらえが一面的で問題を感じられるのも無理はありません。 けれども、主体性・自発性の尊重は、「生まれながらにして人間として出来上がって」いるからではなく、「納得ある失敗から学ぶ」というスタンスなのです。 そして、それだけが教育の全てでないということも、また当然のことと思います。
お礼
苛めを無くすなど考えることは無駄です。昔から苛めはあります、私も苛めに会ったり、苛めたりしました。しかし自殺するなどしません。何故だと思いますか、昔の教育は強い子供を育てようとしてきたからです。先生が子供と友達関係では教育など出来ません。貴方が仰る失敗から学ぶなど、今頃失敗していてどうするんですか、日本の子供は江戸時代からどのように教育すればよいか200年以上の実績から結論がでえいなければならない筈です。子供をどのように教育すればどうなるか、など実験につかうことなどやめてほしいものです。
お礼
戦前の教育のどこが悪くて何を変えようとして、現在のような滅茶苦茶な教育になったのですか。たしか教壇を無くし教師と子供を友人のような関係にして、教師は尊敬される立場を拒否して、卒業式の時「仰げば尊し」の歌を歌わせなくさせたそうです。かって東大卒の父親が息子を 友だちのように付き合い、バットで殴り殺された事件がありました。 そのように育てると駄目になる事は昔から判っていたから、そのような 育て方をしなかったが、しかし文献として残っていないから実験してみて親子が犠牲になったと言ふことでしょう。いずれにしても教育は強制が伴わなくては機能しません。